私の手帖 (式辞・原稿などなど)
1 | H15卒業証書授与式式辞 | 2 | H16入学式式辞 | ||||
3 | フーバー先生との出会い | 4 | 小さな赤い実 | ||||
5 | 伝統考 | 6 | 自らの人生を創る | ||||
7 | H16卒業証書授与式式辞 | 8 | 長生きしよう | ||||
9 | 旅 | 10 | 商業教育考 | ||||
11 | 喜びと悲しみと | 12 | 「肉体の悪魔」読後感想 |
||||
13 | 山登り | 14 | 私にとっての宗教 | ||||
15 | フランスと私 | 16 | ひとつの生き方 | ||||
17 | 夢を乗せて | 18 | 先人に学ぶ | ||||
19 | 「学力の低下」を考える | 20 | 「前立腺がん」とその治療 |
||||
21 | 生き方のお師匠さん | ************ |
(21)生き方のお師匠さん
私が久世先生と出会ったのは、昭和45年、創設2年目の春日井商業高校に赴任した時です。30名近く
の教員の約半数が新任でした。学校も若いが、教師としても新米先生の多い学校でした。そんな中、先生は
血気盛んな右も左もよく分からない私たちを暖かい目で見守り、ベテランの、常に落ち着いた姿勢で指導し
てくださいました。当時の先生たちとは今も年に1回懇親会をしています。その後、私たち夫婦は今日に至
るまで先生ご一家と家族ぐるみのお付き合いをさせていただいております。
もう10年も前のことになるでしょうか。先生と先生の琵琶のお仲間と私の4人で尾瀬ヶ原に行ったこと
があります。先生が80歳の時のことです。リュックを担いで3泊4日の山登り。『夏が来〜ると思い出す〜♪♪』
元気、元気、唄いながらの登山でした。湿原に可憐に咲く花を楽しみながらの素晴らしいひと時でした。
それから半年後、久世先生と娘さん、それに私たち夫婦の4人で韓国・釜山へ2泊3日の旅をしました。
代表的観光地《梵魚寺》などへも行きましたが、チャガルチ市場や現地の人たちで賑わう食堂へ行き、海鮮鍋
やアワビ粥などいろいろな韓国料理をたらふく食べた思い出があります。この時《これは80歳の食欲ではない!》
と感心し、《元気の秘訣》を教わりました。
そしてその2週間後、お忙しい中今度は豊橋までお出でいただき、私の主宰する『豊橋日仏サロン』の会で
琵琶の演奏をしていただきました。いつもはフランスの文化に関心を持っている会員も、この日ばかりは日本
古来の伝統文化にひたり、幽玄の世界に引き込まれました。ありがとうございました。
先生との出会いから40数年。私にとっての先生は《生き方のお師匠さん》の気がします。私たちの道標として、
これからもお元気にお過ごしくださいますよう祈念しております。
(20)「前立腺がん」とその治療
日本での「前立腺がん」による死亡者数はがん死亡者数の約3.5%〜4%を占めています。そして、65歳前後から
顕著に高くなるようです。近年急増する傾向にあり、その罹患率は2020年には男性では肺がんに次ぎ2位になると
予測されています。その理由の一つは、PSA(前立腺特異抗原)検査の普及があげられます。(Wikipediaより)
会社や地方自治体の定期検診等で「PSA値を調べてください』と言えば、+300円(豊橋市の場合)で調べてくれます。
この病気は「自覚症状が出にくい」ことが厄介です。知らず知らずのうちに進んでいることがあります。それだけに
恐ろしい結果となることがあります。その意味で、血液検査で直ぐに判ることは大変ありがたいと思います。
そして「早期発見」し、適切な治療をすれば、まず心配ないようです。私の場合「100%大丈夫」と医師から言われました。
治療の方法は、それぞれの人にあった方法で行われます。私は医師と相談の結果、全身麻酔で全摘切開手術をしま
した。現在のところ、手術後の経過も良好で、不安はありません。最近はコンピュータの普及で、「ダヴィンチ」という
機器を使った方法で手術をする病院が増えています。これは患者の身体への負担が格段に少ないということです。
その他「放射線治療」や「ホルモン治療」などがありますが、医師と相談して、納得して自分にあった方法を選ぶことが
肝要かと思います。
****
《出血も少なく、輸血する必要もありませんでした。他への転移や癒着等の問題もありませんでした。》 今回、実際に
「前立腺がん」の手術を受けて、「早期発見」の大切さを痛切に感じました。。これは「がん治療」に限らず、どんなことにも
言えることと思います。
****
《全身麻酔》について一言触れておきたいと思います。
私は、8月初旬に入院、その2日後に手術を受けました。手術台の上に自分で横たわりました。確かに「まな板の上の鯉」
の意識はありましたが、不安な気持ちは不思議とありませんでした。天井にはまだ点いてはいないが、テレビで見慣れている
きらびやかな円形のライトがありました。
「眠たくなる薬を入れます。」の声。・・・・・・・・・・・・・・・・・
「目が開けますか?」の声に目を開けると、ライトが見える。まだ点いていない。15秒か30秒経ったのかな?これから手術?
「手術は済みましたヨ。」エッ!と思った。遂さっき「眠たくなる薬を・・・」の声。信じられなかった。頭もすっきりしている。
全身麻酔で全く知らぬ間に手術は終わっていた。
後から聞いた話だと、麻酔薬を注入し始めたら、通常2〜3秒で眠りにつくようです。《1時間分毎に薬を注入し、手術が終了
したら、今度は麻酔薬の効力を消す薬を注入する》とのことです。それで予定通り目覚めるのだそうです。薬学の進歩という
ことです。
また、《全身麻酔》による死亡事故は統計上、10万人に一人、40万人に一人とも言われています。これを心配していたら
手術は受けられないと思います。
(19)「学力の低下」を考える(東日新聞 2010・6・14(月)【東日評論】掲載)
平成14年に学校完全週5日制が実施された。当時、私は東三地区の高等学校に勤務していた。それまでの
生徒たちの毎日の生活を考える中で、「ゆとり教育」としてスタートしたことを私は好意的に考えていた。
しかし、時が経つにつれ、学校も生徒も家庭も週休2日が当たり前となり、「ゆとり」が、むしろ「ゆるみ」
に変質していったことも否めない。以後、明らかに「学力の低下」が目立ち始め、時の文部科学大臣は学習指
導要領の改定に着手した。ただ、私はこの「学力の低下」はいわゆる「勉強ができなくなった」ということだ
けではない。もっと根本的な問題が存在していると思う。
先回のOECD(経済協力開発機構)の「学習到達度調査」では、日本の子供は他国に比べて「読解力」が極め
て低いという結果が出ている。「考える力の低下」である。これは「生きる力の低下」でもある。私は国際交
流の関係で他国の若者と会う機会も多いが、確かに、彼らの多くはしっかりとした自分の考えを持ち、それを
表現する力に優れている。
東京都世田谷区では、平成16年12月に内閣府から「日本語」教育特区の認定を受け、その期間が過ぎた
今日でも継続してその内容の充実を図っている。小学校では俳句や和歌、古典等も教材に日本語の言葉として
の美しさを学び、正しい言葉の使い方の指導をしている。また、中学校では、「日本語・哲学」や「日本語・
表現」等の教科書を独自に発行し、「考える」ことの意味や適切な「日本語」で自らの考えを表現できるよう
に指導している。
今回の学習指導要領の改定事項の第一番目に「言語活動の充実」を挙げている。読む、書く、話す、聞く、
表現する力、そして、考える力をつけようということである。生徒をいかに教育するか、何のために教育する
かを考えるとき、そこには確固たる教育哲学や揺るぎのない考え方が大切であると思う。
(18)先人に学ぶ(東日新聞 2010・5・10(月)【東日評論】掲載)
「学者は偉ぶって商売なんてものは品位の高い者が仕事としてやることではないと言うし、金持ちは自らを
卑下して商売に学問はいらないと訳の解らないことを言っている。・・・学者も金持ちもこの『帳合之法』
(ちょうあいのほう)を学べば、西洋実学がいかに大切かを知ることとなるだろう。」
この一文は、福澤諭吉が「学問のすゝめ」と同時代に世に出した「帳合之法」(全四巻)という書物を、
私が現代語訳して昨秋発刊したものの一部である。「天は人の上に人を造らず・・・」で始まる「学問の
すゝめ」はあまりにも有名であるが、この「帳合之法」は一般の人たちにはほとんど知られていない。ただ、
簿記会計を志し、経理を職とする諸氏の間では、『日本にアメリカから最初に複式簿記を紹介した書物』
として大変名の知れた書物である。
私が豊橋商業高校に同書の原本のあることを知ったのは、平成12年4月に同校に着任してしばらくして
からであった。「複式簿記」という科学的に裏付けされた西洋実学を世に普及させることが、近代国家を目
指す日本にとってどれ程重要なことか、若きリーダーとして彼は熱く説いたのである。私は彼の並々ならぬ
思いを知り、身の内から沸き上がる大きな感動さえ覚えた。また、長年商業教育に携わった者として、大き
な自信と勇気を与えられた思いであった。「独立自尊」「実学のすゝめ」「男女同権」「官尊民卑思想の打
破」等、福澤諭吉の思想は今日の時代にも大いに通じるものがある。
企業や政治の倫理観がこれほど問われている時代はない。自殺や犯罪が多発する時代を予見できただろうか。
今日の社会の混乱は明治初期とは質的には異なるけれども、先人から学ぶことは極めて多い。
(17)夢を乗せて(東日新聞 2010・4・5(月)【東日評論】掲載)
アメリカ、オハイオ州トリード市のペリスタイルホール(1700名収容の円形ホール)で行われた、
豊橋少年少女合唱団のコーラス、豊橋ユースオーケストラとトリードユースオーケストラとの合同演奏会は、
トリード市民に深い感動を与え、両市の若い力がこれからの世界に向かって羽ばたいた一瞬であった。
豊橋市とトリード市が姉妹都市宣言をして10年が経った。それを機会に「豊橋青少年国際音楽交流団」
(101名)を結成し、3月25日(木)から30日(火)までの6日間、トリード市を訪問して交流を
深めた。私は豊橋市国際交流協会・トリード委員会の一員として同行し、若者たちの交流する姿に幾度と
なく感動した。
この事業は3年以上も前から計画されたもので、オーケストラと合唱団のメンバーは、ホームステイを
しながら「音楽」を通じて互いに理解を深めることを目的として実施されたものである。
バウジャー高校での演奏会には約700名の生徒たちが集まった。清純な「アベマリア」の合唱が流れると、
普段元気の良いアメリカの高校生もシンと静まり返り、物音ひとつ聞こえない空気が辺りを覆った。合唱が
