どこの家にも怖いものはいる/三津田信三
まず二つ目の話、「異次元屋敷」の“少年の語り”が、実は“死者の語り”だったという真相が面白いところで、“問題の速記原稿の成り立ちが、とても変わって”
(29頁)いるという説明も納得。一種の叙述トリックといってもいいのかもしれませんが、“紙片に書かれた少年の体験以外の情報”
(30頁)が重要であることはほのめかされていますし、屋敷に入る際の“呆気に取られる程、すんなりと侵入出来て仕舞った。”
(128頁)というのもいわれてみれば不自然。強烈な印象を与える結末も、確かに尻切れとんぼではありますし、長持ちの中で“割れ女”に見つかった際には逃れようがなかったでしょう(*1)。
さて、本書のメインの謎となっている五つの実話怪談の“ミッシングリンク”ですが、それぞれの怪異に似たようなところがあるだけに、怪異の主がすべて同一の存在だったという“真相”は、多くの方が予想するところではないかと思われますが、「向こうから来る」での“七、八歳くらいの子ども”というミスディレクションはよくできています(*2)。
そして怪異の主が同一だったと考えると、場所もすべて同一という可能性も頭に浮かんでしかるべきところですが、ミステリとしてはかなり反則気味の強力すぎるミスディレクションが仕掛けてあるのに苦笑。それを乗り越える三津田信三の推理は、突破口となる「或る狂女のこと」の場所の特定が“後出し”の資料を手がかりとしているところはさておいて、“なぜ偽の地名を書いたか”の説明はホラーならではといえるように思いますし、“中国地方”を選んだ理由も納得できるものがあります(「光子の家を訪れる」も同様)。「向こうから来る」での“ここも近畿と言えば、まぁ近畿ですわ”
という言葉はかなり強引ですが、それが“おかしな返答”
(いずれも35頁)であることは記されているので、まあ許容できるところでしょうか。
いずれにしても、『どこの家にも怖いものはいる』という題名からしてミスディレクションになっているわけで、実に大胆かつ豪快な仕掛けであることは確かです。
*2: ただし、“キヨちゃん”という名前――世智が母親の名を口にしたというのは、
“産後の肥立ちを待って彼女(注:亀代子)は瘋癲病院に入れられた。”(297頁)と、世智が生まれてからほとんど接点がなかったことを考えると、やや微妙なところがあるようにも思われます。
2014.09.22読了