弁護側の証人/小泉喜美子
まず、「序章」の冒頭の1行には“わたしたちは、面会室の金網ごしに接吻した。”
(9頁)とあり、その後“わたしたちは鉄格子の内と外とにへだてられた。”
(18頁)とより具体的に状況が説明されています。が、夫(杉彦)と妻(漣子)のどちらが“鉄格子の内”にいるのか――どちらが死刑を宣告された被告なのか――は明確にされないまま。というわけで本書には、杉彦と漣子の立場を誤認させる叙述トリックが仕掛けられています。
例えば、「序章」の“あれが人を殺した男の眼だろうか?”
(10頁)という漣子の独白などは実に巧妙。この“人を殺した男”というフレーズは、杉彦が真犯人であることを漣子が見抜いているために出てきたもので、自問の後に続くのは本来“とてもそうは見えない”
といった単なる感想にすぎないはずなのですが、それが(“そんなはずはない”
などの否定文が省略された)反語表現のように受け取れることで、あたかも(杉彦が“人を殺した男”だという)世間一般の認識を否定しているかのような印象が生じています(*1)。
さらに、杉彦の“今となって、ぼくらになにができるというんだ?(中略)今さら、きみ一人が何を……”
(11頁)という、“自身は何もしない”ことを表明する酷薄な言葉に対して、漣子が“だから、もうだいじょうぶよ。”
や“信じていてね、罪もない人を死刑にすることはだれにもできないのよ”
(いずれも12頁)といった強烈な皮肉(*2)の込められた台詞を返すというやり取りが、(“鉄格子の内”にいるために)“自身は何もできない”ことを嘆く杉彦を漣子が元気づけているかのように読めてしまうのも秀逸です。
続く本篇では、杉彦を“いのちより愛している”という“事件以前”の漣子と、杉彦が真犯人であることに気づいた“事件以後”の漣子とを交互に描いていくことで、両者の心理を読者が混同するように仕向け、漣子が誰の無実を証明しようとしているのかを誤認させる仕掛けが施されています。特に、「第七章」で杉彦に容疑が向かないよう証拠隠滅までしている漣子が、(やむを得ないとはいえ)懸命に杉彦の罪を証明しようとする羽目になるとは、なかなか考えにくいものがあります。またそのために、“もし、わたしの申し上げたことがすべて真実だと証明されたら――(中略)主人は――いのちは助かるでしょうか?”
(204頁)という漣子の言葉が、杉彦を無実の罪から救おうとしているような印象を与えている(*3)のが実に見事です。
そしてまた重要なのが、“事件以前”のパートを読む限りは漣子が疑われる根拠がまったく見えないという点で、三人称とはいえ漣子の視点で描かれているために犯人でないことは明らかですし、決め手となった証言を“彼女は自分の面前ではただの一度も聞かずにいた”
(87頁)こともあって、漣子自身が殺人犯として逮捕されるという可能性が完全に盲点となっているところがよくできています。
もちろん、本書の全編にわたる曖昧な記述、とりわけ「序章」の判決の中で“……を死刑に処する。”
(14頁)と被告の名前が伏せられている点などは、叙述トリックの存在をあからさまに示唆しているともいえるのですが、しかしそれはあくまでも示唆にとどまる――どちらとも解釈できる――ものであって、続く本篇を読んでいくうちに眩惑されてしまう可能性も高いでしょう。
加えて本書では、““弁護側の証人”が誰なのか?”という興味が盛り込まれ、それが一種の“煙幕”となっているのも見逃せないところです。実際、「第十一章」で緒方警部補が“弁護側の証人”として法廷に登場した場面(205頁)では、証人があまりに“そのまま”なので唖然とさせられた一方で、被告の正体という最大のポイントから巧みに目をそらされていたことに気づいてうならされました。
とはいえ、題名にもなっている“弁護側の証人”は単なるミスディレクションではなく、本書のテーマ――“事件の捜査にあたった警察官は、みずからの誤認逮捕をみとめてはいけないのか?”
(209頁)という問い、そして“無実の人を死刑にしないことは、願いではなく義務である”という宣言(203頁)――を浮かび上がらせるためのものと考えるべきではないでしょうか。
“あれが人を殺した男の眼だろうか?”と自問する(236頁)という、心憎い演出が何ともいえません。
*2: この時点で漣子は、杉彦が漣子に罪を着せた真犯人であることを見抜いているわけですから、
“だいじょうぶ”や
“信じていてね”といった言葉の奥にあるのは、杉彦に対する皮肉に他ならないでしょう。
*3: 実際には、
“(刑は免れないとしても)いのちは助かるでしょうか?”という趣旨でしょうし、それを踏まえれば、緒方警部補の
“そんなにもご主人を愛しているとおっしゃるのですか?”(204頁)という問いかけの意味も違ってきます。
2009.05.21読了