186 弟子もさまざま
聖書箇所 [ヨハネの福音書20章26ー29節]
イエスさまの弟子たちってとても個性的です。そしてこれら個性的な彼らを受け入れるイエスさまは大物。どんなタイプも受け入れることができます。「私はAタイプとBタイプとしかつきあいません」という人よりも「私はAタイプ、BタイプのみならずCタイプ、Dタイプ、EタイプだってOKです」という人の方が大物です。器が大きいのです。器が大きければ大きいほどものは多く入ります。つまり祝福は多く受けられます。今回はイエスさまの器の大きさを学びましょう。さらに、もしかしたら今から紹介する3つのタイプの中にはあなたが含まれているかも知れない、そうであればうれしいでしょうし、そうでなくても心配要りません。イエスさまはあなたというタイプを知り、受け入れていてくださっています。
アンデレ
彼はどのような人でしょうか。可能性を信じる人です。あなたは可能性を信じる人ですか。私は最近会堂を建設しましたが(2002.7.20七里チャペル)、現在までのところ二年置きに建てています。いずれの場合も多少とも苦労はあります。でもどんな障害物があっても決して諦めません。負けません。負けないことが重要です。負けなければ必ず最後は勝てるのです。さて可能性といったときに、物事に関してと、自分に関してと両方あるでしょうね。前者はもう説明しましたが、後者はこうです。いままで私にはできなかったが、この先できるようになるかも、という期待です。
その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。……イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。(ヨハネ6:1-14)
有名な「5000人の給食」です。ピリポは他の否定的な弟子たちの思いを代弁しています。「この程度の食料では所詮無意味でしょうね!」と。しかし、アンデレは違います。もっと積極的、もっと挑戦的!!彼は目立たない人ですが、芯の強い、内に燃える信仰を持っています。彼はビテニヤ、ギリシアなどへ伝道の世界を広げて行きますが、特徴は指導者に対して伝道が上手だったと言われています。いかがでしょうか。通常自分よりも目上であるとか、自分の上司、先生、親、兄姉などには福音を伝えるにしてもつい臆してしまうのではないでしょうか。でも彼は全く臆するところがなく、多くの指導者たちが信仰を持ったと言われます。最後は十字架刑に処せられるのですが、イエスさまと同じ形では申し訳ないとX字型の十字架を志願して死にました(したがってX字型の十字架が彼のシンボルです)。十字架の上では3日間生き、意識が戻るときには福音を語りました。だれでも聞いていてくれる人がいれば救いの可能性があったからです。アンデレタイプは日常の生活の中で素朴な感動を覚える人です。そこには主が用意してくださったすてきな出会いがあります。そして出会いこそが将来を約束しています。私がはじめて教会に行ったときに出会ったO先生は私の人生に非常に大きな影響を与えました。彼は私によくこう言いました。「井上くんは何をしたいの?」なんと言ったらいいのでしょうか、返答に困る質問でした。いままで親あるいは学校の先生からただ言われたことをする生活であったから。でもこういう質問を繰り返されるたびに私の中に躍動感が生まれて来ました。「自分にはしたいことがあるんだ!あって、当然なんだ!自分の人生なんだもの」。やがてこれが聖霊さまとの出会いに繋がります。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:13,14)
聖霊さまはひとりひとりにアイディアや思いをくださいます。教会が発信源ではありません。聖霊さまです。聖霊さまこそがあなたの信仰生活をそして人生をわくわくさせるのです。素朴な感動から私が学んだことでした。
素朴な感動こそ可能性の母です。
バルトロマイ(ナタナエル)
彼はどのようなタイプの人でしょうか。求道者、哲学者タイプと言ったらいいでしょうか。真理とは?真実とは?と常に尋ね、内面を重視するタイプです。冥想タイプと言ってもいいでしょう。
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:46-49)
