183 理想の教会目指して
聖書箇所 [コロサイ人への手紙3章]
幸せ、だれもが望むものですね。その鍵は?今、生活している場が良いものであること。たとえば、家族。温かい、ほっとするなどなど。今回はもう一つの家族、教会について、その理想をご一緒に考えましょう。その前にひとつお話を。
メキシコのある町に玉ねぎを売りに来るお年寄りがいました。全部で20袋を店頭に置いていましたが、ある日アメリカ人の観光客が通りかかり、「一袋いくら?」って尋ねました。「10セント」「2袋では?」「20セント」「じゃあ、20袋では?」。安くしてくれるだろうと期待して聞いたのですが、「いや、20袋は売らないよッ!」「なぜ?売るために来ているんじゃあないの?」「私はこの市場の雰囲気が好きでねえ、友だちもたくさんいるし、気のいいやつばかりなんだ!もし、あんたに売っちまったら、帰らなければならなくなる」
私たちも、「帰りたくないなあー。もっとここにいたいなあー」と、ついつぶやくような教会にいたいものですし、作って行きたいものですね。コツは壁を作らない、です。ではどのような壁でしょうか。
民族・人種・国籍
私たちの教会では理念と言うものを掲げています。これはMission Statementであり、一種の自己紹介です。各チャペルの入口に掲示しています。自己開示とも言えます。六箇条で成り立ち、第六条にはこうあります。
機会均等の実現
成人(陪餐)会員は年令・性別・年功(信仰歴や会員歴の長短)・国籍・人種などによってその職務の遂行やそれに必要な立場への任命が避けられたり、制約を受けたりすることはありません(21)。神により与えられた賜物・能力は発現され、神により創造されたこの世界で大いに用いられるべきであり、それにふさわしい職務や立場が与えられるべきです。したがっていわゆる先輩後輩の関係の存在は認めません。このような機会均等の実現は神のご意志であり、私たちの教会を平和と愛で満たし続けるものであることを信じます。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人……というような区別はありません。(3:11)
ギリシヤ人はユダヤ人以外の人々(異邦人)を指します。ユダヤ人たちは自らを律法が与えられた特別な者たちであると高ぶっていました。通常はどの社会でも多数派が偉ぶるもので、日本では日本人が高慢になりやすく他の民族を見下しやすいのです。その結果でしょうか。一向に不況から脱出できません。いっそのこと、謙虚に外国人に応援をもっともっと頼んだらいかがでしょうか。サッカーチームもフランス人監督トルシェに率いられ強くなりました。日産もゴーンにより復活を果たしました。総理大臣にも外国人をスカウトしてはいかがでしょうか。私は聖書の勧めにしたがって、この種の壁は無意味だと主張しているにすぎません。私たち、すべての人はアダムの子孫であり、アダムは神から生まれ、民族・人種・国籍などの差別はすべきではありません。ちなみにどの国にいっても差別はあり、少数派が苦渋をなめますが、少数派がいつも正しいとは言えませんし、少数派が多数派になったときにかつての少数はであったときの気持ちを忘れやすいのも事実です。私たちは互いに、そしていつも謙虚であるべきです。
外面的な条件
そこには、……割礼の有無……というような区別はありません。
割礼は律法の象徴であり、かつ外面的なものです。しかしユダヤ人はこれを必要以上に誇りました。外面的とは形式でもありますが、これを絶対化してはいけません。たとえば洗礼の方法ですが、初代教会では定まった方法はまだありませんでした。滴礼でも浸礼でもともに有効です。礼拝の形式も聖書では詳細にわたって指定をしてはいません。賛美歌を歌ったら必ず祈りなさいとか、指定をしてはいません。教会政治も同様です。一般社会と同じで直接民主制、間接民主制、監督制などあります。賛美の仕方もさまざまで最近ではゴスペルであったり、ドラムを叩いたりと多様性を帯びて来ています。自分のやり方が唯一絶対だというのは高慢です。地域社会、文化、性別、社会層などの持つ個性にしたがって種々の礼拝スタイルの選択肢があってしかるべきです。教会は一般に高慢です。日曜日に朝10時半の礼拝式が一回だけとか、まったく選択の余地がありません。老人も若者も同一のスタイルで礼拝をしなければなりません。私はこれを改善したいといつも主に祈っています。朝から晩まで、二時間おきに礼拝がなされるとか、住まいから15分以内に礼拝堂があるとか、プログラムが少なくとも個性的に数種類は用意されているとかです。理想にはほど遠いのですが、理想を忘れては寂しいかぎりです。
形式、あるいは外面の持つ危険性に心を向ける知恵と柔軟性とが必要です。
