山中貞雄は映画監督として活躍したわずか五年間(昭和七〜十二年)に二十六本の作品を撮っています。しかし、そのほとんどが現在失われており、見ることが出来ません。そこで、生涯の親友として有名な映画評論家・岸松雄氏の「作品の思い出」を引用してその作品の魅力に触れてみましょう。
いそのげんた・だきねのながどす('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:長谷川伸 脚色:山中貞雄 撮影:藤井春美 出演:嵐寛寿郎、市川寿三郎、片岡市太郎、松浦築枝
映画の中から生まれた映画作家山中貞雄の処女作。その映画感覚の水みずしさは、懶惰なるぼくの心を揺り動かし、新しき時代映画の希望を投げ与えた。これは過褒ではない。しかし多くのひとびとは尚それを信じなかった。
こばんしぐれ('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品)
原作:長谷川伸 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:嵐寛寿郎、頭山桂之介、
流れて・流れて・此処は・何処じゃと・馬子衆に問えば・此処は信州・中山道─いくつかに分割された字幕面に協和する画調の流麗さ。まだ会ったことはないが此の監督は末恐ろしき奴である。と小津安二郎はぼくに語った。
おがさわらいきのかみ('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品)
原作:佐々木味津三 脚色:山中貞雄 撮影:藤井春美 出演:嵐寛寿郎、嵐徳三郎、嵐璃徳、市川寿三郎
やくざとか股旅ものとかの義理人情の世界から足を洗って、国防なき国を憂える先覚者の時代的な苦悩を探ろう。もしも此の種の題材を引きつづいて作ったとしたら─今はかえらぬ愚痴になりました。
くちぶえをふくぶし('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:林不忘 潤色:平尾善夫 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:嵐寛寿郎、嵐徳三郎、市川寿三郎、山路ふみ子
主人公は月代をのばし、一升徳利に悦に入る浪人者清水狂太郎。元禄快挙の当夜、吉良邸に乱入した赤穂義士を導く口笛の効果は、サウンド版の有難さを狙ったものであったが不幸にしてこれは無声版として作られた。
うもんさんじゅうばんてがら・おびとけぶっぽう('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:佐々木味津三 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:嵐寛寿郎、頭山桂之介、尾上紋弥、山路ふみ子
「そのお寺へ夜更けてこっそりお詣りすると、きっと願いが叶う」という話である。女はそれぞれ部屋にひきとると、待つほどに御仏のおひき合わせで恋しい男が現われるという話である。あぶな絵の一歩手前を巧みに探偵趣味が跳梁する。
てんぐかいじょう・ぜんぺん('32年 嵐寛寿郎プロ、サイレント作品)
原作:大佛次郎 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:嵐寛寿郎、市川寿三郎、淡路千夜子、嵐徳三郎
死ぬなよ菊谷、早坂、杉作よ、そして新公よ。危ないッ!瞬間、白馬宙を飛んで来る。鞍馬天狗の出現である。だが早くしないと善い人間が殺されてしまうではないか。ぼくは罪のない大衆と一緒になって胸をときめかす。
さつまびきゃく・こうへん(けんこうあいよくへん)('33年 日活京都、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:大佛次郎 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:大河内伝次郎、沢村国太郎、尾上助三郎、吉野朝子、マキノ智子
