〜 国際社会と闘った男たち(2)〜
3.昭和の松岡洋介…日独伊三国同盟締結の誤算

1940年9月、日本は、ヒトラー率いるナチスドイツ、ムッソリーニ率いるイタリヤと、日独伊三国同盟を結んだ。これは、事実上アメリカを仮想敵国とみなす条項を含むものだった。当時の松岡洋右外相は,三国同盟にソビエトを参加させ、四国の協力関係をつくろうとしていた。何故、不可能と思える壮大な同盟構想を抱いたのか。そして、何故アメリカに対し、力で対抗しようとしたのか。日独伊三国同盟に秘められた松岡の思い、日本の運命を変えた太平洋戦争までの経緯を描く。

◆松岡とアメリカとの出会い
松岡の学んだオレゴン大学
帰国した当時の日本
 1880年、松岡洋右は、山口県の廻船問屋に生まれた。11歳のとき、家は倒産。、このとき松岡は、アメリカに渡って、働きながら勉強する決心をする。

 1893年の春、13歳の松岡は、アメリカ西海岸に到着。ここで待っていたのは、最初の寄宿先で、いきなり薪割りを命じられるという体験だった。この家では、松岡は留学生ではなく、使用人の一人としか見ていなかった。皿洗い、農作業など重労働をして、学費を稼いだ。時には、人種差別も体験した。松岡の心の支えとなったのは、次の寄宿崎のベバリッジ夫人だった。ベバリッジ婦人は、松岡を、自分の息子と分け隔てなく接し、励ましてくれたという。

1898年、松岡はオレゴン大学に入学。クラスで2位という優秀な成績を収める。クラスメートは、松岡をこう評した。「駆け引きに長けたポーカーの名手」。松岡は、後でこう語っている。「アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない」

1901年、アメリカの大学を卒業し、日本に帰国する。そして、外務省に入省、外交官として中国、アメリカなどに勤務する。

◆国際連盟の脱退
満州事変起こる
国際連盟総会で演説する松岡
松岡を迎えた大歓声
 1931年、満州事変が起こる。中国東北部の鉄道爆破事件をきっかけに、日本軍が軍事行動を開始。中国東北部のほとんどを占領する。翌年3月、日本軍は、清朝最後の皇帝溥儀を皇帝に加えて、満州国建国を宣言させる。

 11月、満州国建国を認めるか否かをめぐり、スイス、ジュネーブで、国際連盟の臨時総会が開かれた。このとき松岡は、日本代表団の主席全権に任命された。本会議で、日本は非難を浴びる。議場では、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ。これに対し松岡は、得意の英語で反論し、これは、「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」との日本の立場を訴えた。

そんなある日、日本政府からの指示が届いた。「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」。松岡は電報を送り返した。「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず」と。松岡自身は、あくまで、国際連盟に残るべきだと考えていたのである。

 2月24日、決議が行われた。満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案は、賛成42の圧倒的多数で可決される。反対は、日本の投じた1票のみだった。可決直後、松岡は演壇に登り、次のように発言した。「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」。松岡は席を立って退場する。その一月後、日本は、国際連盟脱退を通告する。

 1933年4月、松岡は失意の中に帰国。しかし、そこで思いもよらぬ光景を目にする。交渉に失敗した松岡を待っていたのは、国民の大歓声だった。新聞は、次のように報じた。「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は始めて、[我は我なり]という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」。松岡は、一躍、国民的英雄となっていたのである。

◆日独防共協定と独ソ不可侵への困惑
日独伊防共協定
日中戦争始まる
ドイツとソ連が急接近
1933年1月、ドイツでは、ヒトラー率いるナチスが政権を握る。独裁体制を築いたヒトラーは、国際連盟を脱退して、軍備拡張を宣言する。共に、国際的に孤立した日本とドイツは、急速に接近し、1936年11月、日独防共協定を結ぶ。この協定の主な目的は、ソ連に対抗することだった。ヒトラーは、当初からソ連を仮想敵国とし、日本もまた、ソ連を大きな脅威と考えていた。翌年、イタリアもこの協定に参加、日独伊防共協定が結ばれる。

1937年7月、中国北京郊外で、日本軍と中国軍が衝突、日中戦争がはじまる。日本は、中国各地に進攻、これに対しアメリカは、中国を援助し日米関係は悪化していく。

1939年1月、ドイツから日本に、新たな提案がもたらされた。日独伊防共協定を発展させ、強固な同盟にするというものである。内容は、「三国の中の一国が、今後三国以外のある国から攻撃された場合、軍事的に援助することを義務付ける」。それは、日本が、ソ連だけでなく、イギリスやフランスそしてアメリカをも、公然と敵視することを意味する。「はたして同盟を結ぶべきか否か」日本政府は、何回となく会議を開くが、結論が出なかった。そのさなか、8月23日、衝撃的な出来事が起こる。