終わるやいなや万雷の拍手が鳴り止まず、少女の頬に一筋の涙が伝わるのを見た時の光景は映画のシーンその
ものであった。また、続いて演奏されたドヴォルザークの「新世界から」にはスタンデイングオーベーション
がおき、高校生達の感動は頂点に達した。「うちの生徒たちがこんなに感動してコンサートに引き込まれた
姿を見たのは始めてです。」と挨拶された校長先生の言葉は、その素晴らしさを象徴するものであった。
トリードで体験した数々の思い出を胸に、豊橋の若者達は満ち足りた思いで帰国の途に着いた。
(16)ひとつの生き方(東日新聞 2010・3・1(月)【東日評論】掲載)
うっすらとかいた額の快い汗を拭う。今回も無事に登れたと思うと、健康のありがたさを
感じ、そして、生きている喜びを味わう。
2月の中旬、東三河の霊峰本宮山に登った。定年退職後登り始めて50回目である。
登山口の鳥居の前で一礼をして、静かな山道に入る。道は、砥鹿神社奥宮に毎日の
ようにお参りをする善男善女やハイキングを楽しむ人たちのために良く整備されている。
冷気を手足に感じながら友人たちと楽しく、ゆっくりと歩を進めた。70歳を過ぎたと思わ
れる年配の方たちや若い男女、家族連れが「こんにちは!」と声を掛け合って行き交う。
途中「東屋」の休憩所からは、豊川、豊橋の街並みや遠く田原の風力発電のための大
きなプロペラ、更には太平洋や三河湾が一望に眺められ、我がふるさとの穏やかな
景色に心を癒された。「山姥の足跡」を越えると本宮山登山の胸突き八丁である。
天をも突くような樹齢五百年、千年もの杉や檜の巨木と石段が続く。圧倒されそうな
景観を背に、新鮮な空気を胸に一歩一歩丁寧に歩む。登山口から約2時間、奥宮に
着く。健康に感謝し、家内安全を祈願する。大杉の合間から雪を頂いた富士山や
南アルブスの峰々がはっきりと見えた。一等三角点のある山頂(789.2m)まであと
5分である。
私はハイキングの他、書道教室での写経、若い人たちに混じってのフランス語講座
の受講、国際交流協会のイヴェントヘの参加、そして、時には国内外へ旅をし、それ
を自分のHPに載せたり・・・と忙しくも楽しく日々の生活を過ごしている。
退職後の過ごし方として、ある先輩から「できれば三つ四つの趣味や習い事をする
と良い。」と聞いたことがある。それにより生活に減り張りができ、健康が維持できる
というのだ。実感である。人と交わり、社会の一員として生きていることを確認できた
とき、生きがいが生まれる。そして、目標をもって歩むことから生きる喜びを味わうこと
もできる。
取り敢えず、70才までに本宮山に100回登りたいと思っている。ひとつの生き方である。
(15)フランスと私 (東日新聞 2010・1・25(月)【東日評論】掲載)
『旅人の空想と現実とは常に相達すると云ふけれど、現実に見たフランスは見ざる時の
フランスよりも更に美しく更に優しかった。鳴呼、わが佛蘭西。自分はどうかして佛蘭西
の地を踏みたいばかりに此れまで生きてゐたのである。』これは文豪永井荷風が「ふらん
す物語」の中で書いた文章の一節である。憧れて渡ったフランスが、若干30才の彼に与
えた影響は計り知れないものがあったに違いない。
私自身何度もフランス各地を旅して、音楽会や美術館で芸術の素晴らしさに出会い、中
世の街の石畳を歩いてそこに生活する人々の息吹を感じた。又、大聖堂や田舎のロマネス
クの小さな教会に身をおくことで、厳粛な身の引き締まる思いをし、人生の襞(ひだ)にまで入り
込んで自分を見つめ直すこともあった。
そして何より、人と出会い、友人ができ、家族ぐるみのつきあいをするようにもなった。
「フランス人は取っつきにくい」など耳にすることがある。何の何の、私に言わせれば全
く違う。本当に親切で陽気である。言葉は二の次。こちらから飛び込んで行けば気軽に受
け入れてくれますよ。
2005年7月、「豊橋日仏サロン」を4人の仲間と設立した。その目的は、フランス
文化を楽しむこと、フランス文化の情報発信基地となること等である。春には豊橋魚市場
でパーティをしたり、昨秋には名古屋在住の茶畑和也さんのイラスト展を「ココニコ」で
開催し、多くの皆さんに楽しんでいただいた。約130名の会員と共に、ワイン片手にフ
ランスに思いを馳せ親睦を図っている。
フランスはまことに奥が深い。荷風の言ったことは至言である。これからもフランスを
訪ね、芸術や文化を楽しみ、会員の皆さん達とさまざまな企画を通じて人生を楽しみたい
と考えている。
(14)私にとっての宗教(H20友の質問に答えて)
1982年、昭和52年の夏、私は友人たち6人と共にスペイン最西端の町、サン・
チャゴ・デ・コンポステーラを旅した。マドリードからサラマンカ、シュダー・ロドリゴ
など中世の町並みの重厚な雰囲気を味わいながら、小雨に濡れた石畳の町に
レンタカーで着いた。
この町のカテドラル(大聖堂)には、9世紀ころ近くで奇跡的に遺体が発見された
キリストの12使徒の内の1人であるサン・チャゴ(ヤコブ)が祭られており、多くの
カソリック信者たちが遠くヨーロッパ、特にフランス各地に集結して1500kmの
道のりを、この大聖堂を目指して歩いてやって来ることは知っていた。しかし、その
時の私の関心の的は聖地を訪ねたというよりも、とてつもなく大きなカテドラルの
横に建っている、昔はこの大聖堂を目指してやって来る《巡礼たち》の病院であり、
休息の場であった、現在のロス・レイエス・カトリコスというホテルで紅茶と美味しい
クッキーを食べることにあった。従って大聖堂の中の荘厳な雰囲気をはっきり思い
出すことはできない。ただ、一緒に行った友人のMr.Rがいつもと違って大聖堂に
入る前、なけなしの頭髪を手で整えていたことを思い出す。彼は敬虔なカソリック
教徒である。又、入口から入ったすぐのところにある太い石柱が、多くの信者たちが
手でさすったり、キッスしたりしたためにすり減っていたことに目を見張ったものである。
その後、私たちはスペインの北海岸、ガリシア地方からバスクを巡った。この旅の
ことは拙著「ビーノで乾杯」で綴った。
以来、私たち夫婦は海外旅行の熱病にかかり、特に、フランスに魅せられて全国を
巡った。パリを起点として地方を1週間程廻ってくることが常であった。カルチェラタンの
近くにあるホテル・スラビアという老舗のホテルを常宿として、ある年は南へ、又、
ある年は西へと本当に全国を廻った。中でも心に残っているのがトウールーズの
サン・セルナン聖堂、ポアチエのノートルダム・ラ・グランド教会、シャルトル大聖堂、
ル・ピュイの大聖堂などである。教会の建物は言うに及ばず、ステンドグラスや柱頭、
そして、ファサード(前面)やタンパン(入口の上部、扇型の部分)の彫刻は芸術その
ものであり、中世のヨーロッパ建築や芸術の質の高さを見せつけられた思いである。
そして、それぞれの旅を通して見、聞き、知ったことが、やがて、点から線、線から
面へと繋がり、そして、広がりを感じるようになったのだ。ヨーロッパ中世社会に生きた
人々の祈りがどこからくるものなのか。生きる不安への祈りと同時に、生きる喜びを
感じられたのは、彼らの精神的な支えとなっている宗教への思いと文化、芸術に
対する質の高さを知ったときである。石畳の街のそこかしこに、田舎の古い小さな教会
の祭壇に、又、カテドラルの柱頭に面々と続いてきた生活の匂いや文化を感じるのだ。
そして、それが《巡礼の道》を通じて、遠くサン・チャゴ・デ・コンポステーラまで続いて
いると思うと少なからぬ興奮を覚えた。
私自身、旅を通じて大きな教会に身をおいた時、いつも決まって感じることは、静寂の
中に自分の心の動きを感じる。日常生活のさまざまな出来事に対して自分はどう向き
合っているか。その時の自分を見つめる姿に出会う。私は決して信心深い分けでもな
いし、宗教にたいして特別な思いがあるわけでもない。しかし、不思議と大きな、静か
な教会の中に身をおくと、自然に、素直に自分を見つめることができる。そんな
思いを幾度となく経験した。私にとっての《宗教》は、仏教でもキリスト教でもない。
私自身の中にある《生きることへの畏敬》と《死への尊厳》なのかもしれない。それは
誰か(宗:みたまや、祖先)から教え、与えられるものではなく、自然に身の内から湧き
満ちてくる思いである。
【朝霧に煙るコンク村】
この夏、《巡礼の聖地》コンクを訪ねた。朝霧の中、一人村から少し離れ、歩いてみた。
古い石橋を渡り少し行くと急な山道に差し掛かった。林の中は時に小鳥のさえずりも聞
こえていたが、人っ子一人いない心地よい静寂に包まれていた。道は人一人がようやく
通れる程であったが、よく整備されていた。そして、石灰岩の白い岩肌がすり減って窪み、
小道となっているところへ差し掛かった時、私の足は感動で振るえていた。
《600年も前から、この同じ道を何人の人達が通っただろうか》
《その人達はどんな思いを胸にこの道を歩んで行っただろうか》
近くに立つ道標には、《サン・チャゴ・デ・コンポステーラ》矢印とともに、あと1319km
とあった。
(13)山登り(H19友の質問に答えて)
「なぜエベレストに登るのですか」
「そこに山があるから」と答えたのはイギリスの登山家、ジョージ・マロリー
(George Mallory)である。彼は、3回目のエベレスト挑戦を前にしてニューヨーク
タイムズ紙の記者のインタビューに答えた。有名な言葉である。彼はエベレストを
征服することが目的で登ったのではなかった。宗教でいうところの「無」の
境地なのかもしれない。
2年半前に35年間続けた教職の道を定年退職し、以来、月に1度のペースで
故郷の霊峰、本宮山に登っている。樹齢500年、1000年の原生の大杉や檜を
仰ぎ、緑の空気を胸一杯に吸い込むと本当に清々しい気持ちになる。この山には
毎日大勢の人達が登っている。奥の院の休憩所には、それぞれの人が今までに
何回登ったか、昨年1年間に何回登ったか、1日に何回登ったかなどなど、その
記録が掲示してある。皆が競争して登っている訳ではないにしても、その回数を
見るととても信じられない思いである。私はゆっくりゆっくり大地を踏みしめて
約4時間かけて上り下りするのに、1日に10回以上も登ったという記録をみると
本当に信じられない。私にとっては不可能な数字である。
先日こんな経験をした。中腹に景色の良い休憩所がある。そのすぐ手前に
私が差し掛かったところ、私よりも明らかに年齢を重ねている一人の男性が
ステイックにもたれ掛かるような姿で立っていた。私はその側を通り抜け、
休憩所のベンチまで歩いて腰を下ろしていた。暫くするとその男性が
やってきた。
「今日は天気が良くて気持ちがいいですね。」と私が話しかけると、開口
一番、
「私は他人に追い抜かれると無性に腹が立つんだ。」と言う。エッ???