スタア・システムを否定したかのような厳しい演出の許で、新しい大河内伝次郎が浮かびあがった。連続活劇と花という不思議な取り合わせが少しも可笑しく感じられないような作品。
ばんがくのいっしょう('33年 日活京都、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:白井喬二 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:大河内伝次郎、山本礼三郎、芝田新、山田五十鈴、大倉千代子
暑い夏の一日を、廻し出したら一分とかからない一カットの撮影に費やして、しかもたのしかった。興業成績が篦棒に悪くて会社は渋い顔をしたかも知れないが、山中貞雄の作家的良心は明鏡止水。
ねずみこぞうじろきち えどのまき・どうちゅうのまき・ふたたびえどのまき(じんぎのまき)('33年 日活京都、サイレント作品、江戸の巻のみシナリオ現存)
原作:大佛次郎 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:大河内伝次郎、高勢実乗、小川雪子、高津愛子、寺島貢
鼠小僧が去って行く。丁稚が淋しそうに見送っている。もしもここで此の丁稚が何気なく尻を掻いたらどうであろうか。生きた人間の動きを極まりきった旧劇的演技の中で死んでしまうことをなげく山中貞雄の心は、漸く相知るに至った小津安二郎の心に通うものがあったといえよう。
ふうりゅうかつじんけん('34年 片岡千恵蔵プロ、サイレント作品、シナリオ現存)
原作:野村胡堂 脚色:山中貞雄 撮影:吉田清太郎 出演:片岡千恵蔵、瀬川路三郎、尾上華丈、香川良介、山田五十鈴
裏長家で浪人者が傘張りの内職に忙しい。この骨、この紙、この傘。そのひとつひとつが人物の生活から切り離せないものであるならば、何故にこれまでの時代劇作家はそこから遠のいていったのか。これはその宿題に対する一つの解答である。
あしがるしゅっせたん('34年 片岡千恵蔵プロ、サウンド版)
原作:伊勢野重任 脚色:山中貞雄 撮影:石本秀雄 出演:片岡千恵蔵、瀬川路三郎、市川春代、花井蘭子、高勢実乗
山中貞雄の映画がはじめて物をいった。それも最後に只一言。「わからない」恐らくトーキーへのうずくような欲求に身を焦がしていたに相違ない。いや、ひょっとすると物を言わぬ小道具に物を言わせようとたくらんでいたかもわからない。
14.勝鬨
かちどき('34年 片岡千恵蔵プロ、サイレント作品?、小石栄一の応援監督)
原作:旗冬吉 脚色:梶原金八 監督:小石栄一 撮影:石本秀雄 出演:片岡千恵蔵、花井蘭子、尾上華丈、高勢実乗
(この作品に関する記載無し)
がんたろうかいどう('34年 片岡千恵蔵プロ、トーキー[以後全作品トーキーなので記載せず]、シナリオ現存)
原作:梶原金六 脚色:三村伸太郎 撮影:石本秀雄 出演:片岡千恵蔵、伏見直江、瀬川路三郎、滝沢静子、水の江澄子
山中貞雄の最初のトーキー。音声が作風の混乱を招かないで、逆により美しい調和をもたらした。録音機が不備だから、だから作品が不出来だったのだというような卑怯未練な泣き言をいう彼ではなかった。
くにさだちゅうじ('35年 日活京都、シナリオ現存)
原作:山中貞雄 脚色:三村伸太郎 撮影:安本淳 出演:大河内伝次郎、鬼頭善一郎、清川荘司、高津愛子、横山運平
たった一日の、たった一軒の宿屋の中でもこれだけさまざまな人生があることを、「グランド・ホテル」的な誇大さによらずして、淡々とした筆触で描きつくした作品。愛すべし。
17.丹下左膳余話 百万両の壺
たんげさぜんよわ・ひゃくまんりょうのつぼ('35年 日活京都、シナリオ現存、フィルム現存)
原作:林不忘 潤色:三神三太郎 脚色:三村伸太郎 撮影:安本淳 出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎、宗春太郎、花井蘭子、深水藤子
