時砂の王/小川一水
オーヴィルが戦いで命を落とし、残り頁数もわずかになったところで突如〈時間軍〉が救援に訪れるという結末は、いかにもご都合主義という印象を禁じ得ません。さらにその印象を強めているのは、以下に引用する卑弥呼と〈パスファインダー〉オメガのやり取りです。
「なぜ今頃……なぜもっと早く来なかった! ぬしらさえ、ぬしらさえ来れば王は死なずに済んだのだ! それに鷹早矢も、倭国の兵も!」(中略)「それは違う。我々はこの時点より前に来ることができなかったんだ。なぜなら、我々の時間枝は、たったいま産まれたのだから。この戦いで産まれたのだから。貴女が産んでくださったのだから」
(266頁)
援軍がオーヴィルの死に間に合わなかったことを非難する卑弥呼に対して、オメガは上のように釈明していますが、よくよく考えてみるとそこにはおかしなところがあるように思われます。
まず、下の模式図に示したように、“A→B”という〈時間枝1〉に対して、途中に“X”という改変が加えられることで新たな〈時間枝2〉(“A→C”)が生じるケースを考えてみます。
〈時間枝1〉 〈時間枝2〉 |
A ――――→ B ↓ A ―→ X ―→ C |
〈メッセンジャー〉のように、〈時間枝1〉のB時点からA時点へ時間遡行した後、改変Xを行った(少なくとも)当事者は、その改変によって新たな時間枝が生じることを自覚する(*1)ことになるはずです。しかし〈パスファインダー〉のように、新たに生じた時間枝にのみ属する者(例えば〈時間枝2〉のC時点で誕生した者)は、〈時間枝1〉の存在を知覚することができないのですから、“我々の時間枝は、たったいま産まれた”
という認識に至るはずがありません。ましてや、“分岐”の原因となった改変――別の時間枝との差異――を特定することなど不可能です。したがって、オメガの“我々の時間枝は、たったいま産まれたのだから。この戦いで産まれたのだから。貴女が産んでくださったのだから”
という発言は、本来ならあり得ないものではないかと思われます。
もっとも、オメガが受け継いだオーヴィルの記憶とオメガにとっての“正史”を比較することで、“正史”が新たに生じた時間枝であることをオメガが認識できる可能性はあります。また、オーヴィルの記憶の中に魏志倭人伝の内容があったとすれば、やはり“正史”との比較により、新たな時間枝が生じた原因を推定することも不可能ではないかもしれません。
もう一つ、“我々はこの時点より前に来ることができなかったんだ。なぜなら、我々の時間枝は、たったいま産まれたのだから。”
という発言が正しいとすれば、すなわち、新たな時間枝に属する者はその“分岐”以前に遡行することができないという法則が存在するとすれば、少なくとも〈ディセンダント〉の時間遡行には限界があることになります(*2)し、やはり“すでに改変された時間枝”
(224頁)に生まれた(オーヴィルをはじめとする)〈オリジナル〉の時間遡行自体がかなり怪しくなってしまいます(*3)。そうすると、“この時点より前に来ることができなかった”
というオメガの言葉が真実であるとは考えにくいものがあります。
“我々はあらゆる干渉を行ったメッセンジャーとは違う。ETの掃討以外は、決して歴史に触れぬよう命じられている。そのように正史にあるからだ。”
(267頁)という台詞からも明らかなように、オメガら〈パスファインダー〉はおなじみの“タイム・パトロール”的な行動原理に従っていると考えられます。一方で、“魏志倭人伝にのみ記されていた伝説上の存在、メッセンジャー・オリジナル”
(271頁)と、“壊滅に瀕した邪馬台軍を、卑弥呼が叱咤激励して逃がした。”
(266頁~267頁)という“正史”を考え合わせると、この魏志倭人伝にはオーヴィルの死までも記されていた可能性が十分にあるといえます。つまり、〈時間軍〉がオーヴィルを救うことができなかったのはむしろ、“そのように正史にあるから”
(*4)だと考えるべきではないでしょうか。
結局のところ、引用したオメガの台詞がうさんくさい――ひいては、作者にとって都合がいい――ものに感じられるため、結末に釈然としないものが残ってしまうのは否めません。
*2: したがって、十万年前に遡行するというカッティ・サークの計画(179頁)に、クエンチら〈ディセンダント〉が参加することは不可能となります。
*3: 〈メッセンジャー〉は〈ET〉の襲来――〈ETクリエイター〉による過去の改変――を受けて生み出されたものですから、〈オリジナル〉といえども〈ディセンダント〉と同様に“新たな時間枝に属する者”であり、〈ETクリエイター〉による改変以前の過去には遡行できないことになります。
*4: 逆に、事実がどうであれ、“時間軍により使いの王も救われた”と魏志倭人伝に記しておきさえすれば、オーヴィルの命が救われる新たな時間枝を生み出すことも可能かもしれません。もっとも、その改変によって時間軍が誕生しなくなってしまうおそれもないとはいえませんが。
2008.06.13読了