ただ、その言い方、ニュアンスは私を非難するような口調ではなかった。
「競争している訳ではないんで、自分のペースで歩けばいいんじゃないで
すか。」と言うと、
「それはそうですが、追い抜かれると、自分の体力の衰えを見せつけられ
る思いがしましてね。」と。そんな風に考える人もいるのかという思いと、山に
登ってまでストレスを感じるなら止めた方がいいではないかと、他人事ながら
気になることであった。
登山家の田部井淳子氏は、『山に登ると神聖な気持ちになる。』と言う。私も
最初頂上に立った時は、
「登った!バンザイ!」の言葉の中に、成就感、達成感と同時に、僅かばかりの
征服感もあったが、回数を重ねる内にその思いは薄れていった。そして、今では
登山口から約2時間掛けて砥鹿神社の奥の院に着き、手を合わせると心から
感謝の念が涌いてくる。何に対する感謝か。現在大した悩みもなく平穏に過ごし
ている生活に対する感謝。お陰様で健康に過ごしていることに対する感謝などなど。
田部井氏のいう「神聖」とか、私の「感謝の気持ち」は決して『神』を意識している
訳ではない。身体の中から自然に湧き出てくる念である。
今「なぜ山に登るか」と聞かれた時、私は「そこに山があるから。」という「無」の
境地には未だ達していない。春の草花の美しさを味わい、秋のもみじのすばらし
さを楽しみながら、新鮮な空気を胸一杯に吸って登っている。生活にアクセントを
付け、身体がまだ動く動くと言いながら登る。その中から感謝の気持ちが自然に
生まれ、神聖な気持ちを味わいながら登る。
そして、目標を立てた。70才までに100回登る。その時はどんな心境になって
いるだろうか。楽しみである。
(12)「肉体の悪魔」 レイモン・ラデイゲ著
読後感想(H18フランス語講座レポート)
フランスの前大統領、フランソワ・ミッテラン氏の晩年、彼に「隠し子」のいる
ことが発覚した。「隠し子」がいるということは、愛人がいるということである。
日本でもアメリカでもイギリスでも女性の絡むスキャンダルは、他人から見れ
ば甘い蜜であるが、発覚したそのその日から政治家にとってはその生命をも
危うくするのが常である。ミッテラン氏にジャーナリストが真偽の程を迫ると、
彼は“Et Alors”(それがどうした?)と言ったそうである。その堂々とした受け
答えに、記者たちはそれ以上そのことについて触れなかったという。しかも
彼は、特に、死して今、彼の大統領としての評価が高まっているというのだ。
「フランス人に不倫という感覚はない。」ということを聞いたことがある。前述
のミッテラン大統領にしてもそうであるが、この「肉体の悪魔」に登場する『僕』
の感覚も又、日本人には理解できないことである。殊に、14歳の中学生が
人妻に恋をするなどということは考えられないことであり、『子供ができたこと
を知ったときの喜び』の感覚は信じられないことである。さしずめ日本では、
当人は勿論のこと、周りの者、親は怒り、ほとほと困り果てることであろう。
そして、当人には不良少年というレッテルが貼られ、親はまず世間体を考え、
そっと堕胎させるのが当たり前のことである。ところが、『僕』の父親は知って
いても『僕』を信じ、見守ってくれていたのである。
三島由紀夫が「ラデイゲの死」という作品を出している。私はこの作品をまだ
読んでいないが、機会があれば読んでみたいと思う。三島が彼を高く評価し
ていると聞いたからであろうか、この「肉体の悪魔」を読み進むにつれ、なぜか
三島由紀夫の作品「午後の曳航」を思い出していた。少年の憧れていた海の
男が、自分の母親と密会していた現場を見てしまった少年の心理、性に対す
る少年の思いを描写している。私は、確か大学生の頃この作品を読んだと記
憶しているが、ギラギラしたエネルギッシュな文章に胸を躍らせ、三島の性に
対する精神性の気高さに共感を覚えた。そして、三島の考え方は日本人の
精神性の象徴とさえ捉えたものだ。
『僕』の考え方や行動が理解できないまま、最後になってどんでん返しがあ
った。当に「悪魔」の登場である。少年の愛する人妻であるマルトが、生まれ
た子供に『僕』と同じ名前を付けたというのだ。そして、産後の肥立ちが悪くて
死んでしまう時、
「妻はあの子の名前を呼びながら死んで行きました。可愛そうな子供です!
ですが、あの子がいればこそ、わたしも生きていけるというものではないで
しょうか。」と夫のジャックに言わせ、更に、
「絶望的な気持ちをじっと押さえているこんなにも立派な鰥夫(やもめ)を見て、
僕は、世の中の物事は、長いうちにはおのずとまるく納まって行くものだと
覚った。だって、マルトが僕の名前を呼びながら死んで行ったことも、僕の
子供が合法的に立派な生活をしていけるであろうことも、今わかったでは
ではないか。」に至っては、悪魔の言葉としか思えない。フランス人の、
ラデイゲの性に対する考え方が理解し得ないと思っていたが、最後になって
最も基本的な『生』に対する考え方が理解できた思いである。この言葉の
主こそが、当に「肉体の悪魔」であったのだ。
それにしても、レイモン・ラデイゲが17歳にしてこの「肉体の悪魔」を書い
たと聞いて、驚きが倍加された。その早熟な考え、心理描写の確かさ、小説
全体の構成に至るまで17歳の少年の作品とはとても思えない。ラデイゲは
やっぱり天才である。
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(11)喜びと悲しみと(H18東三地区日本教育会「東風」)
昭和47年4月19日夕刻、第一報が入った。
『二年生の男子二人、オートバイでガードレールに激突。運転していた
Hは重傷、後部座席に乗っていたTは20m近く飛ばされ即死。』二人と
も前年度私が担任していた生徒であった。新年度が始まって間もないた
め、新しい担任と共にTのお宅へ出掛けた。ご両親の憔悴しきった姿は、
30年近く経った今でも忘れることができない。教員として駆け出しの私
には、指導の甘さからこのような事故が起きてしまったのではないかと
いう自責の念に駆られた時期もあった。『教え子の死』という教師とし
ての最大の悲しみを教員生活3年目にして経験した。それからしばらく
して、親の願いとしての『三ない運動』が全国的に展開され、愛知県で
も高校生のオートバイによる事故が激減した。
***
教師になって15年目、40歳。一年生の担任をしていた。一学期の学期
末考査の時、私の担当する『商業簿記』で白紙答案を出した女生徒がい
た。早速親を呼びだし、
「どういうことなんだ!君の能力で全く解らないということはないはず
だ。白紙とは・・・・ネエ、お母さん。」呼び出された母親は中学校の
教師をしており、平身低頭であった。偶然とは言え、気の毒なことに彼
女は三年間私が担任をした。普通科目は大変優秀であったが、商業科目、
特に、簿記関係の科目は卒業までいつも低空飛行であった。ひょっとし
たら私に反発していたのかもしれない。
そんな彼女が短大を卒業して、しばらくしてから学校に私を訪ねてきた。
『通信教育で教員免許を取りたい』と。私は自分の耳を疑った。彼女と
は卒業以後、毎年年賀状のやり取りはしていたものの、その時何をして
いたかは知らなかった。私の頭の中には、その時もまだ『白紙答案』の
彼女の姿が焼き付いていたので、何となく半信半疑で彼女の話を聞いて
いた。彼女は、『語学学校で英語のインストラクターをしているが、中
学校の英語の教師になりたい』ということであった。進路指導室へ行き、
分厚い進学の雑誌を見たり、山と積まれた資料を一緒になって調べた。
その後、私は転勤をし、彼女のことは全く忘れていたが、母校で教育
実習を真面目に行ったということを風の便りで同僚から聞いた。そして、
その一年後、彼女から一通の手紙が届いた。
『先生お元気ですか。私はこの4月から××中学校の英語の教師として
働いています。まだまだ解らないことばかりですが、この頃少し見えて
きた感じがします。やんちゃな生徒、言うことを聞かない生徒もいます
が、そんな時、自分が先生に迷惑を掛けたことを思い出しながら根気強
く指導して行きたいと思っています。・・・・』彼女自身の高校時代の
思い出と教師になってからの意気込みを便箋5〜6枚に綴ったものであ
った。
『教師冥利に尽きる』とはこのことであった。私は今でもこの手紙を机
の中に大切に仕舞っている。
***
『教師として35年間、何をしてきたか』と問われると、私はいささか戸
惑いを感じる。生徒指導に追われ、部活動(ハンドボール部)に精を出
して飛び回っていたのも、ついこの間のことである。夜間定時制の生徒
たちの生き方は見事であった。私自身、多くの先生方や生徒たちに囲ま
れ周りの方たちに支えられて生きてきたということを実感している。そ
して、大変ありがたいことに、忙しくも又、楽しい教員生活が送れたと
思っている。ただその中で、わずかであっても私の発信したことが生徒
たちの心の中に残っているとすれば本当に幸せである。
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(10) 商業教育考 (H17 「全商会報」NO112号、原稿)
今年は「愛・地球博」万博が愛知県で開催された。その3月に私は35年間の
教員生活に終止符を打った。昭和45年4月に愛知県の教員採用試験に合格し、
教師としてスタートしたが、その年が丁度大阪万博の年であった。全校生徒
約950人を新任教員として引率したことを昨日のように思い出す。何かの縁で
あろうか。私の教師としての生活は万博で始まり、万博で終わった。
私が新任として着任した学校は、新設2年目の文字通り若い商業高校であった。