もしもあの世で林不忘が山中貞雄にめぐり合ったら、こんな対話がきかれるだろう。「山中君、君にかかっちぁ僕の丹下左膳も散々だったよ。」「けど、ああせなんだら活動写真になりまへんがな。」
せきのやたっぺ('35年 日活京都、稲垣浩と共同監督)
原作:長谷川伸 潤色:梶原金八 脚色:三村伸太郎 撮影:松村禎三、竹村康和 出演:大河内伝次郎、鳥羽陽之助、深水藤子、山本礼三郎
間に合わせに撮った作品である。ということをずっと後で知って驚いた。間に合わせ作品にありがちな粗雑さが露骨にさらけ出ていない。
まちのいれずみもの('35年 日活京都、シナリオ現存)
原作:長谷川伸 脚色:山中貞雄 撮影:松村禎三 出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、山岸しづ江、深水藤子、宗春太郎
前進座映画の行くべき道を教えたのは此の作品といえるであろう。例えば銭湯の終い湯が儚く溝に流れ落ちる時、世間の白い眼を恐れる前科者が「誰もが俺を疑っていやあがる」と呟く悲しみは、われわれの心を深く刺す。
だいぼさつとうげ だいいっぺん(こうげんいっとうりゅうのまき)('35年 日活京都、稲垣浩の応援監督)
原作:中里介山 脚色:三村伸太郎、武田寅男、稲垣浩 応援監督:荒井良平 撮影:谷本精史、松村禎三、竹村康和 出演:大河内伝次郎、黒川弥太郎、沢田清、入江たか子、深水藤子
稲垣浩に応接する以上、稲垣の画調を乱したくない。骨の髄まで映画作家である。この難しい註文を苦もなく片附けた。
かいとうしろずきん こうへん('36年 日活京都)
原作:梶原金八 脚色:三村伸太郎 応援監督:石橋清一 後編応援監督:稲垣浩 撮影:松村禎三 応援撮影:竹村康和
出演:大河内伝次郎、黒川弥太郎、高勢実乗、鳥羽陽之助、市川百々之助、横山運平、花井蘭子
梶原金八の戯作者的な面貌をはっきりとのぞかしてくれた作品である。山中貞雄を愛していた彼の母が死んだのは、この撮影中の出来事ではなかったろうか。山中貞雄の作品はこの後次第に暗さを帯て来る。
こうちやまそうしゅん('36年 日活京都=太秦発声、シナリオ現存、フィルム現存)
原作:山中貞雄 脚色:三村伸太郎 撮影:町井春美 出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、市川扇升、山岸しづ江、原節子
「天保六花撰」をあてがわれても山中貞雄は「投げ」なかった。下水道の立廻りに往時の連続活劇を偲びつつ、河内山に金子市に直侍にわれわれの身近な息吹きを与えた。けれど「この映画で見られるのは立廻りだけや」と山中貞雄はどこまでも謙虚である。
うみなりかいどう('36年 日活京都、シナリオ現存)
原作:三村伸太郎 脚色:梶原金八 撮影:三井六三郎 出演:大河内伝次郎、鳥羽陽之助、横山運平、高勢実乗、衣笠淳子、鈴村京子、清川荘司
ともすれば安逸に流れがちな自分自身を戒めながら作ったお盆映画である。主人公稲葉小僧は、もちろん大河内伝次郎だ。だるま茶屋の女を身請けして名前も告げずに立ち去る男、代官を殺し捕手大ぜいを叩き斬ってもカスリ傷一つ負わぬ男――お盆映画である。
もりのいしまつ('37年 日活京都、シナリオ現存)
原作:山中貞雄 脚色:山中貞雄 撮影:荒木朝二郎 出演:黒川弥太郎、花井蘭子、横山運平、深水藤子、清川荘司
大河内伝次郎を離れて黒川弥太郎を主役に仕立てて――ヒントは「民衆の敵」であるという。ここらで何かして新しい山中貞雄が生れなくてはならない。
にんじょうかみふうせん('37年 P.C.L.=前進座、シナリオ現存、フィルム現存)
製作:武山政信 脚本:三村伸太郎 撮影:三村明 美術考証:岩田専太郎 出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、中村鶴蔵、山岸しづ江、市川笑太郎、市川莚司、霧立のぼる
これが最後の作品になるのでは死んでも死にきれない――不吉な言葉を残して山中貞雄は出征した。そして死んだ。この映画の隅々にまで立ち罩めている暗さを想い返して、ぼくは心を寒くする。