初めに概念があった。
名前は後からかぶせられた。
言葉は時代を映す鏡であり、言葉の変化は歴史そのものである。
新しい言葉が次々と生まれるのは、
歴史の速度がそれだけ早まっているからだ。
それが良いかどうかは別として、
言葉が生まれるたびに、
時代は変わって行く。
|
プログラミング教育
2017年3月公示の学習指導要領で決まった小学生にプログラミングを学ばせる教育。2020年から実施される。
すでに小学校の時間枠はいっぱいなので、特設あるいは各教科・総合的な学習の時間の枠内で行われる。
(参考:小学校プログラミング教育の手引(第二版)
(PDF:3,685KB)
)
「これからの時代を生き抜く子どもたちにはプログラミング的思考が必要」ということで行われるが、2045年にはコンピュータ自身がプログラミングするシンギュラリティ(技術的特異点)が訪れると言われており、プログラミング自体はわずか四半世紀で不要になる技能。
ただし「プログラミングをするコンピュータ」自体をプログラミング(あるいはメンテナンス)する超エリートプログラマーは必要なわけで、そうした10万人にひとりの逸材に早期から学んでもらうためには小学校でやるしかない、ということで始められた。
プログラミング自体はゲーム感覚で行える楽しい作業なので、スーパーエリートにとっては絶対必要な時間。普通の子には遊んで終わる時間、国家には必要な時間、である。
ヨーロッパ諸国やアジアの一部で行われているような「早期に選別して優秀な者・家柄の良い者だけが受けられるエリート教育」が行えない日本では、しばしばこうした「隠れエリート教育」が実施されているが、おバカな一般児童は遊んでいられるし、その保護者は「なんとなくウチの子にもよさそう」ということで反対しないので大手を振ってまかり通っている。
しかし間違ってはいけない。
ウチの子もそうだが、カエルの子はカエル。トンビはタカを産まない。
あなたの子は確率から言ってもおそらく普通以下の子だ。
プログラミング、プログラミングと跳ね飛ぶ前に、算数や国語をしっかりやっておいた方がよほどいいだろう。
小学校英語
脱官僚政治と言いながら、外国との丁々発止のやり取りのできる若き吉田茂や幣原喜重郎、宮沢喜一のような官僚がいないと困ると考える政治家と、
英語さえできれば世界中どこへ行っても金儲けができると考える財界人、
自分で金や労力を出すのは嫌だが、早くから学校で英語学習をやってくれればウチのバカ息子も英語がペラペラしゃべれるようになるのではないかと勘違いした親、
この三者の呉越同舟で平成23年度から完全実施となる小学校5・6年生の英語。
各学年、年間35時間計70時間(授業時間)。週1回、45分間の授業で何をやるのかというと、
外国語を通じて,言語や文化について体験的に理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら,コミュニケーション能力の素地を養う。
(新小学校学習指導要領 第4章外国語 第1目標)
ということである。
スイミング・スクールの隆盛に支えられた北島康介やJリーグの興隆に支えられるワールド・カップでの活躍など、一流を育成しようとすればすそ野を広げるしかない。その意味で一流の英語使いを育てるのに国民が小学校から学ばねばならないと考えた政財界の思惑は分かる。
しかし親まで一緒になって小学校英語に期待をかけるというのはとんでもない思い違いだ。
考えてみるといい。中学校入学時には「全く分からない」というゼロレベルで平等だった英語も、中高6年間の間にすっかり差をつけられて、友だちははるか高みにいた。その学力差のクレッシェンド(音楽における右広がり強弱記号)がさらに2年分延ばされるのだ。あなたの息子が高みに立つ人間だったらいいが底辺を這うような人間だったらほんとうに悲惨だ。
無能の苦しみが2年間も延長される。
ついでに言えば、小学校から英語を始めるということは、中学校英語の、あの新鮮で初々しい感覚が失われるということでもある。
「ボクは算数も国語も理科も社会も、それどころか図工や家庭科でも差をつけられちゃったけど、英語はゼロで同じだ、中学校に入ったらがんばるぞ」