「いちじくの木の下」は1世紀のガリラヤ人にとっては瞑想の場所でした。いちじくは地上高5ー6メートル、葉は7ー9メートルにまで広がります。だれかがそこにいれば決して他の人たちは邪魔をしません。瞑想タイプの人の短所は思い込みが激しいことです。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とは誤解や間違ったことを信じ込むというこの特徴を現わしています。どうしても、閉じこもる性質ですから、こういったことは避けられません。けれども長所を見なければなりません。瞑想タイプは真理が分かったときにはまっしぐら。脇目も振らず突進。愚直なまでにその道を貫こうとします。そうして自分をその真理に合致させるべく一生懸命に品性を整えようとします。品性の面は別にして私は本来瞑想タイプです。一人で過すのが好きです。そういう人がよく牧師をしていられるなと問われるかも知れませんが、でも事実なのです。あなたは瞑想タイプでしょうか。伝説によればバルトロマイはインドにも行き、こん棒で打たれ、生きたままナイフで皮を剥がれたと言われます(したがって三丁のナイフが彼のシンボルです)。彼が内面を大事にしたことを現わすエピソードです。実業家に向かないタイプですが、教会の品性を高める重要なタイプです。
トマス(デドモ)
彼はどのようなタイプの人でしょうか。証拠を求めるタイプです。通常疑い深いトマスと言われるのですが、むしろ前向きに証拠を求めていると言った方がいいのではないでしょうか。冷静に考えるとだれもが証拠を求めていると言えます。人間であるならば。単身赴任の夫を抱えた妻がアル中になったりするのは愛されているかが不安になるからです。愛してくれているのなら、その証拠が欲しい、当たり前です。では証拠を得たら?トマスの場合、南インドや中国へ伝道に出かけたと言われいています。やがてバラモン教徒に妬まれ、石で打たれ、槍で刺し殺されたと伝えられています(したがって槍が彼のシンボルです)。殉教の場所には碑があり、そこにはこうペルシア語で書いてあるそうです。「この人は真の神に最後まで純粋に忠実を貫いた」。証拠を得たら、ほんものだと「分かった!」ら、このタイプはそれに命を賭けるのです。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:24-28)
ここにはイエスさまの彼へのやさしさと彼の決意が見えます。私たちは実際証拠が欲しいのです。自分の人生を託すにふさわしい価値、対象を探し求め、かつそれがそうであるという確証が欲しいのです。「私はこのことのために生きる!私はこのことのために生きている!私はこのことのために自分の人生を賭ける!」という、自分自身で納得できることを求めているのです。いったいだれがこの思いを満たしてくれるのでしょうか。きっとあなたにもトマスと似たような思いがあるでしょう。
おばあちゃんと少年が住んでいる家が火事になりました。火の廻りが速く、たちまちにして家は炎に包まれました。火の勢いに圧倒され、人々は何も出来ませんでした。そのときです、一人の男性が突然火の中に突進して行きました。叫んでいる少年を抱えて戻って来ました。おばあちゃんは早くに亡くなっていましたが、少年は助かりました。周囲にはいっせいに歓声が上がりました。この事件が広く知られ、「私が少年の保護者になりたい」という人々が何人も現れました。公民館でだれが適人かを決める集会が開かれ、志願者がひとりひとり話をしました。「私は大きな農場を持っています。その緑の中で育てることができます」「私は教師です。立派に教育することができます」「私は金持ちです。何でも彼に与えることができます」などなど。司会者が最後に「もう志願者はいませんか?と問うたとき、しばらく沈黙があり、その後会衆席の後方から一人の男性がおもむろに立ち上がり、両手を広げました。その手はみじめに焼けただれていました。少年を燃える家から救い出すときに鉄パイプの手すりをつたって降りて来たからです。それを見た少年は彼のもとへ駆けて行ってしがみつきました。
イエスさまはあなたを愛しています。ご自分のいのちまで犠牲にして。これが証拠としては十分ではないでしょうか。あなたが生涯をささげる相手として。