写楽・考/北森 鴻
- 「憑代記」
メインとなる火村家の事件の構図の反転は実に鮮やか。人形と人間との間の主客の逆転そのものもさることながら、憑代の破壊から連想される殺人事件が直ちに起こることで、殺人予告という思い込みが補強されているのがうまいところです。また、そこで人形→人間という順序のみがクローズアップされ、重要な手がかりである時間の差が相対的に目立たなくなっているところも見逃せません。
三國をめぐる噂のエスカレートには空恐ろしいものが感じられますが、それをいち早く察知して三國を危険から遠ざけた那智はさすがというべきでしょうか。
- 「湖底祀」
民俗学的にはメインテーマとなる鳥居と神社の関係についての考察ももちろん面白く感じられますが、最も印象に残るのはやはり林崎の仮説の逆転です。鳥居から“円”の字を連想することはできても、逆は困難だというのは十分納得できるところで、この順序の逆転が非常に鮮やかです。
しかしその後、“林崎が湖底に何かを隠した”というところまでは妥当な推理だと思いますが、
“林崎さんが隠したものは、通常絶対に水中には沈めないものだと思われます”
(87頁)という由美子の推理はいかがなものでしょうか。単に飛躍が過ぎるというのでなく、(読者には知らされていない)絵画盗難という結論が先にあって初めて出てくる発想としか思えず、結局は林崎の仮説と同じ構造になってしまっているのが大きな難点です。- 「棄神祭」
“あの御神火”
という言葉を“あの御仁か”
と聞き違えたことが、殺人の動機のみならず入れ替わりを示唆する手がかりとなっているところが非常に秀逸です。また、入れ替わりが原因で途絶えていた祭祀を復活させることになったという真相もよくできています。一方、“物質的な神”=“喫人対象としてのシャーマン”という考察はなかなか面白いのですが、御厨家の祭祀や事件との関連はほとんどなく、物語の中では少々とってつけたような感があるのが残念。
- 「写楽・考」
事件の方もさることながら、やはり見どころは式家文書の謎でしょう。そこに記された“絡繰箱”と“べるみー”が、カメラ・オブスキュラとフェルメールにつながるところが圧巻です。作中で宇佐美陶子が
“相互作用”
(205頁)と評しているように、フェルメールとカメラ・オブスキュラは関係が深いので、説得力も十分といえるでしょう。本来ならば写楽が“最後の一撃”となるはずのところ、それが題名に示されているせいで、早い段階で見え見えになっているのが残念。具体的には、三國が絡繰箱を由美子に向けてみた場面(203頁)の、奇妙に歪んだ由美子の姿の描写で見当がついたのですが、さすがに題名になっていなければ予想もできなかったと思います。一応は、まったく物語に登場してこない写楽がどう絡んでくるか、という倒叙ミステリ的な読み方もできなくはないかもしれませんが、やはり少々無神経ではないかという印象が拭えません。