雨の神宮外苑「学徒出陣」56年目の証言 
            〜語りつごう戦争を知らない人たちへ〜
                             

      
昭和18年(1943年)10月21日、いまはJリーグサッカーで賑わう明治神宮外苑の国立競技場で若者75,000人が終結する出来事があった。あいにくの雨だったが、戦況の悪化に伴って、20歳以上の学生の兵役免除がとかれ、戦地に赴くことになった25,000人の学生の出陣壮行会が行われたのだった。
国立近代美術館フィルムセンターに、文部省が制作しほとんど公開されたことのない15分の「壮行会」のフィルムがあり、この番組に使用された。その貴重な映像から取り込んだ写真と、生き残った人たちの証言および見送った女子学生の証言を、ピックアップして記録した。






国立競技場に75,000人集まった学徒出陣壮行会
雨の神宮外苑での「学徒出陣」壮行会に、送られる学徒25,000人、見送る女子学生ほか約50,000人の人々が集まった。
文部省から出された壮行会の目的は、「学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚する。」にあった。そのため大観衆が集められることになり、女子学生や旧制高校生が動員されたのである。

この人たちはずぶぬれになりながら、スタンドからどのような気持ちで、見送ったのであろうか。東條首相の訓示、出陣学生代表の答辞、最後に「海行かば」の大合唱で壮行会の幕を閉じた。

この壮行会に出た出陣学生のうち、3,000人以上が戦死したといわれている。

東京帝国大学を先頭に行進
出陣学生1
女子学生の声援を今でも鮮明に覚えています。入口から「歩調とれ」の号令で会場に入りました。胸に残っているのは、女子学生 たちの「がんばって下さい。」「生きて帰ってきてください。」の声援でした。これで彼女らを護らなければならないという 気が起きました。

出陣学生2
とうとう来たかと思いました。軍隊がイヤだから大学に入ったようなものだったから。先輩から聞くと軍隊の厳しさは、人を 人間扱いしない。 教練の成績も悪かったし、軍隊にはできれば行きたくなかった。みんなそうではなかったんですか。

学帽に、学生服、ゲートル、銃を持つ
<出陣学生3
これから人殺しをしなければならないと思うと、「締念」でしたよ。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした。

出陣学生4
軍隊は非合理でした。上官が、2日目から訳もなく殴る。人の能力をどうしたら引き出せるか、どうしたら敵に勝てるかというのは ほとんどなく、日本精神でひっぱたいて鍛えることしかないんですよ。
出陣学生5
沖縄戦で特攻隊員を命ぜられた。金属の骨に布を張った飛行機だった。これしか残ってないから使ってやってくれという。 こんな捨石には、勝っても負けてもなりたくないですよね。消耗品になるのは悲劇です。

出陣学生6
フィリピンのジャングルの中での経験ですが、黄色い水というか泥水があちこちに流れているんです。水のそばには必ず死体が あリました。それも頭、手、足がばらばらになっているんです。ダンテの「地獄編」を読みましたが、その地獄そのものでした。 真善美を追求する学生としては、あまりにかけ離れた世界でした。

雨の中の行進する足

着剣した三八式歩兵銃をかつぐ学生
出陣学生7
恥ずかしくない行為をしよう。誰も死にたくないよと思っていた。しかしこれも運命だからしょうがないという人生観に なっていました。

出陣学生8
英文学者になるのが夢だった。軍隊に行ってなければ、好きな英語の勉強に打ち込んで、その道のベテランになっていたかも しれない。今言っても仕方のないことだけど。
孫たちに、「戦争がなくて幸せだなあ。何でもやりたいことができるんだから」と言っています。

訓示する東條首相
東條首相訓示
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より征途につき、祖先の威風を昂揚し、仇なす敵を撃滅して、皇運を扶翼し奉るの日は こんにち来たのであります。」

出陣学生9
首相の訓示は忠君愛国をたたきこむ話で、またかという感じだった。毎度同じ事を聞かされてうんざりだったですね。

出陣学生10
国の考え方が正しいという前提に立っていますから、頼むよとの首相の言葉に対し、死をもって報いようと思いましたね。

東大生による出征学生代表答辞


答辞内容
「生等(我ら)いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの光栄ある重任に捧げ、 挺身をもって頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。」