というあの感覚である。
小学校英語推進主義者にとって、そんなことはたいして問題ではなかったのかかもしれない。
「どうせ算数や国語のできなかった子なんて、英語もすぐにできなくなるさ」
ということなのかもしれない。
けれどそうは言っても今より2年余計に勉強すれば、少しは英語力がつくかもしれないと思う人もいるかもしれない。
そんなことはない。
途中で分からなくなった子がレベルの高い英語を強制されても苦しむばかりで力などつくはずがない。
小学校段階で差をつけられないように
金のある親は補習塾で英語を習わせ、
金のない家庭では成績が低くても楽しく生きていける生活の知恵をつけてやることが、
これからは必要になるだろう。
【参考】
「中高合わせて6年間も勉強しながら英語が使えるようにならない、そんな日本の英語教育には重大な欠陥がある」という話を聞いたことがある。
しかしそれを言うなら、小中高合わせて12年間も勉強しながら微分・積分あるいはベクトルや対数が使えるようにならなかった数学や、結局、摩擦係数やベンゼン環が何のことかさっぱりわからない大人しか育てられなかった理科教育のあり方のほうがよほど問題だろう。
どうやっても結局英語が身につかなかったことには理由がある。それはベクトルや対数や摩擦係数やベンゼン環と同じで、たいていの人にとって英語は必要なかったからだ。
そして今後も、普通の大人が英語を必要とする世の中は来るはずはない。
相殺法(そうさいほう)
自分の子どものやった犯罪を教師の指導の不備と相殺して、「なかったこと」にしようとする交渉術。
モンスター・ペアレントと呼ばれる人々によって開発され、一般に広がった。
基本形的には、
「確かに、ウチの子は悪い、それについては謝った。しかしそれとは別に、だからといって生徒を罵倒していいことにはならんでしょう」
というところから始まる。
「息子は先生に『ふざけるな』と罵倒されたと言っていますが、それについてはいかがでしょう」
長い長い指導の一箇所なので思い出せずに、曖昧にしていると、
「とぼけるつもりですか」と切り返す。
「言ったかもしれません」と答えると、
「分かりました。認めるんですね」と畳み掛ける。
「しかし、真面目に聞いていなかったのでそう言ったのだと思います」と言えば、
「証明できますか?」
「証明はできませんが……」と答えると、
「信頼していた先生にそんな言われ方をした、子どもの心の傷がどれほど深いか、先生にわかりますか?」
今日までそんなに信頼されていたとも思わないし、
その程度で「心の傷」とかを負っていたら、仲間内で満身創痍、今日までに失血死しているはずだ
などと、議論の本筋を外れてよそ見をしていると、
「校長先生のご見解は?」と来る。
「生徒の犯罪やいじめ」と「ふざけるな」を同じテーブルに乗せられてはかなわないので、
「確かに、そういう言い方をしたかもしれませんが、それは先生の熱意から出た言葉で・・・」などと答えると、
「熱意があれば何をしてもいいということですか?」と突き返す。
そんなやり取りが2時間も続くと互いに身動きが取れなくなり、その日は一応解散となるのだが、私たちが次の準備をしている間に、
翌日、都道府県教委から電話が入る。
「教師の生徒に対する心の体罰があったという訴えがあり、○月○日までに文書で回答するようにということだが、どういうことか」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
事情をしっかり説明して了解してもらっても、都道府県教委は戦ってくれない。
何しろ教委にはこのテの問題が山ほどあるのだ。一つひとつに十分時間をかけている余裕はない。本質を外れてでも早めに切り上げないと、すぐに切羽詰ってしまう。
そこでまず都道府県教委が謝り、担任が校長とともに謝罪し・・・・・・ふと気づくと、
そもそもの発端となった犯罪やいじめ事件はどこかに消えてしまっている。
こうした結果に、
母親は父親に対して頼もしげな視線を送り、父親はご満悦。
肝心の息子は高笑い。
以後、この生徒に対する真剣な指導はできなくなる。
