地下鉄サリン事件
救急医療チーム最後の決断
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 平成7年3月20日、東京は無差別テロに襲われた。地下鉄に毒ガスサリンをばら撒かれたのである。人類史上経験のないテロに、学生、OL,地下鉄職員も巻き込まれ、5000人がうめいていた。
 多くの患者が運ばれたのは東京築地の聖路加国際病院、院長は日野原重明。目が見えない、襲いくる謎の痙攣。どんな薬を使えばいいのか。未曾有の毒ガステロに挑んだ、医師たちのドキュメントである。
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◆広大な聖路加病院の建設
聖路加国際病院
広々とした廊下
 物語は事件の3年前から始まる。平成4年、東京築地に巨大なタワーが出現した。聖路加国際病院で、その豪華さに話題をさらった。フロアも廊下も、やたらと広く、礼拝堂はコンサートが開けるほどだった。ベッド数をよほど増やさないと採算が取れないと、周囲は笑った。病院を設計したのは、院長の日野原重明である。

 彼には、若き日の忘れられない思い出があった。昭和20年の東京大空襲のとき、100万人が焼け出され傷を負った。日野原は治療に当たったが、病院に入りきれない患者が、野外で亡くなった。彼はこの時、大災害に耐えられる病院を絶対作って見せると誓った。

 日野原は新病院の設計に工夫を凝らし、酸素の配管を病院中の壁にめぐらし、礼拝堂も緊急時には広い病室になると設置、また24時間対応できる救命センターを設けた。

 若手の医師でローテーションを組み、研修を積ませた。若手の医師で指揮官に抜擢されたのが、救急医石松伸一だった。若いが冷静沈着だとして推薦された。石松は身が引き締まった。 

◆地下鉄サリン事件の発生
倒れた乗客を必死に外に
救護所の患者たち
 平成6年6月、長野県松本市の住宅地で異臭事件が起きた。自宅でくつろいだ姿勢のまま、7人が亡くなっていた。長野県の衛生公害研究所の分析の結果、神経ガスサリンとわかった。

 第2次大戦でナチスドイツが開発、その威力は青酸カリの500倍、体内に取り込むと筋肉の動きが麻痺し、呼吸停止を起こす。あまりの酷さに国際条約で製造を禁じられていた。なぜ松本で、サリンが使われたのか。犯人も目的もわからなかった。

 その半年後の平成7年3月20日午前7時50分、地下鉄日比谷線「小伝馬町駅」。通勤ラッシュが始まっていた。改札口には、笑顔の耐えない駅員、大室がいた。8時2分、北千住発中目黒行きの電車がホームに入ってきた。電車が止まった瞬間だった。乗客が次々とホームに倒れこんだ。駅員が駆けつけると、電車の床の紙包みから、透明な液体がしみでていた。

 東京消防庁には、都内5つの駅から出動要請が入った。何か危険なガスが漏れている。地下鉄駅員は、倒れた乗客を必死で運び出した。改札口の大室は、乗客の最後の一人が運び出されるまで離れなかった。誰もいなくなった改札口に、一人倒れた。

◆聖路加病院の難しい対応
責任者の石松医師
ごった返す築地駅前
礼拝堂の患者たち
縮瞳
 小伝馬町から車で10分の聖路加病院。責任者の石松、「消防から爆発事故がおきたらしいが、何人まで重傷者を受け入れられるか」と電話があり4〜5人は大丈夫と答えた。消防庁から通報のあった患者が運ばれてきた。火傷はない。しかし、心臓が止まっていた。「どういうことだ。何で心臓停止なんだ。しかも怪我もない。」ただ事ではなかった。

 聖路加病院は大騒ぎになっていた。患者の心臓マッサージを始めたが、まるで反応しなかった。2分後さらに4人の患者が運ばれてきたが、全員呼吸が止まっていた。石松は、若手に地下鉄の様子を見てくるよう指示した。3分で地下鉄築地駅に到着、唖然とした。重症患者のほかにも、200人以上の人が倒れていた。救急隊員が言った。「これだけの患者の受け入れ先が獲得できません。どの病院も手一杯、しかし治療が遅れれば危ない」と。若手医師は「すぐ連れて行かないと」、電話も入れずに、聖路加に向かった。

 院長の日野原が言った。「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」と。館内に一斉放送が流され、緊急招集し精神科医も産婦人科医も救命センターに呼んだ。病院中の空きベッド、車椅子が集められた。続々と重症患者が到着、急いで救命センターに運んだ。続いて意識はあるが目の痛みや吐き気のある患者が、タクシーやバスでやってきた。日野原は言った。「軽症患者は礼拝堂に運べ」。看護婦が礼拝堂に走り、壁の配管に人工呼吸器を取り付けた。点滴台と毛布を運び込むと、礼拝堂が広い病室に変わった。

 重症患者が運ばれた救命センターでは、必死の蘇生が続いていた。小伝馬町で倒れた駅員の大室も運ばれてきた。体は動かせず、目も見えない。そして筋肉の麻痺で呼吸が止まりかけている。石松は、症状を抑えようと硫酸アトロピンを点滴したが改善しない。そのとき、「これは何だ」すべての患者に共通する症状があった。縮瞳、瞳が異常にちじんでいた。縮瞳は、有機燐系の農薬中毒に特徴的に起こるといわれていた。