ドイツが、突如ソ連と接近し、互いの勢力圏を侵さないとする、独ソ不可侵条約を結んだのである。ちょうどその頃日本軍は、ソ連軍と満州国国境を巡って、ノモンハンで衝突していた。そのソ連軍が、こともあろうにドイツと条約を結ぶ。それは、これまでソ連を敵視して進められてきた、日本とドイツとの同盟関係を、根底から覆すものだった。8月28日、時の平沼総理は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として、内閣を総辞職する。日本の外交は、完全に行き詰まってしまったのである。

1939年9月1日、ドイツはポーランドに進攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、第2次世界大戦が始まった。9月17日、ソ連もまたポーランドに進攻、ドイツとソ連は、東西からポーランドを分割する。

◆三国同盟にソ連を加える努力
ドイツ軍パリに進駐
近衛文麿、総理大臣に任命
ドイツからスターマー特使が
1940年、ドイツは、オランダ、フランスなど西ヨーロッパの各国を屈服させ、パリを占領する。このドイツの快進撃を受けて、日本国内では、陸軍を中心にアメリカとの戦争を覚悟してでも、再びドイツとの同盟を強化し、立ち消えになった三国同盟を見直すべきだという機運が高まる。

7月17日、近衛文麿が総理大臣として組閣の命を受けた。近衛は、新内閣の外務大臣として、松岡洋右を抜擢する。新内閣の外交方針の話し合いの席上、松岡は、「まず、ドイツとイタリアとの関係を強化すべきだ。アメリカに対しては、無用の衝突を避けるよう努力する。しかし、アメリカが、力をもって干渉してきた場合には、断固これを排除する」と主張した。さらに、「日本がこれまで敵対してきたソ連をも、三国同盟に組み込みたい。ドイツとソ連はすでに不可侵条約を結んでいる。日本が、さらにソ連と協定を結べば、相手が4国では、アメリカも手出しができないはずだ」これが、松岡の思惑だった。

7月22日、近衛内閣が発足。松岡は、次の約束を取り付けた。「外交に関しては、すべて自分に一任してほしい」と。松岡は、外務省の大改革を行う。大使や公使など、40人を更迭するという空前の人事異動だった。三国同盟の障害となる、外務省の親アメリカ、イギリス派を一掃したと報じられた。

同盟の交渉を再開したいという松岡の呼びかけで、ドイツからスターマー特使が来日。9月9日夜、極秘の交渉が行われた。当時、ドイツの外務大臣だったリッペンドロップも、ソ連を加えた4国同盟の構想を抱いていた。松岡の気がかりは、目論見どおり、ソ連と協定を結べるかどうかだった。スターマーは、次のように約束した。「ドイツは、三国同盟締結後、日本とソ連とを結ぶ、誠実な仲介者となる用意がある」と。

松岡は、ドイツが、やがてイギリスを落とし、ヨーロッパ全体を手に入れることを予想していた。イギリスは、そうはいかなかった。

◆三国同盟、日ソ中立条約の締結と日米関係の悪化
三国同盟調印式
モスクワで松岡とスターリン
ドイツ軍、ソ連に進攻
アメリカ、日本に経済制裁
1940年9月19日、宮中で、三国同盟締結についての御前会議が行われた。席上、原枢密院議長は、次のような危ぐを述べた。「この条約の発表によって日本の態度が明白になれば、アメリカは日本に対して経済圧迫を加え、石油、鉄を禁輸、長期に渡って日本を疲弊せしめ、戦争に耐えられないように謀るものと思われる」。松岡は答えた「今やアメリカの対日感情は、極端に悪化していて、わずかの機嫌取りくらいでは、回復するものではない。ただ、我々の毅然とした態度だけが、戦争を避け締めうるであろう」と。松岡の勧めてきた日独伊三国同盟案は、ついに了承されたのである。

1940年9月27日、ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国同盟の調印式が行われた。ドイツ、リッペンドロップ外務大臣、イタリヤ、チアリ外務大臣、そして日本の来栖ドイツ大使が次々とサインする。ついに、日独伊三国同盟が締結された。直ちに、東京の外務大臣官邸に伝えられた。松岡は、ドイツ大使、イタリヤ大使そして日本政府の要人を招いて、盛大な祝賀会を催した。

