昭和天皇とマッカーサー会見の時
〜日本を動かした一枚の写真〜

 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾から2週間後、日本の運命を握る人物が厚木飛行場に降り立った。連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーである。
 終戦直後、連合国には、天皇に対し厳しい処罰を要求しようとする勢力があった。一方、日本政府は、たとえ連合国に占領されても、何とか天皇制を維持していきたいと望んでいた。
 敗戦から1ヵ月半の後、昭和天皇はマッカーサーを訪ねた。会見の2日後、発表された1枚の写真、それは日本国民に敗戦の現実をまざまざと実感させるものだった。そこには、昭和天皇の会見をできるだけ印象深いものとして発表しようという思惑があった。会談のあとマッカーサーは、周囲の圧力を退けて天皇制の維持を心に決め、以後さまざまな占領政策を実施する。
 戦後の出発点とも言える、昭和天皇とマッカーサーの会見にまつわるかけひき、内容、反響など敗戦直後の歴史的な事実を、当時の関係者の証言を交えて描く。

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マッカーサーの来日と終戦処理
厚木に降り立ったマッカーサー
米軍横須賀に上陸開始
重光代表が降伏文書に調印
 昭和20年8月15日、昭和天皇のラジオ放送によって、日本の敗戦が国民に知らされた。「耐えががたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。」この頃天皇が愁いていたのは、占領軍の方針だった。天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸内大臣に天皇はこう漏らした。「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけにはいかないだろうか。」

 8月28日、日本の運命を握る一人の男が、フィリピンの飛行場を飛び立とうとしていた。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーである。太平洋戦争中は、極東軍司令官として日本攻撃の責任者。一度は日本に奪われたフィリピンを奪回した。そして、日本の敗戦と共に、日本に対する占領政策を遂行する権限を手にすることになった。
 8月30日、マッカーサーを乗せた飛行機が厚木飛行場に着陸した。マッカーサーは丸腰だった。悠然とタラップを降りた。この時、飛行場で整備担当をしていた芦沢さんは、「彼が敵の総大将かと思うと、悔しさと悲しさ両方で思わず涙が出ました。これからの日本はどうなるのかなあと、絶望的な気持ちになりましたね」。

 マッカーサーとその一行は、宿泊地の横浜に向かった。沿道には、24kmにわたって一定の間隔で、マッカーサーを護衛するための日本の憲兵が立っていた。同じ日、横須賀にアメリカ艦隊が姿をあらわした。そして、アメリカ海兵隊第1陣13,000人が上陸を開始、こうして日本占領が始まった。木戸内大臣の記録。「厚木へ米軍進駐の状況を聞く。事故もなく、和やかな空気の中に行われたる模様なり。厚木進駐の状況を言上す」

 マッカーサー到着の3日後9月2日、この日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上で、日本軍の降伏調印式が行われた。午前9時4分、天皇および日本国政府を代表して、重光外務大臣が調印、続いて、マッカーサーと連合国代表8人が調印。日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏することが正式に承認された。
マッカーサーの占領政策
占領軍東京に進駐
東條元首相
皇居の隣に移ったGHQ
GHQを出るマッカーサー
重光代表とマッカーサー
マッカーサー元帥
 マッカーサーは日本政府に対し、今後の政策立案は、連合国軍総司令部GHQが直接行うと通告してきた。当時マッカーサーの秘書官だったフランクサットンさんは、「当初、米国政府の計画では、日本に軍事政権を置くはずでした。実際に、米国で軍事統治の訓練を受けた部隊が、いつでも日本に出発できるようになっていたのです。」GHQが行政、司法、立法すべてにわたって日本を統治する。それが米国政府の計画だった。

 調印式の翌日の9月3日、外務大臣の重光がマッカーサーを訪ねた。GHQが、直接日本を統治するのは、国民は混乱するだけだから、政策の実行は日本政府を通して行うよう申し入れた。重光の作成した文書によれば、マッカーサーの答えは、「自分は、日本国を破壊し国民を奴隷にする考えは全くなし。要するに、政府と国民の出方一つにて、この問題はいかんともなるものなり」。マッカーサーは、日本の政府を介した間接統治を行うと約束した。この報告を聞いた昭和天皇の様子を伝える重光の手記「陛下より、それは誠に良かったねと、一方ならず、お言葉があり」

 しかし、占領軍の動きは予断を許さなかった。9月8日、進駐軍は横浜から首都東京に進駐した。同時に、日本政府の意向を無視して、GHQ本部を皇居の隣に移した。マッカーサーは、この場所から次々と日本統治の施策を実施していく。
 9月11日GHQは、事前通告なしに、元首相東條をはじめ37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留した。昭和天皇の恐れていたことが、発生したのである。日本政府には、いずれ、天皇や皇族も、戦犯として逮捕されるのではという危機感がつのった。

 マッカーサーに、大きい影響を与えた人物がいる。軍事補佐官ボナーフェラーズである。フェラーズは、太平洋戦争が始まる前から日本軍と天皇について研究していた。フェラーズは、天皇は日本人の精神的なよりどころであるとして、天皇の意向を利用した統治を進言したのである。秘書官は「マッカーサー元帥が、日本に到着した当初から、日本政府が大変協力的で、天皇が出した勅令「武器を捨てて占領軍に協力せよ」が実際に、非常に効果のあることがわかったんです」。