当時は、戦後第二のベビーブームの子供たちが成長し、愛知県でも高等学校が
毎年数校ずつ増えた時代であった。田中角栄の「日本列島改造論」が打ち出
され、世の中全体が動いている、活気のある状況であった。その一方で、高校生の
中途退学者や非行の増加等、生徒指導の難しさを毎日のように経験していた。
特に、担任をしていた生徒がオートバイ事故によって死亡した時のことは30年
以上経った今も決して忘れることはできない。
そんな中、当時愛知県でも最も若かった私の上司である校長先生の言葉は至言
であった。「商業教育は人間教育ですよ。」この平明な、当たり前のように聞こえる
言葉の奥に、校長先生の商業教育に対する深い思いを知ることができた。
「私たちの目の前には生徒がいます。この生徒をどのように教育するか。これが
私たちに課せられた課題です。商業高校を目指して入学してくる生徒には、
基礎的、基本的な知識や技能を修得させることはもとより、部活動や学校行事を
充実させて、全人教育を目指しましょう。」と校長先生は熱い思いを込めて話された。
私は教師としての生活を送る中、
1 個性豊かな
2 いつも情熱をもった
3 「教育とは何であるか」を常に頭の中で整理している
そんな教師になりたいと考えていた。そして、強いリーダーシップの校長先生の下、
若い力を爆発させて頑張った。ありがたいことに当時の生徒たちはそんな私にも
一生懸命ついてきてくれた。
以来、教師としての青年期には生徒指導と部活動(ハンドボール部)の指導に
明け暮れ、壮年期は教務を中心とした仕事に携わった。定年退職後の現在、新任
以来考えていた前述の3つの教師像のことを振り返ってみるにつけ、多少の心許
なさはあるものの、総じて充実した教師生活を過ごせたのではないかと思う。
ありがたいことである。
平成12年4月に縁あって愛知県立豊橋商業高校に校長として着任した。新任
校長として最初の職員会議で「私のモットーは、創意工夫、真摯実行です。生徒の
ために一緒に汗を流していただきたい。」と、先生方を前に多少の緊張を覚え
ながら話をした。
当校は、明治39年4月、豊橋商工会のリーダー安藤安太郎先生が50年後、
100年後の地域発展のために、次代を担う若者の育成を図ろうと私財をなげ
うって創設された学校である。校長室の壁には、卒業生である書道家石川華空
さんの額やこれも卒業生の画家中村正義さんの力強い絵などが飾ってある。
その中で、私の目に強烈に飛び込んできたのは、『以信為宝』《信用は宝である》
と書かれた書であった。それは明治の元勲松方正義公爵からいただいたもの
であるということを知ったとき、その伝統の重さに身の引き締まる思いであった。
そして、地域の大きな期待を受けているこの学校に着任できたことを嬉しく思い、
そして、この学校のために定年退職までの5年間、全力投球で臨む決心を固めた。
私は、着任後しばらくして『94年目になろうという伝統校であるにもかかわらず、
校訓がない』ということに気づいた。確かに、豊橋商業高校は就職にしても進学
にしても頑張っている。また、資格取得や部活動についても実績をあげてきた。
しかし、21世紀を担う生徒の育成を図るためには、確固たる理念のもとに教育
が施されなければならないと考えた。そのために、『校訓』を制定し、それを機軸
として教育目標を決め、更に、それに基づいて教育課程や学校行事等を編成
することとして、発想の柔らかな若い先生を中心に『豊商将来構想検討委員会』を
設立した。そして、各地方の中心的な役割を担っている商業高校に委員会の
職員を派遣し、各学校で『校訓』をどのように具現化して教育にあたっているかを
ご指導いただき、約1年半に亘り委員会や職員会議等を通じて検討を重ねた。結
果、『以信為本』という言葉を校訓として定めた。実は、『以信為宝』の『宝』は学校
教育に馴染まないということから、『以信為本』としてそれまでにも度々生徒たちに
話をしていた言葉であった。更に、同窓会が創立100周年の記念事業を先取り
した形で『以信為本』の校訓旗を寄贈してくれた。平成17年3月の卒業式には、
校旗とともに校訓旗が壇上に飾られ、卒業生の門出を祝うことができた。卒業生
たちが、この言葉を人生の指針として歩んでくれたらこの上もない喜びである。
私が豊橋商業高校に着任して驚いたことがある。校内に福澤諭吉訳の『帳合
之法』の原本、全四巻のあったことである。それは、校内の同窓会博物館のガラ
スケースの中に保管されていた。私は、職員や生徒あるいは来校される方々に
気軽に見ていただきたいという思いと、大変貴重な資料でありセキュリティの面
からそれを校長室に移すことを決めた。以来、機会あるごとに学校がこの貴重な
書物を所有していることを公言し、実際に数多くの方々に見ていただいた。
(豊橋商業高校のHPにも公開している)
『帳合之法』のことは、私が大学1年生の時、簿記を勉強する中で、福澤諭吉が
複式簿記をアメリカから日本に初めて紹介した本であるということで知っていた。
しかし、それ以上のことは知る由もなかった。ところが、私が豊橋商業高校に着任し、
その原本が自分の目の前にあり、手にとって見ることができることを知って、少な
からず興奮を覚えた。こうした歴史的に有名な書物は、ややもすると、その題名や
著者は知っていてもその内容まで知ることは、意識的に、また、意欲的に接しない
となかなかできないことである。しかも、明治時代のものとなれば尚更のことである。
そして、自分の部屋に福澤諭吉の『帳合之法』があると思うと、大胆にも何とかこ
れを意訳してみようという気になった。そして、平成16年10月に『凡例』(序)を意訳し、
印刷して配布し多くの先生方に読んでいただいた。今後時間は掛かっても全四巻
読んで、意訳したいと思っている。
明治6年・7年に翻訳出版されたこの書は、日本が西洋諸国に対抗するためには、
人々がまず西洋実学を重視し、簿記を学ぶ必要があるとして世に出されたものである。
近代日本の若きリーダーとして福澤は経済を重視していたのである。
特に、書の「凡例」の中には130年経った現在の商業教育にとっても尚、大きな力
となる箇所が数多くある。ここに意訳したその一部を掲載します。
* * *
私がこの本を翻訳した趣意を示せば次の通りである。
第一に、昔から日本においては、学者は必ず貧乏であり、金持ちは必ず無学
である。従って、学者の理論は崇高で、天下をも治める勢いであるが、自分の借
金は返そうとしない。金持ちは金を沢山持っており、また、これを瓶に入れて地面
に埋めておくだけで、世の経済活動を勉強して商売を大きくする方法を知らない。
なぜかと思うに、学者は偉ぶって商売なんてものは品位の高い者が仕事として
やることではないと言うし、金持ちは自ら卑下して商売に学問はいらないと訳の
分からないことを言っている。
今このような学者も金持ちもこの「帳合之法」を学べば、西洋実学がいかに大
切かを知ることとなるだろう。双方ともこの実学を勉強すれば学者も金持ちとなり、
金持ちも学者となって世の経済活動が更に良くなり、国力が増進することとなろう。
訳者が深く願うところである。
第二に、あちこちの大商家の帳簿の付け方を見るにつけ、いずれも大変混乱
していて、一商家の棚卸しに店中総掛かりで行ってもニケ月掛けてもなお判らな
いことが多い。帳簿の付け方がきちんとしていない証拠であるが、今日に至るま
でこれを改めた者がいるということを聞いたことがない。
第三に、この冊子は「帳合之法」を教えることだけでなく広く世の中の人々に
読書の道を開こうということである。和漢古今の空理空論を並べた学者風情が
人を馬鹿にした罪は深いが、この本が農工商の世界に知識を与えるという功徳
を施すことができるなら、私が翻訳の労を取ったことが大変大きな意味をもつこ
とになろう。
第四に、「帳合」も一種の学問であることは本書を見て既に明白なことである。
商売も学問であり、工業も学問である。又、一方から言えば世の掟に従って身体
を使ってその報酬を得るのが商売であるから、役人が政をして月給を得るのも
商売である。世間の人は皆武士役人の商売は貴く思い、物を売買し、物を造
る商売は賎しく思うのは何故であろうか。
以上は、翻訳にあたって彼が一番言いたかったことである。また、当時のベスト
セラーであった「学問のすゝめ」には次のような件がある。
* * *
◎賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。(注1)
◎実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
誓えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、
天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。(注2)
◎帳合も学問なり、時勢を察するもまた学問なり。(注3)
(注1)「学問のすゝめ」福澤諭吉著 岩波文庫 P11
(注2)前掲書 P12
(注3)前掲書 P20
私は、先日愛知県東三河の霊峰、本宮山(789m)に登った。この山は、私が
子供の頃から毎日のように眺め、古くから地域の人々の心のふるさととなって
いる山である。それもそのはず、麓には東海の総鎮守、三河の国一宮砥鹿神社が
あり、また、本宮山山頂には奥宮が祭られている。
登山口の新しく建てられた鳥居をくぐり、静かな山道に入る。道は奥の院に毎日
のようにお参りする善男善女に良く踏みならされている。9月の半ば、まだ蝉の
鳴き声の聞こえる中、中腹の風越峠で爽やかな風を一身に受けた。『馬の背岩』
『天狗岩』など巨岩を越える。本宮山登山の胸突き八丁である。天をも突くような
