185 信仰の勇者

聖書箇所 [ヨシュア2、6章]

 ラハブについて学びましょう。少しだけ状況を説明しましょう。神さまがある時イスラエル人に「土地をやろう」と約束してくださいました。それを信じたイスラエル人たちがいよいよその土地パレスチナに入ろうとする時、指導者ヨシュアは二人のスパイをちょうどその土地の入口にあたるエリコの町に送り込み偵察を試みます。なぜか、ラハブは「これは神さまのご計画だ!」と知り、エリコの王の追求をかわし、彼ら二人をかくまいます。彼女の身に非常に危険な行為であったので、信仰の勇者と呼ばれます。彼女に言及しているヘブル人への手紙には信仰の定義が示されています。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)

 私たちは何かを求めていますが、現在手許にはない、でもあるようにして行く、これが信仰だ、と言うのです。なんだか、わくわくしますね。そうしてこうも言います。

 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。(同2)

 では勇者とはどのような意味でしょうか?それは「使いこなせる人」。今回は私たちも信仰の勇者となるべくともに学びましょう。

 だれが信仰の勇者となるべく選ばれるのか?

 答え=不敬虔な者。
 私は立派だ!と少なくない人たちが自らについて信じています。もちろん聞かれれば「いいえ、そんなことはありません!自分を立派だなんて……」。でもことばのはしはしに、あるいはその行動にそれがにじみ出ます。たとえば他者をさばくとか。では何が自分を立派であると思い込ませているのでしょうか。それはもっぱら外面的なものです。クリスチャンならこんなところでしょうか。「私は日曜礼拝を欠かしたことがない、私は十分の一をささげている」などなど。では内面は?先日NHKの朝の連続ドラマ『さくら』をふと目にしました。ちょうど青年教師が教室でこういう話をしていました。「私の母も教師だった。ある時、クラスの成績を良くしようとウルトラCを考えだした。それが成績の悪い子を当日休ませることだった。でも後で母はひどく罪責感に悩んだ」。私はこの場面を見ながら高校時代のことを思い出しました。クラスの担任が「今日は参観日の準備をする。”後ろの席に座っている者で字の汚い奴は前の方に座れ!”」。親たちは後ろの席に座っている生徒たちのノートを覗き込む、それへの対策でした。対象となった生徒たちは大変傷ついたでしょう。私たちは自分のエゴのためには何でもする、そんな罪があります。いったいだれが「私は立派だ!」と言えるのでしょうか。ラハブは遊女です。売春婦です。当時は宿屋を女主人が経営することは珍しくはなかったのですが、宿泊費の中に自分の体を提供することも含んでいました。そんな彼女ですが、あるとき「私は神の前で生きる!」と決意しました。彼女の過去については情報はありません。いつどのようにしてまことの神を知ったのか。でも大切なのはそのように決意をしたことです。神の前で生きる、それは新約聖書のことばで言えば十字架を信じることです。十字架は鏡、真実のあなたを、そして裸のあなたを映し出します。ラハブは自らの罪を自らの不敬虔さを知ったのです。そのような者こそが信仰の勇者となるべく選ばれるのです。あなたはいかがですか。

 どのようにして信仰の勇者となるべく訓練されるのか?

 答え=日常の生活経験によって。
 私たちの信じる神さまは教会の中だけで働かれる方ではありません。もちろん日曜日だけのお方でもありません。むしろ月曜日から土曜日の間にあなたに貴重な多くの経験をさせてくださいます。それがあなたを訓練します。ラハブは信仰をさっそく試されます。先に述べたように自らの危険も顧みず二人のスパイをかくまいます。彼女の中に迷いは全くなかったのでしょうか。あなたはいかがでしょうか、さまざまに出会う場面で。あなたには嫌いな人がいますか?しかもたびたび顔を会わさなければいけないとか。好きと嫌いという感情は、まさに感情ですから、私たち人間の力のコントロールの及ばない部分でもあります。嫌いなものは嫌い、いかんともしがたい、これがほんとうのところではないでしょうか。でも聖書は「愛しなさい」と勧めていますね。これがあなたに用意された一つの訓練です。少なくとも愛することを試みるべきです。失敗してもいいのです。試みるべきです。こういう現場における訓練をOn the Job Trainingと言います。先日レストランに行ったときもベテラン社員が新米のパートタイマーに対してほんもののお客の前で実践訓練を授けていました。一番身につくやり方です。あなたは、しかし、このような訓練を受ける中で一つのすばらしい応援をいただくことができます。それはあなたの中に生まれる平安。二人のスパイが去って1週間後、イスラエル人は再びの奇跡によりヨルダン川を足を濡らさずに渡ります。やがてエリコの人々はイスラエル人が黙々と城壁の周りを廻る姿を目にします。毎日一回。戦争だというのに、尋常のことではありません。その無気味さに城内はパニックに陥ります。でもひとりラハブは平安でした。私は神の側にいるという確信がそうさせました。あなたは平安を内に秘めつつ訓練の道を歩みます。神さまは私を訓練し、育ててくださると信じてください。なぜって。あなたを愛しているから。

 何を信仰の勇者は産み出すのか?

