トスカの接吻/深水黎一郎
第一の事件では、被害者となった磯部太の皮肉な立場が目を引きます。公演初日に自らナイフをすり替えながらも計画が失敗し、一転病と闘うことを決意した途端に舞台上で命を落とすことになるという、性質の悪い冗談のような最期を迎えた心境は察するに余りあるところですし、ナイフをすり替えた犯人を誤解したまま死んでいったところも何ともいえません。
その磯部の計画は、中里可奈子が受け取った匿名の手紙という形で表面に現れていますが、その存在が捜査陣に対して(213頁~216頁)よりもかなり早いタイミングで読者に明かされている(97頁)――いかにも事件の真相を匂わすような形で――のが、(いい意味で)いやらしいところ。実際には真犯人の行動は磯部の計画とはまったく無関係だったわけで、それ自体が強力なミスディレクションとなっています。
実際に起きた事件に関して見逃せないのが、誰にもナイフのすり替えが不可能だったという不可能状況――“開かれた密室”の作中での扱い方です。その真相自体は序盤に藤枝和行が披露した推理そのままで、ハウダニットとしてまったく面白味を欠いている(*1)のは確かですが、しかしそれが犯人特定の条件――“迫りに乗ることができた人物”、すなわち“体重20キロ以下の人物”――につながっている点こそが重要ではないでしょうか。
神泉寺瞬一郎による解決では、凶器として使われたナイフの出所が先に説明されています(249頁~250頁)が、郷田薫の習慣からナイフが他人の手に渡ったところまでは推測可能としても、それが具体的に誰なのかまでは特定できないはずで、実際には“体重20キロ以下の人物”という条件が先にあったと考えるのが妥当でしょう。
本書において“開かれた密室”の謎は、序盤のうちに(しかも本来の探偵役以外の人物によって)あっさりと“解き明かされ”た上ですぐさま“否定され”てしまいますが、それによって読者は、“開かれた密室”の真相が別にあると、すなわち犯人が舞台の迫りを使ったという解決が誤りであるとミスリードされることになります。結果として、“体重20キロ以下の人物”という犯人特定の条件が巧妙に隠されているのです。
犯人の条件としてはもう一つ、“ナイフがすり替えられたとされる時間帯に舞台のセットに近づくことができた”というものがありますが、確かに第一幕の説明の中で少年少女合唱団の存在に言及されてはいる(9頁)ものの、この点に関しては過剰とも思えるほどに真犯人が隠されています。しかしこれも、ナイフの出所と同様に“体重20キロ以下の人物”という条件を想定できさえすれば芋づる式に浮かび上がってくるもので、決してアンフェアとはいえないでしょう。むしろ、“事件発生後、無断で帰宅したものはいませんね?”
(21頁)という海埜警部補の確認を逆手に取って、周到にその存在を隠してあるところをほめるべきではないでしょうか。
第二の事件ではまず、口紅で鏡に書かれた“トスカの接吻”という文字が、被害者が残したダイイングメッセージではないことがすぐに示され、“短剣の一撃のことであり、復讐の宣言でもある”
(171頁)という意味と相まって“犯人が残した文字”という誤認を生じているのが面白いところです。しかも、磯部が送った匿名の手紙が“トスカの接吻より”
(216頁)と署名されていたことで、犯人が発したメッセージという印象が補強されているところが巧妙です。もっとも、演出効果の高いメッセージであることもあって、郷田自身による演出のアイデアという真相は、かなり見えやすくなっているのではないでしょうか。
一方、郷田の死体が両腕を交差させた奇妙な格好をしていたことについては、当初はダイイングメッセージと思われながらもその意味が判明しない中、十字架を表しているのではないかという館林の推理(180頁)をきっかけとして、こちらも犯人によるメッセージ――見立てという方向にミスリードされるあたりがよくできています。そして、“聖アンドレイ十字”(→「聖アンデレ十字 - Wikipedia」を参照)という真相は、明かされてみればあまりにもストレートで納得せざるを得ないのは確かで、ダイイングメッセージとしてはかなり出来のいい部類に入るのではないでしょうか。
そして、犯人の動機が作中で発表された『トスカ』の画期的な新演出――“スポレッタ黒幕説”と密接に結びついている点も見事です。新演出に関するアイデアの盗用が直接のきっかけとなっているのもさることながら、そのアイデアの中核となっているスポレッタのスカルピアに対する心理が、そのまま安藤龍と郷田薫の関係に重なってくるという構図が鮮やかですし、郷田自身がそれにまったく気づかなかったという皮肉な顛末も印象的です。
ただ、第一の事件とは違って犯人の特定に難があるのが残念なところ。安藤が犯人であることを直接示すのは前述のダイイングメッセージのみで、(“聖アンドレイ十字”が一般的な知識でないのはおくとしても)多様な解釈が可能である(*2)以上、それだけで決め手とするのは難しいように思います。
ところで、作中では第一の事件が“未必の故意”として扱われていますが、「『トスカの接吻』(深水黎一郎/講談社ノベルス) - 三軒茶屋 別館」では“未必の故意”よりもむしろ“間接正犯”に該当するのではないか、と指摘されています(*3)。いわれてみれば十分に納得できるところで、特に本書の場合にはリアリズムを徹底的に追求した演出によって、(100%ではないにしても)“未必の故意”というには確実すぎる状況になっているといえます。
とはいえ、リンク先にも“明らかにされた真相を踏まえた上で改めて考えてみますと、故意の問題としたのも分からないではありません。”
とあるように、“未必の故意”が前面に出されていたのも最終的には妥当といえるかもしれません。小学二年生の少年が郷田演出のリアリズムを十分に理解していたとは思えませんし、(心臓を刺す場合と違って)頚動脈切断の危険性を認識していなかったとも考えられるので、ナイフのすり替えの結果をどこまで予見できたかは疑問です(*4)。
そう考えると、“未必の故意”という第一の事件の扱いそのものが、読者に向けて犯人の正体を暗示する伏線となっている……というのは穿ちすぎなのでしょうが。
*2: 被害者の立場からすれば、簡単な動作で(意味さえ通じれば)犯人の名前がストレートに示される、出来のいいダイイングメッセージといえます。しかし、それを読み解く立場に立てば、確かに“聖アンドレイ十字”と解釈した場合には犯人に直結するとはいえ、(とりわけ単純な形だけに)他にも様々な解釈の余地があるわけで、それらをあっさりと切り捨ててしまうのは少々安直といわざるを得ません。
*3:
“本件のようなケースですと、未必の故意よりも避けて通ることのできない法律的論点があります。それが間接正犯です。(中略)未必の故意が出てくるのに間接正犯が出てこないのは法学的にはバランスを欠いています。”(「『トスカの接吻』(深水黎一郎/講談社ノベルス) - 三軒茶屋 別館」より)。
*4: もちろん作中では
“まさかあんなことになるとは夢にも思わなかった。ただの悪戯のつもりだった。”(253頁)とされていますが、ここでは龍平少年の主観ではなく客観的にみてどのように考えられるかを記しています。
2008.08.10読了