金時計/P.アルテ
La montre en or/P.Halter
まず〈現代の物語〉をみてみると、映画探しに始まって少しずつ過去が掘り起こされていき、リタとラングロワ氏の不倫を経て、ラングロワ夫人の謎めいた死が浮かび上がってくる“スリーピングマーダー”ものとなっていますが、映画探しはあくまでも“おまけ”で、ラングロワ夫人の不倫相手だったモロー博士を追及することこそが、セリアとアンドレの真の狙いだった(*1)というのが面白いところです。
しかし二人が追いつめたモロー博士ではなく、セリアの父であるラングロワ氏が真犯人だったという皮肉な真相がよくできています。ブーメランのトリックには苦笑を禁じ得ませんが、ある意味アルテらしいトリックともいえますし、子供の頃のブーメランの思い出(54頁)やラングロワ夫人の“大嫌いな蝙蝠”
(213頁)など、一応の伏線は張ってある(*2)のでまずまずといったところでしょうか。
ジュランスキー教授がリタの弟ハインリヒであり、クリスティーヌがリタその人である――というのはさすがにセリアの妄想でしょうが、モロー博士も含めて三人を立て続けに殺害したセリアの狂気は、何とも凄まじいものがあります。そして逃走の果ての自動車事故という結末は、直前の〈過去の時代の物語〉でのダレンとアリスの幕切れと歩調を合わせたような……というだけでなく、金時計の針の逆転とともに〈過去の時代の物語〉へ――ダレンとアリスが出会った列車事故へとつながる見事な演出が、非常に印象的です。
*1: 読み返してみると、“あなたの話に、博士はうまく食らいついてきたってことね”
(50頁)というセリアの言葉で、“モロー博士狙い”であることが匂わされています。
*2: ラングロワ氏がブーメランの練習をしていたというのは、アンドレが“たった今思い出しました。”
(262頁)というように“後出し”ではありますが。
〈過去の時代の物語〉の方では、動機からみて最有力容疑者であるダレンに鉄壁のアリバイがある(*3)という困った状況ですが、いずれにしてもメインの謎である“雪の密室”が立ちはだかっているのが難題です。しかして、その“雪の密室”のトリックは思いのほか手が込んでいて、三つの偽装が組み合わされているのが実に巧妙です。
まず(実行された順序とは違いますが)、アリスがヴィクトリアの死体を演じた被害者の偽装によって成立しているのが、磔刑像から離れた場所でシェリルに死体を発見させる現場の偽装で、実際の現場とは離れた位置にある偽の現場(*4)を用意することで、“雪の密室”を自由に(?)演出することが可能になっているのがまず注目すべきところ。加えて、レヴン・ロッジからの足跡を一度分断する“ブラックボックス”となっている、林の配置(図1;85頁)が絶妙で、これはもう舞台設定の勝利といえるでしょう。
そしてそれらに支えられた足跡の偽装は、アリスがシェリルのブーツとヴィクトリアの靴をはいた偽装(*5)もさることながら、死体を背負っていったダレンがアリスを背負って戻ることで、見事に“往路と復路でまったく違いはありません”
(87頁)ということになっているのが秀逸です。最終的には、アリスによる犬の散歩という名目で、偽の現場につながる足跡が不自然でない形で隠滅されてしまうのが豪快。ということで、全体として非常によく考えられたトリックだと思います……が。
*3: 当初は怪しかった今回のアリバイが成立し、鉄壁と思われていた過去の事件のアリバイが崩される、というのがなかなか面白いと思います。
*4: 有名な海外古典を嚆矢として、数多くの作品で用いられている原理に基づくものなので、このあたりまでは類例があるかもしれません。
*5: ヴィクトリアの足跡については、事故死に見せかけるのであれば、普通に歩くだけでなく転倒した際の足跡も残しておく方がベターですが、先にヴィクトリアの死体を地面に横たえておいて、その上にアリスが倒れ込むようにすれば何とかなるでしょうか。
ここで気になるのは、オーウェンによる謎解きの手順です。“雪の密室”の真相は、物語の最後の最後、「エピローグ」でようやく明かされますが、ここでオーウェンがどのように真相に至ったかがはっきり示されないまま終わるのは、少なくとも探偵役が登場する作品では異例中の異例。実際のところ、真相が明かされてみると“それ以外には不可能”と納得はできるものの、その真相を導き出せる手がかりがない――というのは、オーウェンが真相を警察に告げることなく、犯人への警告だけで済ませていることにも表れている(*6)といっていいでしょう。
例えば、オーウェンが最後に指摘する“靴の一件”(283頁~284頁)などは、明かされた真相に符合する事実ではあるものの、そこから真相に到達するのはまず不可能(*7)。また、“磔刑像につまずいた”
(67頁)というダレンの言葉はいかにも怪しく、“そこに磔刑像がない”ことを疑わせるものではありますが、しかし他には“アリスと犬が散歩した跡”
(85頁)があるだけなのが困りもの。つまるところ、オーウェンがいうように“ダレンとアリスが共犯だという事実”
(283頁)がない限り、トリックを解明するのは著しく困難ではないかと思われます(*8)。
〈ダレンとアリスの共犯〉を前提とすれば、ダレンのアリバイが問題にならなくなるのはもちろんのこと、(前述のダレンの言葉と合わせて)“アリスと犬が散歩した跡”が偽の現場だったことに思い至るのは可能だと思いますし、あとは“犯人と足跡のパズル”なので何とかなりそうです。問題は、〈過去の時代の物語〉をみても〈ダレンとアリスの共犯〉を事前に示唆する記述が見当たらず(*9)、読者からすると(*10)「23 最後のチャンス」になって唐突に明かされる形になっている点で、フェアプレイの観点では難ありといわざるを得ないのではないでしょうか。