樹齢五百年、千年もの大杉の原生林を過ぎると『砥鹿神社奥宮』である。登山口
から約2時間、決して楽な登山ではなかった。しかし、一歩一歩足を地に着けて
進めば、いつかは必ず目的地に着けるということを身をもって体験した。快い汗を
拭い、教師として35年間を無事終えたことを報告し、また、その間大変充実した
生活を送ることができたことに感謝し、手を合わせた。
21世紀に入り、商業教育の課題は山積している。そのような時であるからこそ、
私は原点に戻ることが大切であると考えている。学校教育の原点は如何に。商業
教育の原点は如何に。明治の初め、近代国家のリーダーとして活躍した福澤諭吉
の教育理念を今一度思い起こす必要がある。そして、一歩一歩愚直に、山に登る
如く地に足をしっかり着けて前に進む。今日の生徒はこれから60年以上生きるの
である。そのための「生きる力」をどのように付けるのか。今一度考えてみたい。
最後に、全商校長協会の益々のご発展を心からお祈り申し上げます。在職中、
大変お世話になりました。厚く御礼を申し上げます。
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(9) 旅 (H16 「向陵」原稿)
学生時代、私は兵庫県西宮市にある下宿から豊橋の自宅までの約300
キロを1週間掛けてひとりで歩いたことがある。昭和39年東海道新幹線が
営業を開始した直後で、多分、一度新幹線に乗ると徒歩で帰省するというよ
うな馬鹿げたことはできなくなるだろうという思いもあった。途中、友人の家
に泊めてもらったり、ユースホステルやお寺、安宿に泊まりながら、1日約
30キロから40キロを黙々と歩いた。秋の空はどこまでも青く、民家の庭先
にはピンクのコスモスが風にゆらゆらと揺れていた。田舎の平穏な景色が
あった。
伊賀の峠越えの山中では台風に見舞われた。強い雨風の中小型トラック
から、
「兄ちやん、乗って行きな」と、いかにも人の良さそうな初老のおじさんから
声を掛けられた。しかし、完歩することを目指していた私は、
「いいえ、結構です。」と断った。『変な奴!』と思ったことだろう。
7日目、名古屋の叔母の家から豊橋までの約60キロは一気に歩いた。
自宅に着いたのは午前1時を過ぎていた。しかし、300キロを完全に歩き
切った時の喜び、満足感や達成感は40年経った今も鮮明に蘇る。この旅
の経験は、その後の私の人生に大きく影響を及ぼした。やればできるとい
う自信。300キロの距離もー歩から始まるという事実。毎日平穏な日々ば
かりではないという現実。ひとりで歩く中でいろいろなことを学び取った。
*
私が初めてヨーロッパに旅したのは昭和51年の冬である。今でこそ直行
便があるが、その当時ヨーロッパへ行くためには一度アラスカのアンカレッ
ジに立ち寄り、給油をしてから目的地へ向かった。アリューシャン列島の上
空では飛行機が乱気流にぶつかりドンドンと音をたてたり、時にはエアポ
ケットに遭遇して機体がふわっと落ちたこともあった。更に、シベリア上空
から不気味なツンドラの凍土が見えたことも脳裏に焼き付いている。夕日
に照らされた地平線は、明らかに地球の丸さを実感させてくれたし、又、
地球の軸が少し傾いていることや緯度の違いは、昼夜の長さや時差ぼけ
で実感することができた。
その後、イタリアを訪ねては歴史に触れて感動を覚え、フランスでは香り
のふくよかな文化を味わうことができた。日本では味わうことのできない美
味な料理も食べた。ロンドンのハイドパークやパリのルクセンブール公園
の木陰で心地良いそよ風に身を任せ、昼寝をして至福の時を過ごしたこ
ともある。しかし、やはり旅は人である。人との関わりがあると旅の重みも
断然違う。
ナポリへ行く途中の列車の中で出会った老夫婦。最初は家族や旅のこ
となど身振り手振りで話していたが、そのうちにすっかり意気投合して、
奥さんが可愛い声でナポリ民謡を唄ってくれた。列車を降りる時には、
自分たちのために用意したと思われる水とリンゴ、それに奥さん手作りの
サンドウィッチまで置いていってくれた。
フランスのレンヌという町のカフェで出会ったお嬢さんは銀行に勤めてい
た。となりのテーブルに座っていた彼女は、ダイエットに努めなければいけ
ないと言って昼食はサラダだけを食べていた。私たちにメニューを一生懸
命説明してくれた。お陰で美味しい昼食を取ることができた。帰国後、何度
も手紙のやり取りをしたが、将来はニューヨークに行って仕事をしたいと言
っていた。
**
スペイン在住の友人ご夫妻とレンタカーを借りて、マドリッドからポルトガル
のオポルトに抜け、スペイン北部のガリシア地方を旅したことがある。
サラマンカ大学にはフライ・R・レオン教授の銅像がある。彼はラテン語訳
の聖書よりヘブライ語訳の聖書の方が優れていると言ったため5年間の牢
獄生活を送ることになってしまったが、出獄して大学に戻った最初の講義で
「昨日も申しましたように‥‥」と話し始めたと言う逸話が残っている。その
反骨精神が高く評価されている。
ヴィジャビシオーサという田舎町ではホテルが満員で泊まるところが見つ
からず、レストランの紹介で近くの農家に泊まることになった。朝方、ふと窓
の明かりを感じて起きた。小さな四角い窓の隅に土でできたマリア様の像
が置いてあった。朝の光に浮き出された像に思わず手を合わせる。牛が
もう〜っと鳴いてのんびりした農家の朝を知らせた。簡単な朝食の後、宿
泊代を尋ねると、何とそれまで私たちが泊まってきた普通のホテルの2倍
の代金を請求された。泊まる所がなく困っているのを見透かされた思いで、
いやな気分になって早々に出立した。
***
フランスの友人Sからクリスマスパーティに招待された。Sの兄さんの家に
家族が集まるという。私たち夫婦はパリから列車で東へ2時間半、世界遺
産に登録されているナンシーという町まで行った。アールヌーボー調の建
物もあり、街全体が博物館のようである。Sの車で町中をゆっくり観光した
後、Sの兄さんの家に行くと私たちは大歓迎を受けた。そして、Sからそれ
ぞれの家族の紹介を受けたのだが、兄さんの離婚した奥さんと更に、その
奥さんの妹家族を紹介されたのには驚いた。兄さんと奥さんの関係は、離
婚してからの方が良くなったという。それにしても、離婚した奥さんやその
妹さん家族までクリスマスパーティに招待すること自体信じられないこと
であった。
又、驚いたことに家の内装工事の真っ最中で、Sの兄さんが自分でこつ
こつと造っているという。
「多分、あなた方が10年後に来たら完成しているでしょう。」とのことであ
った。当に、ピーター・メイルの『プロヴァンスの12ケ月』の世界であった。
クリスマスパーティは真夜中まで続いた。親から子供たちへのプレゼント
もさることながら、外国から突然現れた私たちからの贈り物は、子供にと
っては本当にサンタクロースの出現のように映ったようである。そして、
七面鳥の丸焼きが出たのは当然のこと、エスカルゴは一生分食べた感じ
であった。フランス人はおしやべりが好きである。フランス語の分からない
私たちでさえ、楽しく夜遅くまで話し込んでしまった。
***
旅を通じての数々の人たちとの偶然の出会い、スペインやフランス、
オーストラリアやアメリカの友人たちとのつき合いは、私の人生を確実に
豊かにしてくれた。
国際情勢が不安定な時であっても、人と人の繋がりは国を乗り越える
強さがある。要するに、人は皆同じという人間の基本的な存在価値を旅
を通じて実感することができるのである。
旅は人生を豊かにしてくれる。
国内外を問わず、私はこれからもずっと旅を続けたいと思っている。
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(8) 長生きしよう (H16 向陵巻頭言)
もう30年も前の話である。出勤する直前、友人のMから5年ぶりに電話が
入った。
「Mだけど、今度名古屋に・・・」 よく聞き取れない。朝から酒を飲んで呂律が
回らないのだ。奥さんに電話を替わってもらった。
「何を言っているのかよく分からない。第一朝から酒を飲んで電話をしてくると
は不愉快だ。」と言って電話を切った。それ以後、彼からは何の連絡もなかっ
た。
私は、当時から高校時代の友人たちと家族ぐるみで旅行をしたりしていた
が、彼はいつの頃からか私たちの前に出て来なくなっていた。ある時、集まり
の中で彼が小脳萎縮という難病にかかっていることを知った。それは、手足
の運動機能や言語中枢が年々衰えるという、現代医学ではどうしようもない
不治の病である。私は、以前Mから早朝に電話のあったことを思い出し、鈍
器で頭を打たれたようなショックを覚えた。『酒を飲んでいたのではない。病
に侵されていたのだ。』 私は、知らなかったとは言え、自分のその時の対応
を思い出し、『何と言うことを言ってしまったのか。本当に申し訳ない』 と思っ
た。
何が切っ掛けであったか定かではないが、彼も私たちの集まりに参加する
ようになった。車椅子に乗ると歩けなくなるからと言って頑張っていたが、車
椅子の生活となって15年が経つ。
***
豊橋駅が改築される前、彼は自宅のある新城からJRを利用してよく豊橋
に遊びに出てきた。
「Mです。新城を○時○分の電車に乗りますので豊橋に○時○分に着きます。
よろしくお願いします。」 と駅に連絡すると、電話の向こうで、『又かよ〜』と
いう声が聞こえた。当時の豊橋駅にはエレベーターはなく、階段はすべて駅
員によって車椅子ごと4人掛かりで登り下りする。若い駅員が運び屋となつ
て、御神輿よろしくかつぎ上げるのだ。しかも、彼は80キロの巨漢である。
度重なるといくら若い駅員と言えども 『又かよ〜!』 となるのだ。