「監獄バー」が人気を博しているという。手錠をかけ、囚人服を着て、注射器やフラスコに入ったカクテルを飲む。トイレは「仮出所」で、帰る時は「出所おめでとうございます」。客はしばし囚人気分を楽しむのだそうだ。短時間の囚人ごっこだからこそ笑って日常へ帰ることができるのだろうが、それでは、囚人としての役割演技を、より本物に近い状況のもとで、一週間続けるとどうなるか?かつてそれを実際に試みた人がいる。スタンフォード大学心理学部のジンバルド教授が一九七一年に、被験者約二十人を無作為に「看守役」と「囚人役」に分け、役割を演じさせた、かの「監獄実験」である。結果、一週間で実験は中止。看守役が残虐な攻撃性をエスカレートさせ、囚入役が無感覚になったり心身症の兆候を示したりしたためである。このスキャンダラスな心理学実験を、ドイツのオリバー・ヒルシュビーゲルが映画化した。邦題は『エス』。実話を基にしたとはいえ、映画はあくまでフィクションだが、リアルな怖さで背筋が凍る。ごく普通の善良な隣人が、制服をまとい、役割を演じているうちに本物以上の本物へと変貌していき、世にも恐ろしい結末を迎えるのだ。この映画は、制服が人格に及ぼす力を具体的に見せてくれる。看守の制服を着るか囚人の制服を着るかは、コンピューターが決めた偶然にすぎない。なのに、短い貫頭衣風の囚人服を下着なしで着せられた囚人役は、動きが卑屈でぎこちなくなり、服従に甘んじるうち本当に服従の似合う身体になる。一方の看守役は、肩章つきのいかめしい制服を着て警棒、手錠をもつ。支配者の権限を与えられた身体は、いったん完全支配の快感を覚えるや、残虐さと冷酷さを増長させていく。たかが制服が、張りつめた状況では着る人の人格を制服が求めるもの以上に変えてしまうのだ。最も冷酷なリーダーへと変貌した看守役が、最も役割に忠実な小心者だったという「実験結果」も怖い。ナチスの兵士や白人至上主義のKKK団の騎士の多くが、制服を着る前は「良識的な一般市民」だったという事実が頭をよぎる。とはいえ、映画のなかで最も怖い服は、看守の制服でも囚人の制服でもない。被験者に制服を与え、両者の闘争をビデオモニター越しに「データ」として観察する研究者の白衣である。日ごろ私たちに「女らしい服」「会社員らしい服」「今っぽい服」という「制服」を着せている制度や慣習や流行が、この白衣と似た権力をふるっていることに気づいてひやりとするのである。(服飾史家)(中野香織『日本経済新聞』2002.6.7)
目に見えないものに目を留める心構えが重要です。シュバイツアーはアフリカで頭が痛いという人の頭に手を置いて祈り、あるいは手術をして多くの人を病から救いました。でもそのような日常の中でだんだん神みたいに崇められて行く自分に気がつきます。彼は言います。「私が癒したのではない。目に見えない神がなさったのだ!」。やがてノーベル平和賞を受けますが、その賞金をライ病者のために全額ささげます。金銭という目に見えるものに惑わされない生き方は多くの人の尊敬を集めます。教会は特に目に見えない世界を大切にする世界でなければなりません。
文化
そこには、……未開人、スクテヤ人……というような区別はありません。
これは非文明(文化)人と文明(文化)人の間の壁です。さて、ここで質問。いったいだれが文明や文化の高低を判定するのでしょうか。「アメリカ発見」と私は教科書で習いました。まるで超チフス菌が発見されたようなものです。アメリカは、そしてアメリカに住む人々は「発見」される前にすでにそこにいます。正しくは「(東西の)出会い」です。でも、でもです。つい私たちは文化に優劣をつけたがるのです。自分の文化はレベルが高く、あなたのは低いのだと言いたいのです。聖書は文化相対主義の立場をとっています。昨今、恋愛が幅をきかせています。お見合いの人々は肩身の狭い思いをしています。ご存じイサクはいわばお見合い、あるいは親が決めた結婚と言えます。日本では高校の野球部員の一人が不祥事を起こすと全員が出場辞退をしたりします。一人の責任が全員に及びます。聖書ではどのような文化が見られるでしょうか。アダムが罪を犯したので、彼以降のすべての人が罪を遺伝されました。気をつけていただきたいことは人は罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯します。なぜ罪人なのか、それはアダムが罪を犯したから。この考えを受け入れると、正しい人イエスが正しいゆえにあなたも正しいと認められます。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ5:18,19)