 答え=新しいライフスタイル。
 元通産官僚天谷直弘は論文『ノブレス・オブリージ』の中で「食うに困らない人は食うことを超える価値を追求しなければならない。ひたすら暖衣飽食の人はブタに等しい。経済大国日本はノブレスにならないければならない」「今日の日本の政治家はノブレスであるというにはほど遠い。国民は自らに似せてその政治家をつくる。政治家がノブレスでないことは国民がノブレスでないことの証拠である」「自由主義、民主主義がカラスの勝手主義に堕落した」などなど手厳しい。しかしクリスチャンは氏のことばに無関心ではいられない。新しいライフスタイルとは他者への思いやりであるから。
 心のパンチドランカードということばをご存じでしょうか。パンチはこぶしでなぐること。ドランカードは酔っぱらい。ボクシングにおいてパンチドランカードとは、殴られ続けている状態、もはや抵抗できない状態を指します。心の、という意味は、ことばのパンチで殴られ続け、ふらふらになりながらも逃げない、いや逃げられない状態。弱い立場の人がその運命に従います。私の友人である掘肇牧師が『こころにやさしく』の中で「もう少しからだをいたわる様にあたたかいまなざしをもって心をいたわることができたらいいと思うのですが……」と言います。

 ミッションバラバの高原芳郎さんの父親は彼が小学生のときに家を出て、その後母親も出て、食べるものにもことかくようになりました。しかし二年後母親は熱心なクリスチャンになって戻って来ました。彼は母親を助け19才の時に父親を探し出し、帰ってくれるように泣いて頼みました。でも父親は拒みました。そのときついに彼の中にあった怒り、憎しみが爆発しました。彼はやくざになり、覚醒剤に手を出すようになります。破滅の人生へと踏み出したのです。こころへの思いやりをもらえないとき、人は絶望します。でも神さまは彼を助けました。ビリー・グラハムのメッセージを聞いたのです。「イエスさまを信じるならどんな罪人も赦され、永遠の天国に行ける」と。彼はクリスチャンになり実業家として成功して行きます。いったい人はいつ幸せを感じるのでしょうか。多くの研究がなされていますが、その鍵は「自尊心と感謝の心」に集約されます。自尊心、それは自分を大切にすること、感謝の心は他者への思い。新しいライフスタイルは信仰が産み出すものです。さらに新しいライフスタイルはあなたを魅力的にするのみならず他者をも変えます。

 一人の中学生が養子に出されました。養父は食事を出すたびに「俺の金で食わせてやっているんだ!」と言い、新しい制服をもらった時には「俺の金で買ってやったんだ!」と言いました。彼は一日も早く家を出たいと念願し、ついに高校卒業とともに飛び出すように家を出ました。怒りと憎しみとともに。久し振りに家に戻ったときに、彼は驚きました。お兄さんの様子が以前とは全く違うのです。彼は憎しみを込めて「相変わらず、この家は汚ネエナア、見ろ、くもの巣が張っているじゃないかッ」と毒づくと、お兄さんは「あ、そうだね。今掃除するよッ」と実に穏やかなのです。これにショックを受け、やがてクリスチャンになり、養父とも和解し親孝行をします。新しいライフスタイルは他者をも変えて行きます。もちろん自分自身をもっと上の人間へと。ラハブは遊女から平凡な主婦へと生活を変えました。イスラエル人の中に(神の家族の中に、の意味)に住み、サルモンと結婚し、思いやりある立派な息子を得ました。ボアズです。彼の妻はルツ。彼女はダビデ王のひいおばあちゃん。つまりメシアの家系に組み入れられるという最高の祝福にあずかりました。

 信仰の勇者、そのすべての出発は不敬虔な私を主は選んでくださったと認めるところから出発します。あなたの信仰に祝福を祈ります。


■ラハブ (〈ヘ〉rahab,〈ギ〉Rhachab,Rhaab)「広い」という意味.エリコの遊女(ヨシ2:1).彼女は城壁の中に家を持ち,エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい,彼らを窓からつり降ろし,無事に任務を遂行するのを助けた.その時ラハブは,イスラエルがエリコに侵入する時,自分のいのちを助けるとの約束を得た(ヨシ2章).そして,ヨシュアは,その約束を守り,ラハブ一族を助けた(ヨシ6:17,22‐25).ラハブがどのような経歴を持つ人物かは知られていないが,すでにイスラエルの神を主と呼び,そのみわざについて知っており,2人の斥候の前で立派な信仰告白をしている(ヨシ2:11).ヨシ2:1では遊女と呼ばれているが,亜麻の栽培をして生計を立てていたと思われる(ヨシ2:6).新約聖書は,彼女を,信仰の人また義と認められた者と呼んでいる(ヘブ11:31,ヤコ2:25).イエス・キリストの系図の中では,ルツの夫ボアズの母として紹介されている(マタ1:5).(いのちのことば社『新聖書辞典』)