六蠱の躯/三津田信三
本書におけるミステリとしての趣向の中心は、〈六蠱〉と名乗るシリアルキラーの正体を探るフーダニットであり、そこにいわゆる“見えない人”テーマを絡めてありますが、同じような趣向を扱った前例としては少なくとも(作家名)山田正紀(ここまで)の(作品名)『おとり捜査官1 触覚』(ここまで)があります。この前例をお読みになった方はおわかりのように、(以下伏せ字)“見えない人”の最終的な真相、すなわち“犯人は女性ゆえに見えなかった”(ここまで)という点も本書と共通しています。
本書では、オカルト部分の題材となっている〈六蠱の躯〉そのもの――理想の女性の身体を造り出すという犯人の動機が、“男性が犯人”と読者をミスリードする仕掛けになっているのがうまいところです。もっとも、六蠱の躯の“六つ目”に関する俊一郎と祖母のやり取りの中で、“スタイルの良い美人になって得したいう、アホな女もいるかもしれん”
(101頁)という大きなヒントが示されている(*1)こともあって、〈六蠱〉が女性である可能性は頭に浮かびやすくなっていると思いますし、“女性としての犯人像”に合致しそうな――容姿が“極めて普通”
(115頁)の――岩野奈那江が事件に絡んでくることで、作者の企みがかなり見え見えになっているのは否めません。
しかしそこで、女装趣味のある水上優太を相手にした襲撃未遂事件が盛り込まれているのがなかなか巧妙で、女装が“見えない人”に対する一つの回答となり、ひいては“襲撃者―被害者”の取り違えの構図が生じる(*2)ことで、状況が複雑なものになっています。また、その二人を中心として、“関係者の集団ができていそうで、できていない”
(262頁)という、いわば“緩やかな”関係者集団が形成されているのが面白いと思います。
女装による“見えない人”は多崎大介にもそのまま当てはめられていますが、浦根保を容疑者とする警官の制服という(既視感のある)ネタも提示され、さらに個人的には完全にノーマークだった奈那江の母親まで容疑者とされる“多重解決”が見事。“女性であるがゆえに見えなかった”という最終的な落とし所には、前述の理由で物足りなさが残りますが、そこに至るまでの手順はやはりよくできていると思います。とりわけ、“お綺麗な顔立ちの夕里さんは、とてもよく分かります”
(269頁)という奈那江の台詞は、夕里ではなく奈那江の方が〈六蠱〉に狙われた状況ではまったく不自然であるにもかかわらず、俊一郎の“死視”を通じて大島夕里の死相を知っている読者にとっては一見自然に思えてしまうという、巧妙な手がかりといえるでしょう。
そして、奈那江を犯人と考えた場合の最大の障害となっている、奈那江自身に表れた死相の意味が非常に秀逸。職務を逸脱した浦根の態度と、心臓を中心に蜘蛛の巣のように広がる死相の“形”とがきれいに結びつき、説得力があると同時に鮮やかな解釈となっています。
“六蠱の躯を平気で受け入れるような心の持ち主を、わざわざ犯人が好むやろか”(102頁)という祖母の台詞も、そのような女性が“六つ目”に選ばれる可能性を否定しているようでいて、“六蠱の躯を平気で受け入れるような心の持ち主”自身が犯人であることを暗示するものになっている感があります。
*2: もちろん、水上が犯人というストレートな解釈は、当の水上が殺害されて否定されることになりますが。
2010.03.28読了