ミステリクロノ/久住四季
まずリザレクター盗難事件については、一旦は日置教諭が犯人だという結論が論理的に導き出されながら、そこに見落とされていた二つの手がかり――ポシェットの留め紐と、真里亜がポシェットを預ける時の様子――が付け加わることで結論がひっくり返っています。多重解決の基本的な手法ではあるものの、この逆転の構図自体はなかなかよくできているといえるのではないでしょうか。
特に後者の手がかりは、(推測可能になるとはいえ)ポシェットの中身を直接知らせるわけではないので、推理の際に見落とされても不思議はないように思えます。逆に前者はやや微妙で、留め紐が編み上げられて結ばれた状態が基本であるために気づきにくいようにも思える反面、ポシェットという“密室”からの消失と考えれば“出入り口”の検討が重要になるはずで、それを見落とすのは、探偵役としては大きなミスであるようにも思えます。
実のところは、新たな手がかりを考慮するまでもなく、日置を犯人とするダミーの解決には大きな問題があります。作中ではまったく言及されていないのですが、そもそも日置はポシェットの中身を知り得たはずがないのですから、本来は“知らないものを盗めるはずがない”
(221頁)という理由で(この時点での)十和子と同列に扱われるべきなのです。
“彼ならば、そこでポシェットを開き、中のリザレクターを確認し、奪うこともできたはずだ。”
(224頁)と指摘されているように、日置には絶好の機会があったことは確かですが、十和子の方も犯行の機会がなかったとされているわけではありません。結局、“知らないものを盗めるはずがない”
というのは動機の欠如――盗みにつながる行為をする理由がない――を問題にするものであって、中身を知らない日置も十和子と同様に“ポシェットを開き”
などはしないと考えるべきでしょう(*1)。逆に、例えば真里亜がリザレクターを持ち歩いているという推測に基づいて、日置が中身を知らなくともポシェットを開いたと考えるならば、同じ理由で十和子も除外できなくなります。
このような問題はありますが、真里亜と日置が戻ってきた時にリ・トリガーが反応したという事実から二通りの解釈を引き出しているあたりは非常に面白いと思いますし、“ああ、帰ってきたなと思って顔をあげると――”
(190頁)という一文を挟んでワンクッション置いてあるところもなかなかうまいと思います。
もう一つのポイントである、盗んだリザレクターの意外な用途もよく考えられています。
実は第四章で描かれたバレー部の練習のあたりで、十和子が日置相手に妊娠したことを疑ってはみたのですが、最大30日というリザレクターの限界を考えると妊娠を“取り消す”ことができるとは思えず、引っかけだと判断してしまいました。まさかあれほど壮絶な“裏技”があったとは……。
個人的には、ネタバレなしの感想にも書いたようにリザレクターの効果を未来へのタイムスリップととらえてしまったのも敗因です。リザレクターの効果を“使用後”の人物の視点からみれば、未来にいる“使用前”の人物の行為によって強制的に未来へタイムスリップさせられるという現象になるわけで、妊娠以前の状態まで“戻る”ことができる――妊娠以前の十和子がタイムスリップさせられる――ならともかく、タイムスリップの時点ですでに妊娠していれば手の施しようがない、と思い込んでしまいました。
作中では“生命のない物体やすでに死んでしまったものに対しては効果がなく”
(61頁)というルールがはっきりと示されているわけで、すでに死んでしまった生命(個体)は過去からタイムスリップさせてくることができないと考えれば納得できます。
気になるのはやはり、十和子が“子供を消す”という目的をすでに遂げていたのかどうか、というところです。
第五章のラストでリ・トリガーの作用を受けた十和子ですが、特に重傷を負っている様子はありません。しかし、“事前に一度は必ず、リザレクターが信用に足る代物かどうか、自分の身をもって確かめたはずだ。”
(263頁)という慧の推測には十分に説得力があるので、リ・トリガーによってリザレクターの効果が一括して取り消されることを考えると、十和子が本来の計画を実行したかどうかは定かではありません。
ここで問題となるのは、“その両手は、お腹の上に重ねて置かれていた。冷たい雨に打たれながら、けれど、そこにだけは熱い何かがあるように。”
(276頁)という描写や、“これからどうするべきかは、二人で話し合って決めるさ”
(280頁)という日置の台詞で、これらは本書の結末の時点で十和子が妊娠状態にあることを示唆しているように思われます。そうだとすれば、今度はリ・トリガーが効果を発揮する対象が焦点になってきます。
慧や十和子が裸になっているところをみると、リ・トリガーの効果はリザレクターと同様に生命のない物体には及ばないと考えられます。しかし、クロノグラフの作用を受けた後に死んでしまったものについては、作中の説明や描写からは判然としません。本書の時点では、クロノグラフの効果を取り消すことで死者を復活させることができる可能性もないとはいえないのではないでしょうか。
ただ、いずれにしても“二メートル圏内”
(116頁)というルールがある以上、リ・トリガーによって死んだ胎児が復活した可能性はない(*2)と思われるので、結末の時点で十和子が妊娠状態にあるとすれば“胎児殺し”は実行されていなかったと考えていいのではないでしょうか。
ところで、リザレクターの効果には最大30日という制限がありますが、リ・トリガーと組み合わせることでその制限を取り除くことができると考えられます。一度リザレクターを使っておきさえすれば、その後いつでもリ・トリガーによって最初にリザレクターを使おうとした時の状態に戻ることができるのですから、事実上制限はなくなるはずです。
“トイレでポシェットは誰にも開けられなかったということ。開けられなかった以上、日置教諭にポシェットの中身を確認する術はない。確認していない以上、彼はポシェットの中にリザレクターがあることを知らなかった。――知らないものを盗めるはずがない。”(235頁)というロジックがおかしいことも明らかでしょう。そもそもトイレでポシェットが開けられなかったのならば、“日置には犯行の機会がない”で終わりなのです。
*2: 二メートル圏内に胎児の死体があった――十和子が持ち歩いていた――とは考えられないでしょう。
2007.08.14読了