「海行かば」の合唱
「海行かば水くかばね、山行かば草むすかばね……」

答辞を聞く出征学生



出陣学生11
答辞で、生還を期せず(生きて帰らない)をことさら高く読み上げたのは、個人としては違和感がありました。戦争だから死ぬことはあるが、 できれば死なずに帰って、戦後の日本を建て直す努力をする方がよいわけで、死ぬことにこだわるのはおかしいと思いました。

東京都内30校以上の女子学生25,000人

見送った女子学生1
前途ある人たちが、どうして戦地に赴かなければならないのか。聖戦という思想に染められていましたが、さめた気持ちで これでいいのかという気持ちがありました。歴史の大きな流れの中に巻き込まれた感じですね。私は学生寮にいたため助かり ましたが、家族は全員空襲でなくなりました。

見送った女子学生2
兄をスタンドから見送りました。かなり寒かったんですが、雨でも傘をさしませんでした。この人たちが、もし生還できたら いいのになあ、でも100%死ぬんだと思いました。しかしそういう希望のもてる時代ではなかったですね。兄は9ヵ月後 サイパンで戦死しました. 私が兄を見送れたのは、運がよかったのかもしれないですね。

見送る女子学生を雨がぬらした
見送った女子学生3
56年前の出来事ですが、鮮明に記憶しています。あの日は、どしゃ降りの雨で、頭から下着までずぶぬれでした。会場全体が、 白と黒中心の全く色彩のない風景でした。
学生たちがゲートを出て行くとき、予期しない出来事が起こりました。女子学生が出口にどーっとなだれを打って駆け寄ったん ですね。いまから出陣する人に、女が近寄るのは不謹慎であることはわかっていました。ただ近づいて雨と涙で行ってらっしゃいと 言いたかったのです。彼等は、手を振るでもなくただまっすぐ前を見て、銃を背負って出て行きました。学生が出陣しなければ ならないのは、戦争は終わりですよ。「一期一会」、これで終わりだと思うから、タブーを犯したわけですね。しかし、ほとんど 帰る希望のなかった学生たちへの餞になったと思います。

学帽をかぶった女子学生

見送った
女子学生4

東京オリンピックの開会式で、カラフルなユニホームを着たアメリカ、イギリスの選手たちがわれわれにニコニコと手を振っている。 あの雨の学徒出陣壮行会と同じ競技場で。これには大きな衝撃を受けました。
当時の、その落差の大きさ、大きなショックは、体験者でなければわからない心の燃えでしたね。
失ったもの、悲しみの大きさがすべての原点となって、敗戦(20歳)から55年の私を支えてきました。

皇居の前で「天皇陛下万歳」三唱
見送った女子学生5
出征直前、婚約した彼が軍服で挨拶にきました。初めて二人になったとき、彼は襟を正して言いました。「この戦争は間違ってる。 国のためならともかく天皇のために死ぬのはイヤだ」と。当時、日本は神国だ、天皇のために死ねとの教育でしたから、私は びっくりしました。
あの時、なぜ戦争がイヤなのかを聞かなかったのか。そんなにイヤなら二人で死のうとなぜ言えなかったのか…。出征を見送る ホームで、彼は笑っていたけど涙していました。「どこへ連れて行かれるのかなあ」それが最後でした。彼は沖縄で死にました。 彼の気持ちを受け止められなかったのを今でも悔やんでます…。
いまの若い人たちに頼みます。世界中が平和になるような世界をつくってください。




作成者所感:

出陣学生たちは、戦局の悪化に伴い、否応なしに戦場に駆り立てられたが、半世紀以上たった今の彼らの話の中には、軍隊には入りたくなかった、人殺しはしたくなかった、英文学者になろうと思っていたのになどいろいろだが、誰も、戦争などで死にたくはないという真実の思いが、にじみ出ているように思われる。
見送った女子学生たちの話は、この人たちは死ぬかもしれないという思い、見送った同じ場所で当時の敵国の人と競技することのギャップ感、現在70代後半と思われる当時の女子学生が、婚約した彼が、涙しながら出征していった気持ちを受け止められず、沖縄で死なしてしまったと、切々たる思いを吐露されているのには、かける言葉もない。
戦争体験者の高齢化が進み、「広島を語る会」も解散するに到った昨今、永遠の平和を護るために、世代を超えて戦争体験を伝える一助となることを期待したい。


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