改築後の豊橋駅は、すべてのホームにエレベーターが付いた。最近彼は、
豊橋に出るときJRを利用しなくなった。
「駅での俺の役目はもう終わった。」と。
***
彼は今、自宅から近くの施設で週に何回かのデイサービスを受けている。
高齢の方たちと会話を交わす中、いろいろなことを考えさせられると言う。息
子や孫の自慢話を聞き、人生の終着駅にどのように着くかを聞く。そんな彼
が言う。
「今、俺の最大の目標は1日でも長生きすること。生きること、そのことが自
分と同じ病気で苦しんでいる人たちの励みとなるから」
彼は長い間病と壮絶な闘いをし、今はもう完全に病気に勝っている。
最近、彼からメールが届いた。
『お互いに長生きしよう。』
***
Travel Watching Part 4 はMを含めた友人4人で旅行した時のことです。
是非、ご覧ください。「いもむし北海道旅行」(クリックオン)
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(7) H16卒業証書授与式式辞(H17/3/1)
式 辞
卒業生の諸君、卒業おめでとう。保護者の皆様方には、お子さまのご卒業を
心からお祝い申し上げます。
本日ここに第54回卒業証書授与式を挙行いたしましたところ、大変お忙しい
中、同窓会長の近藤新太郎様はじめ多数のご来賓の皆様のご臨席を賜りまし
た。厚く御礼を申し上げます。
さて、卒業生諸君、「光陰矢の如し」とはよく言ったものです。月日の経つのは
本当に早いもので諸君が大きな希望を胸に本校に入学してからもう3年が経ち
ました。この間の諸君たちの学校生活を顧みると充実した3年間であったと思い
ます。
ところで、諸君が入学した平成14年度は、本校にとりましても大きな意味のあ
る幕開けの年でありました。4月9日、校訓「以信為本」が制定されました。「信を
以て本と為す」『国二信ナクンバ治マラズ 家二信ナクンバ整ワズ 人二信ナク
ンバ世二処シガタシ』「人間、生きてゆく為には信用が一番大事である。」という
教えであります。明治39年、本校創立の時、時の元勲松方正義公爵から本校
創設者安藤安太郎先生に授与された言葉であります。当時もこれを校訓とし、
時に校訓旗を掲げて生徒たちが豊橋の街を歩いたと記録にあります。そして、
平成18年度本校が創立100周年を迎えるに当たり、同窓会が校訓旗を作っ
てくれました。ここに掲げてあるのがそれであります。
本校の教育目標の文言は『校訓の精神に則り、・・・・』で始まっています。諸君
は3年間この校訓を胸に、信用をつけるために、信頼される人となるために学習
や資格取得、そして部活動に−生懸命努力をしてきたのです。
バブル経済が弾けてもう15年以上も経ちます。この間、経済状況はこれまで
に私たちが経験したことのないほど悪い状態でありました。その原因はいろいろ
あったかと思いますが、私は、その大きな要因の一つとして社会全体の規範意
識や倫理意織の低下にあったのではないかと思います。企業が顧客をないがし
ろにして法を犯してまで利潤の追求に走り、あげくの果ては破綻したり、集中的
に批判の対象になっている自動車メーカーの例、金融機関の例あるいは食品関
連企業の例など本当に沢山あります。残念なことでありますが、自らの手で信用
を破棄してしまったのです。企業の社会的責任を放棄した、又、倫理観の薄れた
経営体質が問題視されているのです。ただ、これではいけないと言うことが最近
ようやくわかり掛けてきたようです。企業でも個人でも同じです。卒業生諸君が本
校で学んだということは高校生としての自らの信用を身に付けるために学んだの
であります。そして今、社会に巣立って行こうとしています。社会人となっても同じ
です。信用される人として生きることは、あなた方が社会に役立つ人材として受
け入れられるということであります。
諸君は、日本で初めて複式簿記を紹介した本として大変貴重な福沢諭吉訳の
「帳合之法」全四巻の原本が本校にあるということを知っていると思います。
1867年(慶応3年)約140年前、福沢諭吉が32才で渡米した時、沢山の原書
を購入してきました。その中の「ブックキーピング」という本を翻訳して、「帳合之
法」として発行したのです。
彼は都合3回の欧米への視察旅行をしていますが、その時の経験から、日本が
近代国家として、独立国として欧米の国々と対等に交流するためには、人々が
西洋の学問を修めることが急務であると訴えたのです。そして書かれたのが「学
問のすゝめ」であります。『天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらずと言
えり』で始まるこの本の存在は誰もが知っていることであります。この本の考え方
を貫くのは『−身独立して−国独立する事』という ことであります。『独立の気力
なき者は必ず人に依頼する、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は
必ず人に諂(へつらう)う者なり』『父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立
を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず』と言っています。個人の
自主独立こそが近代国家を築く上で絶対条件であると彼は考えたのです。そし
て、人が自立、独立するためには学問を修得することが大事である。その学問と
は西洋実学である。そして、その実学の−つが複式簿記であります。帳簿の付け
方を学び、それを実践することによって経済状況を的確に把握し、経営の活性
化に役立たせようと考えたのです。そして、日本は近代国家へ生まれ変わる
ことができ、欧米諸国と対等に付き合うことができると強く訴えたのです。福沢諭
吉は、これを「独立自尊」という言葉で表現しています。このことは140年経った
今も、私たちに強く響く言葉であります。
独立、自立の『立』(りつ・たつ)という字は、大きな人が地面にしっかり 2本の
足で立っている形であるという話をしたことがあります。丁度弓道部の諸君が的
に向かっている姿であります。インターハイや国体で的に対峙している時の眼の
力からは、鍛え抜かれて自立した姿を感じ取ることができます。又、今年のソフト
ボール部の新人戦では県大会3位という快挙を成し遂げましたが、その時、内野
手が両手を広げて「さあ来い」と言って守る姿は、当に自信にあふれ、力強さを感
じました。自立している姿であります。諸君たちが高等学校を卒業するということ
は、精神的、社会的に一個の人間として独立する、自立するということであります。
21世紀の幕が開き、混沌とする経済状況や不安定な国際情勢、混迷の時代と
いう荒波を、今卒業生諸君は渡っています。諸君は、本校の伝統の重みと懐の
深さを身を以て過ごしました。本校で学んだという誇りと自信をもってこれからの
人生を歩んで欲しい。校訓「以信為本」を、そして「自主独立」の精神を胸に深く
刻み込むことによって、この大きな波を乗り越えてゆくことができると確信いたし
ます。
卒業生諸君のこれからの人生に幸多からん事を祈念し、式辞とします。
平成17年3月1日
愛知県立豊橋商業高等学校長
水野昭彦
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(6) 自らの人生を創る (平成16年進路の手引き)
「日本人の価値観・世界ランキング」(中公新書 高橋徹著)という本が昨年
出版され、その中で「仕事と余暇」についての意識調査の結果が出ていた。
日本では「仕事重視」「仕事にも余暇にも力を入れる」「余暇重視」がそれぞ
れ3分の1ずつでバランスは良いとはいうものの、仕事重視度で見ると、59
カ国中45位であり、決して勤勉な国とは言えない実態が浮かび上がってき
た。エコノミックアニマルとまで悪態をつかれた日本人の仕事好きや勤勉さ
は過去のものとなったのだろうか。
更に、就職する時に重視することとして、日本では「安定」「同僚」「達成感」
「給料」の順番にあげているが、アメリカでは「達成感」「給料」「安定」「同僚」
中国では「安定」「給料」「達成感」「同僚」の順番である。宗教や文化、環境
によって人々の価値観は大きく左右されるものである。国が変われば考え方
も随分違うものだということをあらためて実感した。
これは勿論どの国が良いとか、好きとかいうことではなく、ただ、私たちが
社会人として、経済人として生きるときに、仕事に対する責任とか職業を選
ぶときの基準については、ある程度確固と した考え方が必要であろうと思う。
ここ数年、フリーターの増加が問題視されている。人生の目標をしっかり
定めなくてはいけない、社会を甘く見ている等という厳しい指摘である。今
日の若者を取り巻く経済環境だけでなく、ここ10数年大きく転換しつつある
世界全体の時代の流れや、人間関係が希薄になり、規範意識の乏しい自
己中心的な考え方が問題視されるなど、日本人の失われつつある精神世
界を見るとき、若者にとっての生活環境は極めて厳しいと思う。しかし、だ
からといってフリーターを是とすることはできない。
厚生労働省は、若者の勤労意欲の低下やフリーターの増加を憂慮し、
ここ2〜3年若年労働者の雇用促進について力を入れている。高校生の
職業選択についてミスマッチを起こさないようにとの配慮から、一昨年か
ら夏休みに応募前の職場見学が可能となった。新しい学習指導要領でイ
ンターンシップ(就業体験)を重視しているのも、勤労観や職業観の育成
にたいへん大きな意味があるからである。又、愛知県では、9月16日か