 しかし、GHQにとって問題だったのは、昭和天皇がどういう人柄なのか、全くわからないことだった。「昭和天皇を呼び寄せて、面会してみてはどうか」と進言があった。マッカーサーは答えた。「いや、私は待とう。そのうち、天皇の方から、私に会いに来るだろう」。昭和天皇とマッカーサー会見の半月ほど前のことだった。
マッカーサーと天皇の会見をめぐるかけひき
外務大臣吉田茂
当時の昭和天皇
天皇会見を伝える記事
GHQ
 9月10日、昭和天皇を戦犯として裁くことがアメリカの政策であるとの決議案が、アメリカ議会に提出された。この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。9月中旬、新たに外務大臣になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ皇居を訪れた。昭和天皇の用件は、マッカーサーに会いたいということだった。

 9月20日午後吉田は、昭和天皇の意向を伝えにマッカーサーを訪れた。吉田は、マッカーサーにこう聞いた。「閣下は、陛下がお訪ねになることを期待されていますか」。マッカーサーは答えた「天皇にお目にかかることは、私としてももっとも喜ばしいことと考えている。しかし、私は、天皇の自尊心を傷つけたり、困らせるようなことになってはよくないと考えている」。このあとマッカーサーは、場所は、GHQよりもアメリカ大使公邸のほうが良いと告げた。天皇の対面を慮り、プライベートな訪問の形にしたかったからだといわれている。

 この頃の昭和天皇の考えが、内大臣の記録に残されている。「天皇に対する米国側の論調につき、すこぶる遺憾に思し召され、自分の意志を新聞記者を通して明らかにする」と。このあと、昭和天皇は、アメリカ人記者2人を招き、「日本の将来は英国のような立憲君主制がよいこと、日本は、再び戦争を起こさないための必要な手段をとりうること」を伝えた。

 9月26日付けニューヨークタイムズの見出し、「天皇、今は戦争反対だと語る」だった。その頃マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあらゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。秘書官は、「我々は昭和天皇について、徹底的に調べました。例えば、彼は海洋生物学の権威でした。昭和天皇がタバコ好きなことも知りました。そこで、マッカーサー元帥は、タバコを持っていくことにしました。こうして、元帥は、昭和天皇についての十分な知識を持って臨むことができたのです」。
昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見
マッカーサーと昭和天皇の会見写真
 9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって皇居を出発した。シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
 作家の工藤さんは「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」

 午前10時、車はマッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関にはマッカーサーの姿はなく、出迎えたのは2人の副官だけだった。マッカーサーはこの時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。

 10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の奥へと案内した。米国バージニア州のマッカーサー記念館に、会見時の写真が3枚残されている。
皇居を出発する車
大使公邸を出る昭和天皇
昭和天皇を擁護するマッカーサー
日本国憲法の公布
米国に存在する3枚の写真
写真が掲載された新聞
1枚目はマッカーサーが目を閉じているため不採用、2枚目は昭和天皇の口が開いているため不採用、3枚目は、ゆったりと腰に手を当てたノーネクタイのマッカーサー、モーニング姿で直立不動の昭和天皇が映し出されている。採用されたのはこの写真だった。

 写真撮影のあと、2人の会見が始まった。その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。しかし、マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。
 「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」
 天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」
 35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。マッカーサーは、予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

 翌日日本の新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道したが、写真は、不敬にあたるとして掲載が禁じられた。GHQは、直ちに禁止処分を取りやめさせて、写真の掲載を指示した。会見の翌々日、写真は新聞の一面に掲載された。そして、日本中の人々に衝撃を与えた。作家高見順は「かかる写真は誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだったのである。

 写真掲載の3日後、マッカーサーは軍事補佐官から、天皇について進言を受けた。「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで裁判にかけられれば、統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」と。この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。マッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
 敗戦から1年余りの昭和21年11月3日、それまでの大日本帝国憲法に代わって、GHQの改正案を元に政府が手を加えて、日本国憲法が公布された。その第1条にこう書かれている。「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」
マッカーサーと昭和天皇のその後
日本を離れるマッカーサー夫妻
各地を巡幸する昭和天皇
 会見の後GHQは、財閥解体、農地改革、婦人参政権の確立など、次々と政策を推し進めた。マッカーサーは、日本人についてこう語っている。
「現代文明をもって測定するなら、我々が45歳だとすると日本人は12歳の少年のようなものである。日本人は、新しいモデル、新しい考えを受け入れることができる。日本に基本的概念を植え付けることは可能である。彼等は生来、新しい概念を柔軟に受け入れるだけの素質に恵まれている」と。

 1950年、朝鮮戦争勃発、マッカーサーは、朝鮮戦争に乗り込み戦争の指揮をとった。しかし戦争の方針をめぐって、大統領と対決、総司令官を解任された。1951年、4月16日、マッカーサーは日本を離れることになった。日本を占領するため来日してから6年後のことだった。そして1964年、マッカーサーは84歳でこの世を去った。

 1946年1月、昭和天皇は人間宣言を行った。その年の2月から9年かけて、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用邸で記者会見を行い、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。
 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。

作成者所見:
 1945年9月27日、マッカーサーと昭和天皇は2人だけで会見した。その会見内容は、当時も今も公式に発表されていない。マッカーサーの回想記によれば、昭和天皇は、政治、軍事の全責任は私にあり、私自身を連合国に委ねると申し出たと言う。 これに、マッカーサーは感激し、日本最上の紳士と評価して、その後、一層好意ある態度を示したようだ。昭和天皇とマッカーサーの人物像の一端を示す、意義ある話題だった。これが、今の象徴天皇の発端となった。
 一方マッカーサーは、会見写真の新聞公開を指示し、日本国民に敗戦を実感させる才覚も示した。
 いずれにしても、終戦直後、占領軍と日本政府の間で、天皇自身の扱いとマッカーサー会見をめぐるかけひきが、真剣かつ必死の覚悟で行われていたことは、あまり知られていないだけに、歴史的にも興味深いものがある。