 その時、同僚の奥村は、半年前の事件を思い出していた。松本サリン事件。サリンの症状は、当初は農薬中毒事件と報じられていた。またサリンか?石松の脳裏に一本の薬が浮かんだ。有機燐系農薬に有効とされる解毒剤「パム」。しかし、筋肉の麻痺は取り除くが、一方それ自体に毒性を併せ持つ危険な薬だった。

 原因が特定できない中で患者に投与すれば、患者の命を危うくする恐れがあった。サリンかどうか、どうやって確かめるのか。石橋は、究極の決断を迫られた。

◆危険な薬「パム」投与の決断
危険で貴重な薬パム
パムが点滴ボトルへ
必死の集中治療(1)
必死の集中治療(2)

 事件発生から一時間、聖路加の収容患者は100人を超えた。だんだん呼吸が弱くなる患者たち。救命センターには、治療の指示を仰ぐ電話が殺到した。「パムを使いましょうか?急ぎましょう」。石松は「待て、患者の命がかかっている」
 地下鉄職員の大室は意識がなくなり、人工呼吸器が頼みとなった。全身に痙攣が始まっていた。このままでは、心臓が止まる。

 その頃、長野県松本市。一人の男がテレビの築地駅の光景に見入った。信州大学付属病院の柳沢医師。松本サリン事件で被害者の治療を担当していた。インタビューで、瞳がやけに小さかったと証言している、これはサリン中毒の大きな特徴である。直ちに聖路加病院に電話し、救命センターの石松に告げた。「サリンの症状に似ています」。後は石松の決断だけが残された。

 石松はパムを見つめた。静かに席を立った。集中治療室で告げた。「パムを投与する」。同僚の奥村がうなずきながら、パムをあけて注射器に吸い取り、点滴ボトルに注入した。重症患者8人に投与した。石松はじっと知らせを待った。30分後、奥村が駆け込み、「パムが効きました」、心臓が止まる前兆の痙攣が消えた。

 しかし、薬剤部で大問題が持ち上がった。パムは特殊な薬、在庫が20人分しかなかった。薬剤部長の井上がパムを扱う問屋、名古屋のスズケンに電話をかけた。「東京中でパムが必要になる。ありったけのパムを運んでくれ」と。責任者の小林は、各地の倉庫にパムを集めるように指示した。小林は新幹線に乗り、沿線の浜松、静岡、横浜の各倉庫からパムを受け取る作戦を取り、合計230人分が集まった。

 東京の聖路加病院、非番の看護婦が駆けつけていた。臨時の血液検査コーナーが作られた。足りなくなったカルテは、手作りで、患者の首にぶら下げた。午後1時、新たなパム約200人分が到着した。患者に次々に投与された。

 その頃、集中治療室に、地下鉄職員の大室の治療が続いていた。その手が動いた。意識が戻った大室、懐かしい声が聞いた。「大丈夫かい?」母のゆき子が枕元で涙ぐんでいた。大室は「大丈夫だよ」と答えた。この無差別テロに立ち向かった病院スタッフ1200人、必死の戦いは夜通し続けられた。

◆地下鉄サリン事件その後
地下鉄サリン事件
日野原院長

 事件の2日後、衝撃の犯人が明らかになった。オーム真理教だった。この地下鉄サリン事件で、12人の尊い命が奪われた。地下鉄では、2人の職員が殉職した。

 あの日、最後まで改札に踏みとどまった大室さんは、事件の1週間後、職場に復帰した。病み上がりの体を押して改札に立ったとき、乗客に声をかけられた。「おはよう。姿が見えなかったから、心配したんだよ」「ちょっと休みをいただきました」と言いましたが「嬉しかったですね」

 事件から丸10年、厳しい現実がある。被害者の半分が、今なおサリンの後遺症で苦しんでいる。石松は事件と向かい続けている。被害者の追跡調査と定期健診を続けている。あの事件にかかわった医師の使命だと思っている。

 日野原院長「病院を建て直してから14年になるが、病院は時として戦場になる。あの事件をきっかけに、みんな心に刻んだものと感じている」と。

▼所感:
 人類史上、例のない無差別テロ、あの地下鉄サリン事件からちょうど10年になる。日野原院長が、戦時中の東京大空襲で、病院にも入れず野外で亡くなった事実を反省し建てたという、スペースの広い聖路加国際病院がこの事件で生きた。100人もの患者を収容し治療することができたのは、院長の先見の明だった。

 また、松本サリン事件の経験から、危険な解毒剤「パム」を使用する決断に至ったのは幸運だったといえる。しかし、10年たった今でも、全身麻痺や脳障害で治療を受け、後遺症に悩む人々が大勢おられることを忘れはならない。 ニューヨーク9/11テロの、被害者への政府の保証金や支給される援助金が、大変手厚いものだと聞いている。一方、日本政府を狙ったこのテロに巻き込まれた人々に対する援助は、十分だろうか。

 オウム真理教の教祖麻原にそそのかされ、毒ガスサリンを造って一審で死刑になっている東大理系卒のエリート犯人たちや教祖の麻原は、事件後10年どうなっているのだろうか。裁判は遅々として、進んでいるようには見えない。全く情報が見えてこないのは残念でならない。未だ指名手配中の犯人3名が、逃亡中なのも気になることだ。
 

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