ら11月末までは昨年度までと同じように1人1社の応募しかできないが、
12月からは未就職内定者に対して、1人2社応募ができるようにする。
これは、学校が生徒を保護し、円滑に就職ができるようにするための措
置である。
現在のような不安定な厳しい時代にあるからこそ、就職だけでなく進学
についても自らの人生の歩みに対して真剣に考えて欲しいと思うのであ
る。
自分の人生は自らの手で創りたい。
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(5) 伝 統 考 (平成15年文化祭)
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』平家物語の冒頭の
語りである。毎年名古屋能楽堂の舞台で筑前琵琶の演奏会があ
る。もう5年も続いている。演奏者は今年75才を迎える女性である。
実はこの方、私と30年も前に家庭科の先生として一緒の学校に
勤めていた。その頃は、先生の伯母さんを師匠として筑前琵琶の
練習に励んでおられた。そして、そのお師匠さんが亡くなられ、
先生ご自身教師の道を定年退職され、その後琵琶一筋に修業を
積まれてきた。今秋「世紀を超えて生きる人々」として会を主催さ
れた。平家物語を弾く中、能楽堂の満員の聴衆から大きな拍手
をもらい、益々お元気な様子であった。
今年の文化祭は、外部公演として人間国宝の善竹十郎さん
ご一門による狂言と落語、正に日本の伝統芸能を鑑賞する。
そして、テーマは、『架けよう文化の橋、はじけよう僕らの青春』
伝統と未来の夢に橋を架けようという事である。伝統とは「古い
力を克服する新しい魂なり」と言った人がいる。
日本の伝統芸能の中から、そして、本校の伝統になりつつある
「ショップ豊商」を通じて諸君が何を掴み、そして、将来の夢につな
げることができるか。「新しい魂を見つけて欲しい」楽しみである。
(4) 小さな赤い実(H15「向陵」巻頭言)
Sさんは、業界では腕の良いことでよく知られた庭師さんであった。
87歳まで小型のトラ
ックを自分で運転し、我が家の庭の手入れに来
てくれていた。自ら手掛けた庭を前に、「いい
庭に育った」と言いなが
ら、休み時間に暖かな縁側に座ってお茶をすすっていた姿を思い出
す。
その言葉には20年間手塩にかけてきたという思いと同時に、黒く
日焼けした顔の深い皺に、
荒れてはいるが老人とは思えない大きな
生き生きした手に、庭師として生きた自信と誇りを感
じた。そのSさん
は2年前に亡くなられた。
庭の中心には私の父親が好んでいた白梅が凛として立っている。
早くも正月には小さな芽を
付け、2月、一年中で一番寒い時期に満開
となる。また、真夏の暑い盛りにはムクゲやサルスベリ、そしてザクロ
の花が私を楽しませてくれる。春秋は言わずもがな、季節を満喫でき、
こころを癒してくれる庭を見てSさんに感謝している。
私は、昨年秋コンピュータと周辺機器
を買い換えた。そして、趣味で
作っている自分のホームページのためにもデジカメを購入した。
我が
家の庭の草花をデジカメで撮りサイトに載せているが、この秋以来、
今まで殆ど気づかな
かったことに気づいた。それは、秋から冬に掛け
て『小さな赤い実』の生る木が多いというこ
とである。ピラカンサ(バラ
科)に始まり、ナンテン(メギ科)、マンリョウ(ヤブコウジ科)、
そして、
センリョウ(センリョウ科)などである。少しの色の違いはあるが、殆ど
同じ大きさ
の赤い実が生る。なぜこの時期赤い実なのかということに
対して、友人が「寂しい立ち枯れの
木の中で、目立つように赤い実を
付け、鳥たちに食べてもらって種を増やすのだ」と教えてく
れた。自然
の摂理なのであろう。そう言えば、我が家の庭のピラカンサの実は、
正月には−粒
も無くなっていた。
我が家には、秋に毎年『小さな赤い実』を付けるもう一本の低木が
ある。実を見る度にその
木の名前は何ていうのだろうかと思っていた。
今回デジカメを通じて『赤い実』の生る木の多
いことに気づき、是非と
もこの木の名前が知りたくなった。本屋さんに行きその種の本を見て
もなかなか分からない。図書館でも分からない。そんな時、庭師のS
さんのお弟子さんのBさ
んが庭の手入れのために我が家にやって来
た。そのBさんに尋ねると、「紫檀の類ではないか」
ということであった。
ところが、調べてみると『紫檀』はマメ科、木肌はともかく葉の状態は
全く異なっている。そこで、ホームページで何か分かるかもしれないと
思い検索してみた。『紫檀
』と入れると、何と約五千もの項目があった
が、幸運にもその中に私の疑問に見事に応えて
くれる植物の名前を
教えてくれるサイトを見つけた。そして、その木の名前は『ベニシタン』
(バラ科・コトネアスター属)ということが分かった。さらに、『似ている実
を付ける木にピ
ラカンサがある』と書いてあった。長いこと分からなか
った名前をようやく知ることができ、
少しの興奮と感動さえ覚えた。
私は、デジカメを通じて『小さな赤い実』を見ることで様々なことを思い、
考えさせられた。
庭師のSさんがどんなつもりでこのベニシタンを植えた
のか知る由もないが、その赤い実を見
る度に亡くなられたSさんのことを
思い出すに違いない。
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(3) フーバー先生との出会い(H14「向陵」巻頭言)
平成14年10月12日から17日までの6日間、私は本校の先生2人
とアメリカ・オハイオ州のトリード市へ行った。トリード市は豊橋市と姉妹
都市であり、本校は縁あって2年前から市立のバンデール中学及び
バウジャー高校とEーメール交換をしている。又、昨年度バウジャー高校
からは先生と生徒たち約20名が本校を訪れている。私たちの今回の訪
問の目的は、学校の様子を実際に訪ね、直接会って今後の本校と両校
との交流の在り方について話し合うためであった。その結果、バンデール
中学とはこれまでと同様Eーメール交換をすすめること、バウジャー高校
とはEーメール交換に加え、お互いの生徒たちがホームステイを前提とし
て行き来するということで合意した。このことは両校の生徒にとり、今日の
国際化時代に対応したプロジェクトとして大変意義深いことである。
ところで私たち3名はトリード市に滞在中、別々にホームステイすること
となり、それぞれのご家庭で大変暖かく迎えられた。私がお世話になった
のは、バウジャー高校のクリステイ先生のお宅であった。ところが、ホーム
ステイ2日目に子供さんが発熱してしまい、私は急遽トリード大学教授
のフーバー先生のお宅に移ることになった。3日目の夜のことである。
午後9時を過ぎていたがご夫妻で出迎えてくれた。
フーバー先生は、若い頃日本に留学され、専門は日本史、特に明治
時代とのことであった。勿論、流暢な日本語を話される。書棚には、日本
の民主主義の夜明けを記した文献や内村鑑三、広田弘毅、田中正造等
に関する書物がところ狭しと並んでいた。4日目、トリード市滞在最後の
夜、奥様が入れてくださった日本茶を飲みながら遅くまで話をした。
「本校は百年の歴史を持ち、創設当時松方正義公爵から『以信為本』と
いう言葉をいただき、現在それを校訓としている。」と言うと、本校のその
伝統の重みに対して大変感心されていた。そして、
「『以信為本』はTrust is the Key.という意味ですね。商業高校にとって本
当にふさわしい言葉ですね。」と賞賛された。Trust is the Key.私はこれを
フーバー先生からいただいた『言葉』として大切にしたいと思っている。
又、
「本校には福沢諭吉訳の『帳合の法』という、日本で初めて紹介され
た西洋簿記の原本があります。そして、『帳合』についての福沢諭吉の
考え方は、彼の著書『学問のすすめ』に出ています。」と言ってその本を
取り出した。それは、全く偶然にも、私が飛行機の中で読むつもりで持参
した本であった。
「私も若い頃この本を読んだことがあります。大学の学生にはいつも、
『諭吉のような考え方のできる人間に成れ』と励ましています。明後日の
講義では、諭吉の話と松方正義公爵の『以信為本』の話をしましょう。」
私は、その『学問のすすめ』の本(岩波文庫)を先生にプレゼントすること
にした。
「水野先生とはたった2日間のお付き合いでしたが、もう何年も前から知り
合っていたような気がします。」勿論、私も同感である。フーバー先生と
私は固い握手を交わした。
傍らでは、奥様が二人の熱っぽく語る様子をニコニコしながら聞いてい
た。充実した秋の夜長であった。
(2) 平成16年度入学式式辞(H16/4/6)
校門の2本の大きな桜が、今年も入学式に合わせて見事に咲きました。
希望に満ちた諸
君の姿に文字通り花を添えてくれました。
今ここに愛知県立豊橋商業高等学校に入学を許可いたしました280名
の新入生の諸君
入学おめでとう。皆さんを心から歓迎いたしますと同時に、
ご参列いただきました保護者
の皆様方に、お子さまの入学を心からお喜び
を申し上げます。
この良き日に、ご多忙中にもかかわらず、同窓会長の近藤新太郎様始め
多数のご来賓の方々のご臨席を賜りました。厚く御礼を申し上げます。
さて、本校は新入生諸君が3年生となる平成18年度には創立100周年を
迎える伝統
ある商業高校であります。今ここに教頭先生に持っていただい
ている額には『以信為宝』
と書かれています。これは約100年前、時の元勲
松方正義侯爵(後の総理大臣)様からい
ただいた直筆の書であります。
そして、その後『宝』は学校教育になじまないということ
で、現在は『宝』を
『本』として『以信為本』といたしました。これが本校の校訓であり