「コイツ、絶対に悪くなるな」と思いながら、担任は手をこまねいているしかないのだ。
そしてほぼ確実に、悪くなるかダメになる。
ダルマさんが転んだ
モンスター的クレーマー保護者からの強烈な一本の電話によって、学校の全機能が一瞬のうちに停止する状態を言う。
どれほど重要な会議を行っていても校内各所から関係者が集められ、鳩首会議が始まる。召集されるのはたいていが学校の有力メンバーなので、必然的に全機能が停止し、普通の人々はただ待ちぼうけを食らうことになる。どのくらい待たされるかは、問題の深刻さと対応策の数とによるから、始まってみないと分からない。すぐに戻ってくる場合もあれば、2時間3時間と待たされる場合もある。
特定の保護者から再三再四抗議を受けると、次第に打つ手がなくなり会議も長引く。つまりダルマさんが転んだまま、固まってしまう。この状態をフリーズというが、今のところ「再起動」と叫ぶ人はいない。
長い長い夜が続く・・・・・・。
モンスターペアレント(Monster parent)
学校に対して自己中心的で理不尽な要求を繰り返す、そういった保護者を表す和製英語。アメリカでは学校上空を常に旋回し、何かあればすぐに乗り込んでくることからヘリコプター・ペアレント(Helicopter parent)と呼ばれている。
単数形である場合、たまには止めに入ってくれる、あるいはなだめ役くらいはやってくれる相方がいるものだが、複数形のparentsとなると手に負えない。
父がフランケン、母がメデューサ、それで子どもが普通などということはありえない。
その生態というか性質というか、行動様式というかは、以下のよなものである。
- 子どもが注意されたことに逆上して職員室に乗り込み、延々と文句をたれる。
- 自宅に呼びつけて正座させた上、何時間でも説教をたれる。
- 昼となく夜となく何時間でも平気で電話をかけ続ける。
- 体罰でないものを体罰だと騒ぎ立て、いじめでないものもいじめだと訴え続ける。
- 職員のわずかなミスに付け込んで、それとなく金品を要求する(明確に言うと恐喝になるので「大人には大人の処理の仕方があるはずだ」といった言い方になる)。
- 自分の子どもがリレー選手に選ばれないのは変だと文句をつける。
- 市町村教委・都道府県教委・人権NPO・議員・マスコミ・・・。自分の話を聞いてくれそうなところに次々と話を持ち込み、問題をどんどん広げていく。
その他事例を
上げたらきりがない。
外見からは判断しにくく、決してこのような人々だけではない。
守り隊
2005年暮れに相次いで起こった少女誘拐殺人事件に恐怖して、全国に作られた小学生の登下校を守る組織。
「○○小学校子どもを守り隊」「△△小学校見守り隊」「防犯パトロール」等の呼び名がある。
主として老人と主婦によって組織され、朝夕、小学生に付き添ったり辻々で見守ったりするのが主な仕事。学校への出入り業者によって組織される場合も、郵便局や宅配業者がステッカーを貼って町々を走るといった形で協力する場合も少なくない。
ただしこれによって、子どもたちは道草をしながら家に帰る豊かな時間を失った。
見守り隊にしても、全国で年間に2〜3件あるかないかの誘拐事件のために延々とパトロールし続ける空しさに苦しめられている。
怪しめば怪しそうな人が山ほどいる都会ならまだしも、田舎の村では「怪しい」どころかとりあえず「人」がいないのだ。しかし「自分たちが回っているからこそ、不審者が出ないのだ」と言い聞かせてがんばってくれている(その考えはもちろん正しいかもしれない)。
一方「守り隊」を組織せずに「集団登下校」で不審者対策を行った学校は不幸だった。
昔のように子どもそれぞれが我慢をする時代ではない。
- 低学年は高学年の指示に従わなければならないという制約に苦しめられ、
- 高学年は言うことを聞かないちっちゃなガキを連れて行かなければならないという使命に苦しめられ、
- 全学年が「好きでもないヤツ」と一緒に登下校しなければならにという苦痛にさいなまれている。
しかし「子どもを守る」ということが絶対的正義である以上、子どもは安全だという保障のない限りはやめられない(もちろん、そんな保障はできっこないから100年経ってもやめられない)。