しかし、恐れていたことが起こった。原議長の危ぐのとおり、三国同盟に対し、アメリカが厳しい経済制裁で日本に答えた。ルーズベルト大統領は、鉄鋼やくず鉄など、日本にとって欠かせない原材料の輸出を禁止。日本とアメリカの対立は、決定的なものになった。

1941年3月26日、松岡は、ドイツベルリンを訪れる。松岡は、ヒトラーを訪問、日本とソ連との仲立ちを、ドイツが努めるという約束の実行を迫った。ところがドイツは、交渉の仲介を拒絶したのである。この時ヒトラーは、ソ連攻撃を決意し、ひそかにその準備をすすめていた。松岡は、それを知る由はなかった。ソ連を味方に引き入れなければならない。

4月7日、松岡は、モスクワに乗り込み、友好的な条約を結ぶための交渉を始める。1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれた。日独伊三国同盟にソ連を協力させる松岡の構想は、大きな前進を遂げたかに見えた。その幻想はあえなく敗れた。わずか2ヵ月後、ドイツは、突如ソ連に進攻、ソ連を加えた4国で、アメリカに対抗しようとする松岡の構想は崩壊した。

松岡は、政府内で信望を失う。7月16日、近衛内閣は、アメリカに対し、強硬姿勢をとりつづける松岡外務大臣を除くため、一端総辞職する。近衛は、アメリカとの交渉継続を図ろうとしていた。11月26日、アメリカは、日本に対し「中国からの全面撤退や三国同盟の否認など」を要求、日米両国の妥協は絶望的となった。

1941年12月8日、太平洋上の空母からとびたった日本軍攻撃隊は、ハワイ真珠湾を急襲、アメリカとの戦争が始まった。その日、開戦を知った松岡は、友人にこう語ったという。「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。これを思うと、死んでも死にきれない」と。

◆戦争その後と松岡を巡るエピソード
日本、降伏文書に署名
ベバリッジ婦人の墓
アメリカとの戦争で、初戦は有利だった日本は、やがて各地で敗退を繰り返し、日本本土は、激しい空襲にさらされるようになる。ヨーロッパでも、ドイツ、イタリヤは敗北を続け、1943年には、まずイタリヤが降伏、1945年5月には、ドイツが降伏し、日本は、ただ一国で戦いつづけることになった。3ヶ月あまり後の8月8日、ソ連は、まだ有効期限のあった日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告し、満州や朝鮮半島に侵入した。

8月15日、天皇のラジオ放送で、戦争の中止が告げられ、9月2日、日本政府および軍代表は、降伏文書に署名した。あくる1946年5月3日、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が開かれた。松岡は、出廷を求められたが、かねてから患っていた肺結核の悪化により、わずか3日しか足を運ぶことがなかった。1月あまり後の6月27日、松岡洋右死去。66歳の生涯だった。

1933年、松岡53歳のとき、松岡が青春時代を過ごしたアメリカ、オレゴン州のポートランドを、再び訪れた。それは、この地にベバリッジ婦人の墓を建てるためだった。若き日、アメリカで苦労を重ねる松岡に対し、初めて対等に接し、勇気付けてくれたベバリッジ婦人に、感謝の意味をこめて墓を建てたのである。松岡は言った。「余は、かって人生の発育期をこの国で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情をもつにいたった」と。
後に、アメリカと日本の深刻な対立を招く、日独伊三国同盟を結んだ松岡洋右のこの言葉。日本が国際連盟を脱退するにいたったジュネーブ臨時総会からの帰り道のエピソードである。

作成者所感:
 日本としてもいろいろ問題があったとされる満州国建国が、認められないとして国連を脱退し、同じく脱退して孤立していたナチスと手を組んだのは、日本の誤算の始まりだった。その後、三国同盟を結んだものの、ドイツに裏切られ、戦いたくなかったアメリカと戦争に突入し、最後に、中立条約を結んでいたソ連に裏切られるに至る。後になって、松岡が三国同盟の締結を「一生の不覚」と嘆いたが、そのとおりで後の祭だった。松岡を中心とした日本外交の甘さ、情報不足からくる見通しの甘さを物語る歴史的事実であると言わねばならない。
 20世紀は、アメリカの世紀だったという人がいる。1次、2次世界大戦を通じて一人勝ちし、その後、社会主義の崩壊など世界情勢は変わっても、アメリカだけは、政治力、経済力を含めて、この世紀全く変っていないと言うのである。
 日本は、戦後、一人勝ちの国アメリカに追従して経済発展を遂げた。21世紀の日本は、このままでいいのだろうか。現在の日本外交の現状を見るにつけ、21世紀の日本は、経済のみならず世界全体に一層目を向けて、先を見通した毅然とした外交を行っていくことを祈ってやまない。


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