不沈戦艦大和の最期
〜大艦巨砲主義の悲劇〜


昭和16年12月8日、日本海軍がハワイの太平洋艦隊を急襲の8日後、世界最大の主砲を備えた日本海軍最強の戦艦「大和」が竣工した。昨年東京で発見された設計図からは、当時最新の防護システムが施され、文字どおり不沈艦として設計されていた。
しかし実戦では、アメリカ軍航空機の集中攻撃を受けて沈没した。不沈戦艦大和は、実戦でなぜ期待どおりの働きができなかったのか。なぜあえない最期をとげるにいたったのか。
かって無敵を誇った日本海軍滅亡の象徴とも言える、戦艦大和沈没のときを描く。

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07.03.01
大和誕生のいきさつと極秘の不沈設計とは?
ロシアのバルチック艦隊
40センチ砲をもつアメリカ戦艦
全長263mの戦艦大和
日本海軍の旗艦戦艦三笠
防水区画の数は1,147
極秘兵器とされた大和
明治37年、日露戦争が勃発。翌年ロシアは、戦艦8隻を主力とするバルチック艦隊を日本に派遣、決戦を挑む。迎え撃つ日本海軍連合艦隊の主力は、旗艦三笠をはじめ、戦艦4隻、史上初めて戦艦同士の決戦が行われた。新型戦艦を備えた日本海軍は、ロシア艦隊をほとんど全滅させる大戦果を上げた。ロシアは、日本と講和を結ばざるを得なくなる。日本海軍の勝利は、世界に報道され、戦艦こそが、近代戦争の勝利を決定づける主役であることを、世界に印象づけることとなった。

明治39年には、イギりスは30,5センチ砲10門を持つ戦艦を建造、アメリカは、大正12年、40,6センチ砲搭載の戦艦3隻を備え、日本より優位にたつ。昭和9年、日本は46センチ砲を搭載する戦艦の建造を開始。その射程は、40,6センチ砲を3km上回る。この極秘新兵器大和は、未だ謎に包まれていた。

去年(2000年)7月、大和の有力な手がかりが発見された。大和の心臓部分の設計図である。大和の防御力は、410ミリの分厚い鋼鉄の表面、たとえ46センチ砲に攻撃されても耐えられることを意味する。船体を無数に区切る防水区画。万一の浸水を最小限に食い止めるため造られたこの区画の数は、1,147にもおよぶ。当時最先端の技術、注排水システムである。大和は、絶対沈まない不沈艦として設計された。全長263メートル、排水量72,800トン、主砲46センチ砲九門搭載、大和は、最強最新の攻撃力と防衛力を詰め込んだ強力な戦艦だった。

実戦で力を発揮できなかった大和
アメリカ空母大増産
米の進歩した対空砲火
空しく引きあげる大和
来襲する米の航空機
戦艦武蔵沈没
真珠湾のアメリカ海軍壊滅
米の艦載機
昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発、その8日後、大和は洋上に姿をあらわした。
12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、戦力で劣る日本は、あらかじめ、少しでも損害を与えておこうとした。結果は大戦果となった。アメリカ海軍は壊滅。それは、航空機は戦艦を沈めることはできないと言われた開戦前の常識を、根底から覆す衝撃的な出来事だった。

「真珠湾を忘れるな」それがアメリカの合言葉になった。今後の戦争の主役は、航空戦力だと悟ったアメリカは、戦艦重視だったこれまでの戦略を完全に転換し、空母の大増産に乗り出した。大型、中型、小型を含め1週間に1隻空母が進水するという、空前絶後の生産速度だった。
真珠湾で、航空機の威力を実証したのにかかわらず、日本海軍は、戦艦こそが海の王者であると言う古い発想を捨てきれなかった。昭和17年、大和級の武蔵の建造も進められつつあった。

昭和17年5月、大和は初めての出撃、ミッドウエー島攻略作戦である。日本軍機動部隊は、空母4隻、戦艦2隻、一方アメリカ軍は、空母3隻、戦艦は0.さらに日本軍は、機動部隊の後方に、大和以下の質量ともに、圧倒的優勢な戦力を要していた。しかし、日本軍の作戦は、暗号を解読され、アメリカ軍に筒抜けになっていた。6月5日午前4時、アメリカ軍空母から151機の攻撃機が発進、前方に突出していた日本軍機動部隊を狙う。不意打ちを受けた機動部隊は混乱に陥る。空母4隻が沈没、日本海軍は全滅に等しい損害を受けた。大和は、無力だった。戦場の遥か後方にあっては、46センチ砲を使うことなく、空母や航空機には追いつけず、敵と戦わずして引き返すしかなかった。日本海軍は、急きょ空母の増産に乗り出したが、当時の日本の生産能力は、アメリカの1/10に過ぎなかった。