集団登下校はしばしばイジメなどのトラブルの温床となっている。
したがって今もっとも心配されているのは、
「集団登校」が「集団不登校」になるのではないか
という深刻問題なのである。
教育バウチャー(Education voucher) 制度
学校教育に目的を限定したクーポンを子どもや保護者に直接渡すことで、貧しい家庭の子どもでも私立学校に進むことを可能にした私学補助金政策。アメリカに端を発する。
日本の場合、安倍晋三内閣が導入に熱心だった。これによって学校間の競争が激しくなり、教育内容のレベルが上がるのだという。
しかし現場の教員はアホなのでこれがまったく理解できない。
バウチャーの使用により、児童生徒を多く集めた学校ほど資金が潤沢となり、人数の減った学校はどんどん貧しくなって教育内容も貧しくなる。新しい地図も買えない地球儀もない、家庭科の時間に鍋がないミシンがない、プールに入れる水の代金が払えない・・・そしてあっという間に学校がひとつ潰れる。そこまでは分かる。
分からないのは、そうならないようにきっと教師ががんばるだろうと、なぜ人々が単純に考えられるのか、ということである。もちろん「学校が潰れたらそのときの教職員は全員クビ」というなら慌てるが、現在のところ、学校が潰れたら別の学校へ移ればいいだけのことだ。
私立学校と異なり、3〜4年で教職員が入れ替わる公立学校では、児童生徒数減少の責任を個々の教員に負わせることはできない。また普通の公立小中学校は学区というものを持っているから、学校のよしあしとは関わりなく、地域の衰退が学校の衰退につながる。どんなに優秀な教員をそろえようとも、その流れを止めて学校を大きくすることはできないのだ。
したがって児童生徒数が減っても教職員に責任を取らせないという体制は永遠になくならない。責任を問われない以上、それを理由に教員ががんばることもない。
じゃあ振り返って何のための教育バウチャーかというと・・・・・・結局、学校を減らして歳出を削減するという、極めて行政サイドの話なのかもしれない。ついでに教師が悪く言われているだけなのかも。
学校の自由選択制
学校区を廃止し、自由に公立学校を選択できる仕組み。
いじめや不登校の問題を端緒としたが、最近ではむしろ社会の自由化の流れに沿った制度として、東京都品川区などで始められている。
ただし、一部の地方都市ではドーナツ化現象の結果過疎化した市街地で、小中学校の統廃合の問題としてこれが扱われる場合も多い。例えば、児童数が極端に減ったA・B・Cの3校をひとつにしようとすれば、必ず反対運動が起こる。いずれも歴史ある学校だから卒業生も多く、必然的に名士も少なくない。したがって話し合いは必ず紛糾する。そこで3校間の自由選択制を導入するのである。
初めは保たれていた3校のバランスもやがて崩れて行く。
各学年単級(1学年1クラス)となり、児童数も10人を割り込むと、児童数減少は一気に拍車がかかる。3年に一回,2年に一回といったペースでPTA役員が回ってくるようでは、親が耐えられないのだ。放っておいても5〜6年で1校潰すことになる。
自由選択の結果、選択肢自体が消えていくことになる。
品川区が率先して学校の選択制に取り組んだのも、何となく分かろうというものである。
この学校選択制によって、おそらく10年以内に品川区の学校は半減する。
学校の自由選択制の、「自由」の持つ意味が分かるのは、そのあとのことである。
品川区の場合、東西4km、南北7kmほどの範囲に40の小学校と18の中学校がひしめいている。均等にならすと、小学校はほぼ500mごとに、中学校でも1・5kmごとに1校の割合である。しかも平均すると小学校は児童数300人(1学年50人)、中学校は250人(同80人)ほどにしかならない。こんなちっぽけな学校に、校長も副校長も養護教諭も用務員も一人ずつ配置されているのだ。こんなもったいないことはない(と、誰かが考えても不思議はないだろう)。 |
教育の原理主義
「現実性があろうがなかろうが、とにかく正しいことなんだからやらなければならない」という教育上の教条主義。