そこで重要になってくる(のではないかと思われる)のが〈現代の物語〉の役割です。〈過去の時代の物語〉でも印象的な小道具として使われている金時計(*11)へのアンドレの言及(31頁)に始まり、磔刑像に対する心情(118頁・144頁)が示され、モロー博士との会話で満を持して(?)“前世”
(194頁)に触れられ、さらには(日本語の読者にはわかりにくいですが)セリア(CELIA)とアリス(ALICE)/アンドレ(ANDRE)とダレン(DAREN)という名前のアナグラム(*12)で暗示されている、二人の輪廻転生――これを作中の事実として受け入れると、“雪のなかで(中略)あなたたちは死体を運んでいた”
(224頁)というジュランスキー教授の言葉は、アンドレとセリアの“前世”、すなわちダレンとアリスの犯行を描写したものと解釈することができるでしょう。
そうすると、読者は作中で明かされるよりも前に〈ダレンとアリスの共犯〉に気づくことができるので、そこから“雪の密室”トリックまで解明することも不可能ではありません。つまり〈現代の物語〉は、通常の意味での手がかりを用意することが困難な〈ダレンとアリスの共犯〉を示唆することで、多少なりとも(?)〈過去の時代の物語〉でのフェアプレイを担保するために、丸ごと“枠外の伏線”として用意されたものだと考えていいのではないでしょうか。……いや、一般的な伏線とは大きく異なることもあって、読んでいる途中でこれが伏線だと考える読者は一人もいないと思うのですが……(*13)。
伏線らしく感じられない理由としては、(本格)ミステリでは“合理的に解体されるべき幻想”としての扱いが大半であるオカルト要素によること、そして〈現代の物語〉の方が当然ながら作中の時系列で後になること、の二点が考えられます。しかしよく考えてみると、前者については、〈過去の時代の物語〉でもチャンドラの言動などでオカルト要素の実在が匂わされている(*14)といえますし、後者については、前述のジュランスキー教授の言葉はいわば“過去の出来事の目撃証言”(*15)であって、因果関係が“逆転”しているわけではないのですから、何ら問題ないといっていいでしょう。
叙述トリックと同様に、読者だけに向けたメタレベルの仕掛けであるため作中で説明できないこともあって、かなりわかりにくくなっているきらいはありますが、作者の狙いはおそらくこういうことではないでしょうか。
*6: オーウェンは何だかんだと理由をつけていますが、ダレンとアリスが通じていたとしても、犯行そのものについては有力な証拠がない、というのが実際的な理由だと考えられます。
*7: 例えば“靴の一件”(64頁)については、“何者かがダレンとシェリルの靴を使う機会があった”というところまでがせいぜいですし、そもそも不自然さがないので“手がかり”だと疑うことすら困難です。
*8: 真相が直ちに露見しないような形で、トリックに直接関連する手がかりを示すことができないか、自分でもかなり考えてみたのですが、完全にお手上げです。
*9: ダレンの“手首に傷跡”
(133頁)があることが、後に“手首の傷”
(271頁)とあるように、アリスと同じ列車事故に遭遇したことを示している……とは、とてもいえないでしょう。
*10: オーウェンの場合、“いささか目につくやり方で店に入ることこそオーウェンの目的だった。”
(230頁)という記述をみると、店に入る前からダレンとアリスに目をつけていたと考えられるので、アリバイがあろうがあくまでも〈ダレンが犯人〉だという予断に基づいて、共犯者が誰かを調査しておいた、ということではないでしょうか。
*11: ダレンだけではなく、アンドリューもまた金時計を持っている(113頁)のがいやらしいところです。
*12: これもアナグラムに気づかなければ、アンドレに対応するのはアンドリューだと思わされそうな……という引っかけでしょうか。
*13: ネタバレなしの感想で触れた、方向性が近い国内作品(→新本格作家・(作家名)歌野晶午(ここまで)の(作品名)『安達ヶ原の鬼密室』(ここまで))の場合、パート間の物語上の関連が本書よりも薄く、ほぼ皆無に近いのですが、“何を示唆するのか”が本書と異なるために、パートの配置だけで“伏線”と認識しやすくなっている感があります。
*14: 最終的に、接着剤の一件(167頁・251頁)で裏付けられています。
*15: ここまで“伏線”という表現を使ってきましたが、少なくとも目撃証言については“手がかり”の方が適切でしょうか。
ちなみに、「訳者あとがき」にあるように、《リュジタニア号》の名前が〈現代の物語〉(48頁)と〈過去の時代の物語〉(252頁)の両方に登場しており、アリスが貝殻を渡した“フランス人旅行者”
(252頁)がアンドレの“大叔父”
(48頁)で、貝殻の破片をセリアの祖母に渡した(47頁)――という形で輪廻転生が補強されています。
これを踏まえると、〈現代の物語〉の年代が、本書が執筆されたであろう2018年あたりではなく1991年、すなわち〈過去の時代の物語〉の八十年後に設定されているのは、オーウェンが登場しないことが読者にあらかじめ伝わる程度に離れていることを前提として、アンドレとセリアが当事者の話を直接――《リュジタニア号》の名前まで――聞くことができる、ぎりぎりの年代だからではないかと思われます。
2020.09.23読了