ます。私
たちが社会人として、経済人として生活してゆく上で、『信用』が一番大事
ですよ
という教えであります。2万数千人に及ぶ本校で学んだ卒業生は、
皆この言葉を胸に世界に羽ばたいているのです。
その本校に諸君たちは入学したのであります。諸君たちの胸には真紅の
大きなバラが咲
いていることでしょう。
『春風や 闘志いだきて 丘に立つ』
これは高浜虚子の句であります。諸君たちの現在
の心境を表していると
思います。
高校生になったら・・・・、本校に入学したら・・・・、と夢をいっぱい抱いて
いること
でしょう。自分は国家試験に挑戦してみよう。自分は部活動で頑張
って全国大会に行こう。3年間皆勤を目指そう。あるいは、新しい学科、国
際ビジネス科で英会話を勉強しよう等々、
いろいろ考えていると思います。
どんなことでもいい、毎日の生活の中に目標をもって行
動するということは
本当に大事なことであります。
『成す者は常に成り、行く者は常に至る』
という言葉があります。座っていては前に進まない。努力し、実践することが
大事である
という意味です。自らの夢を実現するよう、毎日の生活の中に
『目標』を持って不断の努
力を続けて欲しいと思います。
さて、学校教育は集団教育であります。一人一人の個性を伸ばし、学力や
技術を身に付ける
ことと同時に、社会性や協調性あるいは創造力や判断力
など、人として生きる力を養
うことも大切なことであります。高校時代は肉体
的には大人であっても精神的にはまだま
だ大人の判断ができない未成年で
あります。その意味で、高等学校は精神的に大人になる
ための道場である
といっても過言ではありません。クラスメイトや部活の仲間たちとお互いに切
礎琢磨する事によって成長するのです。そして、その中から『良き友』を得る
ので
す。ドアの前に立っているだけではドアは開かれません。相手の心の扉
をノックして初め
てドアは開かれるのです。そして、友の前で自らをさらけ出す
ことによって、相手も又心
の扉を
を開いてくれる。そして、お互いに信頼関係
が生まれ、本当の友ができるのだと思います。
利害関係のない高校時代の
友は生涯の友であります。一生の友であります。
『目標をもって生活しよう』『良き友を得よう』
入学式にあたり2つのことをお話いたしました。諸君の本校での3年間が
充実したもの
となりますよう祈念し式辞といたします。
平成16年4月6日
愛知県豊橋商業高等学校長
水野昭彦
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(1) 平成15年度 卒業証書授与式式辞(H16/3/1)
卒業生諸君卒業おめでとう。保護者の皆様方には、お子さまのご卒業を
心からお祝い申し上げます。本日ここに第53回卒業証書授与式を挙行い
たしましたところ、大変お忙しい中、同窓会長の近藤新太郎様始め多数の
ご来賓の方々のご臨席を賜りました。厚く御礼を申し上げます。
さて、卒業生諸君、月日の経つのは本当に早いもので、校門の桜と共に
諸君を迎えて以来、もう3年が経ちました。入学式で私は諸君たちに、本校
で「良き友を得よう」「目標を持ち、毎日を充実した生活にしよう」と言いまし
た。どうですか。生涯つき合える友人を見つけることができましたか。充実
した日々を過ごしましたか。この3年間、私の見る限りにおいては学業や、
部活、資格取得に向けた諸君の努力は本当にすばらしいものがありまし
た。良く頑張ったと思います。若い力を思う存分発揮して、確実に成果を
上げたと思います。
就職においては、私たちが今までに経験したことのないような最悪の経
済状況の中でも、諸君は見事にその難関を乗り越えることができましたし、
又、進学の面でも果敢にアタックして驚くほどの成果を出すことができまし
た。この3年間で肉体的にも、精神的にも本当に大きく成長したと思います。
21世紀は諸君の本校への入学と共に幕が開きました。混迷の時代、
社会不安の時代と言われながらも、一方で、科学技術の進展はめざましく、
火星にまで探査機を飛ばすことができましたし、遺伝子の組み替えさえも
可能にしてしまいました。手塚治虫さんが50年前に考えていたロボットの
世界は今や私たちの生活の中まで入り込んでいます。そう考えると、100
年後には中部国際空港からニューヨークまで30分か1時間で行けるように
なるかもしれませんし、人類はガンを撲滅し、身体の中まで、そして、血管
の中までどんどん入り込めるロボットを開発するかもしれません。又、雨を
自由に降らせたり、地震も簡単に予知ができるようになるかもしれません。
科学技術の進展は私たちの想像以上に早いものであります。ただ、こうし
たことが本当に私たちの生活を豊かに、幸せな社会を作っていくかというと
必ずしもそうとは言い切れません。
私たちは、科学技術の発達、即ち、知能の集積と同時にものの見方・考
え方、即ち、知恵の集積ということを考えなければなりません。大変皮肉な
ことでありますが、私たちは、戦争によって科学技術が発達したという事実
を目の当たりにしてきました。核開発しかり、電子計算機技術もしかりであ
ります。争いごとというのは20世紀に始まったことではありません。人類が
この地球上に存在し始めたその時からあったに違いありません。しかし、
同時にその時点から人類には他の動物とは比べものにならない程高度な
知能を備えています。これも疑いのないことであります。しかし、この高度な
知能を知恵に結びつけることが欠けていたのではないかと思います。私た
ちが20世紀に学んだことは、正にそのことなのです。
丁度1年前の話です。日本洋画壇の重鎮、故中川一政画伯のコレクション
の一点が東京のオークションに掛けられることになりました。その作品は作
者不詳であり、かなり修復もされていたようです。落札価格は当初1〜2万
円とされていました。ところが、中川氏の遺族からある会社が調査を依頼
されて調べたところ、それが、間違いなくゴッホの作品であるということが
判りました。その結果、なんと6600万円の高値で落札されたのです。私は
この話を新聞で知った時、「本物を見分ける眼」「確かな眼」を持つという
ことの難しさと同時に、本当の価値とは何なのであろうかということを考え
させられました。中川画伯にとって大事なことは、有名なゴッホの作品で
あるかどうかということではなく、絵そのものにすばらしさを感じていたという
ことです。そして、画家として確かな眼を持っているからこそ、人々の魂を
ゆさぶる作品が描けたのだと思います。
「100万分の1グラムの歯車」を造って世界的に有名になった、豊橋市内
の会社の社長である松浦元男さんの話を生徒諸君にしたことがあります。
私が松浦さんにひかれるのは、「常に時代を読み、10年先、30年先を見て
経営に当たっておられる。バブルの時にも浮かれることなく、ご自分の仕事
に責任と夢をもって、常に挑戦する気持ちを持ち続けている。」ということで
す。私は、親しくご本人と話をさせていただいたことがありますが、「身体の
中まで入り込んで手術を可能にするロボットを開発したい。」と言われてい
ました。そのうちに実現するのではないかと思います。時代を見据える「確
かな眼」を持ち、止まることなく、なお、ご自分の夢を追い求める姿は本当に
すばらしいことだと思います。すばらしい生き方であります。
今、書店に行きますと「武士道」という本がベストセラーとして山と積まれ
ています。原本は1899年(明治32年)に札幌農学校(現在の北海道大学)
で教鞭を取った新渡戸稲造博士が38歳の時、留学先のアメリカで病気療
養中に英文で書いたものであります。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、
日本の土地に固有の花である」で始まっています。新しい民主主義社会建
設の喜びに萌えるアメリカ社会で、武士社会の鍛え抜かれた精神性とサム
ライの精神構造(義・勇・仁・礼・名誉など)を分析し、日本人の持つ固有の
考え方を紹介したものであります。以来、内村鑑三の「代表的日本人」と共
に名著として、むしろアメリカ社会で大きな評価を得てきました。
歴史的な経緯を見れば、私たちの生活の中にも江戸時代や明治時代の
生活様式やものの考え方、例えば武士の情けとか義理人情、あるいは誠
とか礼儀とかを大切にする風潮は現在でもまだ残っています。これらは19
世紀から20世紀に掛けて日本人に培われたものの考え方、即ち、すばら
しい知恵であります。100年以上も前に消滅した武士の魂が、現代に生き
る私たちに訴えてくるものは何なのでしょうか。私たちの祖先が内面を掘り
起こし、日々鍛錬する事から徐々に積み重ねて確立してきたものなのです。
私たちが21世紀の混沌とする社会で主体的に積極的に生きるためには、
特に、20世紀に私たちが求めてきた科学技術の発展だけに頼るのではな
く、正に19世紀の日本人が持っていたものの見方や考え方を、今一度内
側から掘り起こして、深く考えることが大切です。
先ほど具体的に中川画伯と松浦社長のお2人の話をしました。ものの本
質を問う生き方を心がけることによって「本物を見分ける眼」も自然に養わ
れ、「本物として生きる」そして「豊かに生きる」ことができるのです。常に自
らを省みて思慮深くありたいものだと思います。
「確かな眼を持ち、本物として生きよう」
これを卒業生に贈る餞(はなむけ)の言葉といたします。諸君の人生に幸多
からんことを祈念して式辞といたします。
平成16年3月1日
愛知県立豊橋商業高等学校長 水野昭彦
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