「子どもは苦痛や苦しみから解放されなければならない」
そりゃそうだ。
「子どもは適切な学力をつけてもらわなければならない」
それもそうだ。
しかし二つの正義が一緒になると、
「子どもには努力や苦痛なしに、適切な学力をつけてもらう権利がある」
ということになる。
「そんなことできんだろ。いったいどうすりゃいいんだ?」
と問うと、
「それは
学校の先生が考えます」
となる。
その際、「そんな難しいこと、考えつくはずがない」と言ってはならない。
正しい行動を躊躇うのは勇気がないか悪人であることの証拠だからだ。
教育は今やイスラム社会でいうジハード(聖戦)なのだ。
可能か不可能かは、問題ではない。やるかやらないかだけである。
学力問題
1995年ごろには過激な受験戦争、塾通いを中心課題とする児童の学習過剰が大問題だったのに、新指導要領が発表されるや否や噴出した、「日本人の学力は大丈夫なのか」という大問題。
「子どもたちが勉強で殺される」「塾を三つも四つも掛け持ちし、深夜まで締め付けられるかわいそうな子たち」と叫び「もうこれ以上の勉強はいらない」「勉強だけが人生ではない」と訴え続けたマスコミが、指導要領発表とともに手のひらを返して世論を誘導した。
そもそも子どもたちの学力は下がっているのか、といったところから議論は始まるが、私たちの結論は最初から一致している。
子どもたちの学力はここ10年ほど、まったく下がっていない。
塾通いで有名だった都会の一部の子を除くと、すでに90年代初頭には下がりようのないほどに下がってしまっていたからである。
しかし誘導されたにしても、全国の保護者が学力問題を心配し、「この学校は大丈夫でしょうか」と詰め寄るようになったのはどうしたことか?
日本の子どもたちが必死に学習した時代にトップに立つのは容易なことではないが、全国の子どもたちが学力を下げるとなるとわずかな努力でもトップが見えてくるというのに。
本来、日本の子どもたちの学力を心配するのは天下国家を心配する財界人や政治家の仕事であった。
しかし、わが子がトップに立てるかもしれない千載一遇のチャンスを捨ててまでも日本全体の学力をあげて欲しいと親たちが願うようになった、そういう意味ではすばらしい事件である。
政治の季節と呼ばれた1960年、1970年前後の安保闘争は学生の主導したが、さすが21世紀である。いまや一般の保護者たちが天下を憂えるようになった(とマスコミは言っている)。
社会人枠
教員採用試験において民間企業やNPO(民間非営利団体)の経験者を優先的に採用するための枠。
地方公共団体によって異なるが、およそ10%〜40%程度設定されている。
わざわざ社会人枠を設定したのは、
とかく「世間知らず」と批判の多い学校社会に民間企業・団体の知恵や意欲を導入し、学校をよりよきものにしようという社会の要請に従ったものである。
確かに「世間知らず」が教育を行っている現状には問題がある。
見よ! 家庭では世間を良く知るお父さんたちが立派な教育をしているではないか!それを壊しているのが学校なのだ。
社会人枠の根底にはそういう考え方があるのだろう。
二学期制
とにかく何か目に見えることをしないと世間が容赦しないという風潮に押されて、たいした目算もなく実施された政策。
その点で民間人校長に同じ。
「授業時数が激減した音楽科や美術科では3学期に授業が少な過ぎて評価が困難」
という事情が後押しした事実は否定できない。
しかし総体としてみると、
1、通知表が年2回に減って、保護者に生徒の状況を知らせる機会が三分の二に減ってしまう。
2、「子どもの成績がわからない」という保護者の不評に応えるために、夏休み前・冬休み前にミニ通知表を発行するようになると、教師の負担はかえって大きくなる。
3、テストが減ってしまい、生徒にとっては範囲の拡大、教師にとっては学習刺激の減少。
4、10月の上旬に「今日から二学期です」と言われても、新鮮な気持ちになることはできない。
と、教育上とてもメリットがあるとは思えない。ただし、やらないよりは世間の非難を回避できる政策上のメリットはあるのでゴー。
もう、子どもがどうなるかなんてことはどうでもいい。