昭和19年6月、ついに大和に出撃のときがきた。マリアナ沖海戦である。日本軍の兵力は、空母9隻、戦艦5隻、艦載機439機、一方アメリカは、空母15隻、戦艦7隻、艦載機896機、両者の間には倍近い差がついていた。
さらにアメリカは、新式のレーダーや対空砲火を備え、質でも日本軍を凌駕していた。大和は、アメリカ軍航空機に対し、46センチ砲を放って応戦したが、ほとんど戦果をあげることができなかった。マリアナ沖海戦で、日本軍は空母3隻、艦載機400機余を喪失、航空部隊は二度と立ち上がれない打撃を受ける。大和は、またも空しく引き上げるしかなかった。
作家半藤さんは「艦隊と主砲を相手より大きくして、優勢を保つという考え方は、日露戦争の日本海海戦を想定したものだ。3番艦信濃を戦艦から空母に変えたが、遅きに失した」と。追い詰められた日本軍は、悲劇的ともいえる作戦を発令する。

昭和19年10月、アメリカ軍は、フィリピンのレイテ島に上陸。陸軍部隊を支援する戦力は、艦船700隻、航空機1000機に及んだ。敵輸送船団を撃滅せよとの命を受けて、出撃した日本海軍の主力は、大和、武蔵を含む第2艦隊、その上空を護る航空機の姿はなかった。日本戦艦部隊の頭上に、アメリカ軍航空機部隊が襲いかかる。大和の同型艦武蔵は、魚雷20本を受けてついに沈没。艦長は、「申し訳なきは、対空射撃の威力を十分発揮しえざりしこと」と書き残して、武蔵と運命を共にした。大和は前進を続け、46センチ砲が火を噴いて、アメリカ空母1隻を撃沈する。第2艦隊は、出撃した艦船の半数以上を喪失、レイテ沖海戦で、日本海軍は事実上壊滅した。

戦艦大和の最期
アアメリカ軍沖縄上陸作戦
厚い雲に戸惑う対空砲火
火に包まれる大和
戦艦大和沈没
天1号作戦に向かう大和
魚雷が左舷に命中
昭和20年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸、支援兵力は、艦船1,500隻以上、航空機1,700機あまり。4月5日、「天1号作戦」を発令、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下る。目的地は沖縄。作戦は、片道分の燃料を積んで特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するものだった。司令官は一応反対したものの、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけとなれ」の言葉で承諾、4月6日午後4時、戦艦大和は出撃した。その最期は、22時間後に迫っていた。

沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。
当時の乗組員1「みんなの顔色が変わりました。真っ青でしたよ。それが、まもなく真っ赤に変わった。よしやるんだ。帰らないんだと、体に伝わったと思いますよ」
乗組員2「特攻で死んでいくことを、名誉の戦死と言いましたよね。それを美学だとさえ、当時は思っていたんです。でないと、17歳で特攻にはいけないと思いますよ」。

あくる4月7日早朝、大和を察知したアメリカ軍は、空母部隊に迎撃命令、その兵力は、新鋭空母12隻、艦載機およそ800機、大和の護衛機はなかった。のこっている「大和戦闘詳報」と生存者の証言から、大和がいかに戦ったかを記す。

「12時32分」 敵機100機が、雲の合間から出現、急降下爆撃を開始。
「12時45分」 アメリカ軍の魚雷が1本、左舷に命中。射撃を目測に頼る対空砲火は、厚い雲に阻まれて大和は主砲を使うことができなかった。
「13時34分」 アメリカ軍の雷撃機が、左50度から6本の魚雷を投下、3本命中。
「13時44分」 さらに2本がまた左舷に命中、大和は左に傾いたが、ここで注排水システムが作動、平衡を取り戻す。アメリカ軍は巧妙だった。魚雷はほとんど、大和の左舷ばかりを狙った。大和の注排水システムは、やがて限界に達した。その直後、3本の魚雷が大和に命中、再び傾いた大和は、バランスを取り戻すことはできなかった。
「14時17分」 またも魚雷が左舷中央部に命中、大和は傾斜が大きくなった。長官は、特攻作戦中止命令を下し、長官室に入って内側から鍵をかけた。
「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。

大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。 

まとめ
ありし日の戦艦大和
戦艦大和戦没者の墓

作家半藤さんは
「日本海軍は、大和特攻が全滅に近いことになって、海軍として、はじめて終戦ということを考えたんですね。まだ徹底抗戦派はいましたが。大和は、大鑑巨砲主義による洋上決戦のための船であって、時代が変わってるんだということを、見通せなかったと言うか、そのための悲劇の船だったと言えます」と。

元大和乗組員の著書「戦艦大和の最期」にある言葉
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」

日本海軍の栄光をになうべく誕生し、やがてその滅亡の象徴となった戦艦大和、3000人あまりの尊い命と共に、大和はいま、九州沖の海底深く眠りつづけている。

作成者所感
作家半藤さんの言われるように、戦艦大和は、日本海海戦の延長上にある、大鑑巨砲主義の古めかしい産物だった。それは、当時の日本政府のトップが、いかに戦略上の先の見通しが甘かったか、日本の総合力が低かったかに、気づかなかったことに尽きる気がする。昭和17年代に、すでに日本軍の作戦が暗号解読されていた。後に、山本五十六大将機が、待ち伏せ撃墜されたことでも明らかだ。レーダーや対空砲火の技術進歩の度合いを見ても、時間と共に日米間で格段の差がついたことでもわかる。いや、気がついたときは遅かったのかもしれない。元乗組員の著書にもあるとおり、「日本は真の進歩を軽んじた」。
九州沖の海底に眠る戦艦大和と、3,000人あまりの乗組員の霊の冥福を祈りたい。



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