早くから働いても遅く来て働いても同一賃金という理解しがたい話も文化の違いを理解すれば納得が行きます。何も難しいこねくりまわす必要もありません(マタイ20:1-16)。近代の日本や欧米では一物一価です。同一の物に対して同一の価格を提示します。客によって金額を異なるようにしたら大変なことになるでしょう。でも中東などでは価値は、したがって価格は売り手と買い手との交渉で決定(発生)されるものです。日本でも東京のアメヤ横町ではそのやり方が採用されています。これらは文化の相違という観点から見なければなりません。私たちは優劣をつけることをせずに、相違を認めるようにしなければなりません。もっとも大きな相違は神の聖さと私たち人間の罪深さです。いったいどれほどの差があるでしょうか。ことばでは表現できません。この違いを乗り越えようと神さま自ら解決へと乗り出されました。それが神でありながら、人となる、すなわちイエス・キリストの誕生です。神さまの相違を乗り越えようという情熱に私たちは学ぶべきです。
世俗の立場
そこには、……奴隷と自由人というような区別はありません。
職業に貴賤はありません。世俗社会における立場は教会の中に持ち込むことはできません。社長と社員、上司と部下といった関係は教会の中では承認することができません。私たちの教会では先輩と後輩の関係をも承認しません。神の前には同距離のはずであるからです。
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)
初代教会においては奴隷が講壇から会衆席にいる自分の主人に向って説教を語ることがありました。教会においては世俗における立場は通用しないのです。ただしこのようなことはよほどひとりひとりが意識していないと、あるいは努力をし続けないとなしくずしに、この世俗の価値観に負けてしまいます。そのときには教会は世俗の団体となんら変わらないものとなります。そのようなことにならないためにも地道に丁寧にしっかりと礼拝をささげることです。たとえば祈りがそのプログラムの中にあります。祈りによって私たちはますます聖められます。インドの聖者と呼ばれるサンダーシングはあるときこのような疑問に悩みました。「私たち人間の祈りは貪欲に満ちている。それを聖いお方である神がどうしてお聞きになることがおできになるのだろうか」。海辺に座っていた彼の中に閃きがありました。「海面から水蒸気が上がって行く。塩ッ辛い海の水は真水に変えられる。神は私たちの祈りから汚れた部分を洗い流し、聖い部分のみ引き上げ、祝福の雨を降らせてくださる」。礼拝の中で私たちはいよいよ聖められ、世俗の世界観を克服することが出来ます。
性別
妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。(3:18,19)
どんなに頑張っても男性は子どもを産むことはできません。しかし女性は一般に男性よりも体力的に劣ります。これらは特性であって優劣ではありません。これも一般論ですが、どちらかと言うと男性は理性的で、女性は情緒的です。社会の雰囲気は情緒的である女性が作ってくれます。あたたかい雰囲気、明るい雰囲気など。欠点は感情的になりやすいこと。一方男性の役割は社会に枠を用意すること。この枠が成員に安心感を与えてくれます。欠点は融通がきかないことなどです。共に長所を生かし、短所を補うことです。互いに補完関係にあります。車を例に言えば、ハンドルとワイパー、アクセルとブレーキ。どちらが欠けても困難が生じます。男性と女性は互いに尊敬をすべきです。お互いに次の聖句を口に出して言うべきです。
わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)
さて、私たちは互いに尊敬をすることが大切なのですが、これは理想的な教会を作るためという全体のテーマの条件でもあります。それにはどうしても愛が必要です。あなたには、私は十分愛されているという意識がありますか。この意識がしっかりと備わっていると、他者を尊敬することができるし、そのような人が多く集まると理想に近い教会と言うことができます。最後に一つのお話をして終りましょう。
いたずらっ子がいました。お父さんはついに堪忍袋の緒がきれて、「お前が一つ悪いことをするとこの壁に釘を一本打つ」と言いました。翌日から一本ずつ、着実に、打たれる釘の数は増えて行きました。やがてそれを見て少年は辛い思いになって行きました。ある日こう言いました。「お父さん、ぼくが良いことをしたら、一本ずつ釘を抜いてもいい?」「いいよ」。こうして良いことを始めて、ついにすべての釘を抜くことに成功しました。でも少年はその壁を見て悲しくなりました。釘の跡が残っていたからです。それに気づいたお父さんはひとつひとつの釘跡を丁寧に埋めてくれました。少年はお父さんの愛情を強く感じたのです。とても良い子に変わりました。愛は人が人を尊敬して行こうとするためには不可欠なものです。こうして理想の教会は本物の愛を持ち、そのゆえにそこに集まる人々は互いに愛しあっているのです。