何かやってくれないとストレスが溜まってしかたがない。
そいう人はけっこういるものだ。
民間人校長
とにかく何か目に見えることをしないと世間が容赦しないという風潮に押されて、たいした目算もなく実施された政策。
その点で二学期制に同じ。
スローガンとしては、
「広く学校外に人材を求め、民間活力を導入する」
であるが、
学校内に人材はいないのか、
今の民間に活力はあるのか、
あるとして、その活力で何ができるのか、
誰も知らない。
ただし、教員は世間を知らないと言うように、世間もまた学校を知らないから、民間の代表者が学校に丸一年以上いて、つぶさに現状を見てもらうのも悪くない試みであろう。
|
2003年、新語辞典に以上のような記事を書いた。そしてその後、民間人校長は増え続けたがこれといった大きな成果が現れたとは聞いていない。空しいことである。
ただし2006年に至って一筋の光明が見えてきた。
この年以降2007年にかけて次々に明らかになった食品偽装事件、ミートホープ牛肉偽装事件・不二家事件・白い恋人事件・赤福事件・比内鶏事件・船場吉兆事件・・・
思えば学校は誠実すぎた。
今こそ民間の知恵を入れるべきときかもしれない。
2007.11.18
教師はサービス業
読んで字の如し。
確かに農林水産業・鉱工業ではないという意味ではサービス業だが、
児童生徒・保護者を顧客とし、顧客のニーズに応えていこうという態度はもともと学校になかった。
しかしこれからの学校は積極的にニーズに答え、様々な商品を開発することになる。
ただ、
困るのは生徒同士・親同士あるいは親子でのニーズの一致が見られないということである。例えば、宿題を出して欲しい人もいれば出して欲しくない人もいる。
子のニーズにあわせて宿題を減らせば親からクレームが来るし、親に合わせて宿題を増やせば子が不貞腐れるという癒し難い二律背反が、随所に現れる。
いっそのこと「宿題大量クラス」と「無宿題クラス」とに分けようと思っても、予算の問題から教員の配当ができないのでそれも適わない。
多様なニーズに応えるべく、一刻も早い「1人学級」の実現が望まれる。
それにしても、かつては次の時代を担う人材を養成するためのものだった教育が、個人の満足のために消費されるとは、時代も変わったものである。
時にあんな親や子どものニーズに応えて税金をムダ遣いしていいものかといった親子もいるが、口にしてはいけない。
お客様は神様である。
マニュアル人間
意味は「規格化された
マニュアルなしには何もできない独創性ゼロのダメ人間」。
「言うことを聞かない」あるいは「言われたとおりに物事ができない」大量の子どもたちに、現場教師たちが手を焼いていた1990年代初頭、突然言われ始めた新語で、
当時の教師たちに衝撃を与えた。
厳しい管理教育のもと、
先生の言うことを何でも「ハイハイ」と聞くような「よい子」が量産され(そんな子が本当にいるかどうかという問題は別にして)、その結果大量に社会に出現しているという。
以後マニュアル通りにしないことが大切とされ、
小学校の導体実験ではスプーンをコンセントに差し込んだり、
中学校でも規定量以上の薬品を混合して反応のあざやかさを見るなど、極めてユニークな活動が見られるようになった。
したがって
理科、技術家庭科や体育といった教科はかなり危険な科目となっている(
何しろ時にはそれで教師の首が飛ぶんだから……)。
こうした風潮は社会にも広く伝播し、20世紀末、
ウラン精製や脱脂粉乳製造の過程でもマニュアル通りに行わない極めて独創的な人々が出現するようになった。
しかしこれらの独創的な仕事は正当な評価を得ることなく、
「マニュアル通りにやらなかった」「そもそもマニュアルさえなかった」などと厳しく非難される傾向がある。
解せないことである。
学校の危機管理
阪神大震災以来流行語のようになってきた「危機管理」が学校にも適用されるようになった。
言うまでもないが「学校の危機」は
「学校存続の危機」でも
「児童・生徒の心身の危機」でも
「学校施設の危機」でも
「天災その他の保安上の危機」でも、
ない。
何か問題が発生してマスメディアや世論の集中砲火を浴び、メチャクチャに叩かれる可能性
それが学校の危機の意味である。
したがって危機管理の方法は以下のようになる。
- 意味がなくてもとにかく全校集会を開いて、訓話めいた話をする(マスコミには公開)。
- 全校生徒に作文とアンケートを実施する。しかしその結果が社会的問題となる可能性があるので内容・項目については慎重に審議する(間違ってもヤバイ回答が出ないように配慮する)。
- 学級における担任講話は「話をした」とは言わず「カウンセリングを行った」と発表する(マスコミには非公開)。
- 教師には緘口令をしくが生徒・児童の口は封じない。ただし「確かに知っていること」のみ発言するよう協力を求める。
- 早急にPTA総会を開き、保護者を味方につける(マスコミには非公開)。
- 情報の窓口は校長に一本化し、校長の能力が高い場合は良いが、そうでなければ当該校長一人を生贄にして収束を図る。
- 現在の状況では児童・生徒のプライバシーを問題にするメディアはないので、情報は小出しにしない。
- 納得できなくてもとにかく謝る。メディアと戦って勝った者はいない。
トラウマ
「リス・トラ」とともに最新バイオテクノロジーが創り出した混合新生物(トラ・ウマ)・・・・・・ではない。
100年ほど前、かのフロイト博士が考え出した概念で、日本では「心的外傷」と訳される。
人間の内部には「心」と呼ばれる実体があって、それが言葉や行動、自然的・人間的環境によって傷を負うことを言う(らしい)。
フロイト博士においては「仮説」であったが、今や完全に市民権を得、
「そんなこと言って、ウチの子がトラウマにでも罹ったらどうしてくれるんだ!」
といった使い方ができるようになった
。
確かに、この言葉が多用されるようになってから、子どもはなおさら
「トラ並の獰猛さ」と
「ウマ並の生殖能力」
を備えるようになった。(⇒PTSD)。
PTSD――心的外傷後ストレス障害 ( Post-traumatic
Stress Disorder )
心的外傷を負っても心の傷にツバをつけたくらいで治してしまう人も多い。
普通はそうしている。
しかしことが戦争体験・レイプ・犯罪被害体験・事故・災害・身体的虐待・親しい人の死を間のあたりにする事等の、あまりにも強烈なショックによる場合は、そうは言っていられない。
PTSDはアメリカでベトナム戦争帰還兵の生活不適応から本格的な研究が進められ、日本では阪神・淡路大震災で注目されるに至った。
しかし今日の日本では、親や教師から忘れ物を注意された小学生でもなるかもしれないと心配され、
「そういうこと言うならPTSDになってやる!」
と子どもに脅され、右往左往する保護者・教師も増えているという。
確かにヤワなあの子たちを見ているとそういうこともあるのかもしれないと思う。
しかしそう考えることは、戦争や震災の被害者に対して申し訳がたたないと私は感じている。
混合名簿
男子が先、女子が後というかたちで作られていた児童・生徒名簿は差別であると考えた人々によって提唱され、現在定着しつつある新型名簿。
小学校では生まれ順(特に低学年で、成長の度合いを見落とさないため)、中学校以上では「あいうえお順」に、男女関わりなく作成する名簿のことを言う。
小学校では、これまで別々にやっていた身体測定を男女混合一回でできるようになり、二度手間が省けるかと思ったら、そうではなかった。相変わらず男女別なので飛石記載をせねばならず、ミスが続出。
身長が10cmも下がる男子や体重が15kgも増える女子が出て、ひどい混乱を起こしているという。
中学校の方でも記入ミスが頻発し、進路指導の際、
男子生徒を女子校に送りこんでしまった教師がいる。
比較的早い段階で気づいたが、一人の子どもの人生より、男女別学という差別の解消の方が重要だと考え、そのままのにしておいたそうだ。
あとはどうなったか知らない。
カウンセリング
一般には、
黙って座ればピタリと治ると信じられている霊感療法のようなもの。
天才フロイト博士でも「ネズミ男」の心理解明に1年半もかかっているというのに、フツーの人は小児科の処方する「風邪薬」のようにしか思っていない。
学校で問題が起こって「指導しています」といっても納得してくれないのに、
「カウンセリングしました」と言うと「よくやってる」と思ってもらえる、その意味では魔法の言葉ともいえる。
ロジェリアン
ロジャース流カウンセリングを信奉する人々。日本の場合ほとんどのカウンセラーがこれ。
別名「何でも言うことを聞く人」。
「先生!オレ学校なんか来たくネェヨー」
『学校へ来たくないんだね』
「人殺ししてェー気分だな」
『人殺ししたいんだ』
「あんたなんか、殺すにテキトーだと思うんだけどヨ」
『うんうん、私が選ばれたってわけだね』
「殺してもいいかな」
『キミがいいと思えばやればいいよ』
「じゃあ、やっちまうかな」
「…・・・・・・・・・クッ、苦シ〜イ・・・・・・・・・』
子どもが主役
「学校は子どもが主役」という使い方をする。
しかし
教師が監督で、教育委員会がプロデューサーだということは誰も知らない。
良い子が危ない
本来は
「良い子も危ない」はずだったが助詞を一つ間違えたばかりに全国の「良い子」の母親が戦慄し「悪い子」の母親が安心してしまった概念。
悪い子はもっと危ない。
言っておくが「良い子」の99.24%は
全然危なくない「良い子」なのだ。
個性教育
非常に複雑な多義語。したがって意味を列挙する。
@ウチのバカ息子やボンクラ息子、コンジョウなし息子が、
大した努力もせず、蚊に刺されるほどの痛みも味合わないで、しかも学級のヒーローになれるという夢の教育法
……と多くの親が信じてる。しかもそのすばらしさは、これが学校の問題であるため親もまったく努力しないで済むところにある。最近「個性教育の一環として」飛び級入試で大学に入った高校生が評判になったが、これでわけがわからなくなった。
A平等にチャンスを与える
大学の入試が、日本の天才児をつぶしていると信じる政財界人のスローガン。
ピカソやエジソンのような才能だけを「個性」と呼ぶ。したがって「子どもの個性をのばそう」は「天才を大切にしよう」という意味。
「個性教育」は基本的にAの人々が提唱し、@の人々がだまされた。
昔流に言えば、なんかの勘違いで極左と極右が結びついたようなものだ。最近某出版社の故事熟語辞典に、「同床異夢」の説明として「個性教育」の逸話が載ったという。
B「その子の良さを伸ばせば、短所は減る」と信じる人々の標語。
それはいいが、長所が見つからない場合は
「乱暴者」を「元気がいい」、
「身辺が乱雑」は「細かいことを気にしない」
と読み替えて大切にするため、
結局悪いところを育ててしまうか放ったらかしにしてしまうことになる。
一部の教師と多くの親に人気がある。
C「あの人は個性的だ」という場合たいていは「変な人だ」という意味である。そういう
変な人を乱造することにどういう意味があるかわからないまま、一生懸命排出している一部の教師の基本的態度。
D「これが個性だ」と叫べば大人は確実にウロタエルと信じている
不良少年の金科玉条。対応は本HP「応用編」を参照。
買ってはいけない
援助交際に手を染めた教師がマスコミを賑わせるようになってから急遽叫ばれるようになった
風紀是正のスローガン。
自由保育
どんな高い理念も一般化するとロクでもないときがある。
自由保育も理念としては正しく、最先端の研究の場では相当のことが行われているのだろう。けれどその辺の幼稚園・保育園がにわか仕立てでマネをすると、単なる
放ったらかし保育だ。
「子どもたちは小学校に上がるとみんなきちんとさせられてしまって可愛そう。幼稚園や保育園の時代こそ、のんびりと自由にさせてあげなければ……」と、気の効いた園長先生はおっしゃる。
その通りだ。
50年以上前の日本もそうだった。当時男の子は18〜19歳くらいになると、みんなこう言われたものだ。
「20歳になって軍隊に入ったら厳しい訓練ばかりさせられて可愛そう。だからせめて今だけは楽をさせようと思って、ウチではハシも持たせないんですよ」
20年前の日本もそうだった。
「今度学校で登山行事がありますでしょ? すごく大変だって聞きましたから、それまではと思って近頃では歩いたり走ったりすることも控えさせてますの、オホホホホ・・・・・・」
(オイオイ本気にするな、単なる皮肉だゾ。)