187 キリスト教三点セット

聖書箇所 [ヨハネの福音書3章16節]

 先日婚約式が教会でなされ、若いカップルの親族や友人たちが多く駆け付け、一緒にお祝いをしてくださいました。年輩の方々も多く、印象深いものでした。特に年輩の方々はこのような場合に、こういうことがお分かりになるでしょう。「今、この若い二人は長い人生のこの辺りにいる」と。先のことが読めるとでも言ったらいいでしょうか。聖書にこういうことばがあります。 

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)

「あなたは、どこにいるのか?」とはもちろん住まいの住所を尋ねているのではなくて、実存的な意味です。それは「あなたは、いったい何者なのか?」「あなたの人生はいったいどこへ向っているのか?」の意味です。エリクソンが言い出したことばではアイデンティティー。キリスト教はアイデンティティーの宗教です。上の質問にばっちりと答えてくれます。これからお話するのはキリスト教とは何か?についての答えですが、同時にあなたに上の質問への答えを用意してもいます。私たちはこの問いへ正しく答えなければなりません。なぜって。自分の大切な人生であるから。イエスさまは十字架の上でこう言われました。

 ……「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。……(ルカ23:34)

 私たちはときどき自分が何をしているのか分からなくなるのです。あるとき、はっとして「私はいま、何をしていたんだろう?!」と。三点セットでキリスト教についても、自分についても分かります。

 聖書

 聖書とは何でしょうか?あなたはどう答えますか?聖書、それは「あなたにいのちを与えます!」 宗教改革者のマルチン・ルターはこう言いました。

 聖書は生きていて、私に語りかける。聖書には足があり、私を追い掛けてくる。聖書には手があり、私を掴む。聖書は生きている。

 一人の実業家が事業に失敗して北上川にかかる橋から身投げしようとしていました。そのときかつて行ったことのある牧師からもらった葉書の中の一節を思い出しました。それはヘブルへの手紙12章11節。

 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 彼は自殺を思いとどまり、再起をはかりました。彼こそ初代ライオン歯磨社長小林富次郎です。 私は講壇から、よくこういう言い方をします。「決して負けるな、決して逃げるな、決して諦めるな、そうすればいつか必ず勝てる!」力み過ぎてもいけません。勝とう勝とうと思うから空回り。負けず、逃げず、諦めなければ、いつかは勝利。神さまはあなたを祝福してくださいます。

 シカゴで、あるホテルの落成式がなされていました。そのときギデオン協会から各室に置かれる聖書が贈呈され、社長はこう感謝のことばを述べました。「みなさん、ご覧のようにすばらしいホテルが出来上がりました。立派な調度品も用意できました。しかし、ただいま、ギデオン協会から聖書が届けられてついにホテルは完成いたしました」。こう語ったのはホテル王ヒルトンでした。
 ロシア生まれのユダヤ人マルク・シャガール(1887-1985)はこう言います。「絵を描くことは神から与えられた使命」。さらに「私は聖書という偉大な書物に頼って来た。幼い頃から聖書は私にビジョンを与え、仕事に関して霊感を与えてくれた。不安に悩む時、聖書はその偉大さと知恵とでいつも落ち着かせてくれた」。
 今の時代、いのちを奪う時代ではありませんか。 

 昨年一年間の自殺者数が三万千四二人に達したことが警察庁のまとめでわかった。これで四年連続の三万人突破である。目立つのは、借金、事業不振、失業、生活苦など、経済的な問題を理由に自殺した人が七千人近くに達し、過去最高となったことだ。四、五十代の男性が圧倒的に多いことも特徴だ。(『読売新聞』2002.7.26)

 どうか聖書に触れてみてください。あなたにはいのちが与えられます。ここで私の体験から一つの助言です。私はヨハネの福音書3章16節のみことばを信じてクリスチャンになりました。一年間さんざん悩んだ末のことでした。大きな決断でした。さて私は大きく期待をしました。クリスチャンになった人のあかしを多く聞いていると、「すっかり人生が変わった、毎日の生活が変わった」と言うのだから。しかし私の生活に変化はありませんでした。なぜ?私は不安でした。クリスチャンになったことは間違いだった?!やがて分かりました。私は聖書そのものを信じてはいなかったのです。その理由は、私にとって都合の悪いみことばがたくさんあったから。たとえば、「愛しなさい、赦しなさい」などなど。私には赦せない人がいて、強く憎んでいました。それは私の心を深く蝕んでいました。でも赦すことはなんと難しいことでしょうか。私はこのみことばを拒絶していました。やがて私は聖書をそのまま神のことばとして受け入れました。そのとき大きな喜びと平安がありました。私の中にほんもののいのちが宿った瞬間でした。そうしてまもなく一つのみことばが与えられました。

 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア1:7)

 「あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄える」。これにはぞくぞくっとしました。もちろんこれには条件があって、「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。」(同7)ですが、それまで何をしても成功しない私が、次々に成功してようになりました。もちろん小さな失敗はあります。でも良い結果を残せるようになりました。聖書は私にいのちを与えてくれました。

 神

 神はあなたにたくさんの愛を与えます。イギリスの神学者C・S・ルイスはこう言いました。

 「車はガソリンで走る。神は人間が神によって走るように設計された。神ご自身が燃料となり食料とならねばならない。それ以外に幸せになる道はない」
 
 愛こそがあなたを真に幸せにしてくれます。愛はあなたに感動を与え、あなたに生きる希望を与えてくれます。

 私はかつて会社に勤めていて、営業マンをしていました。私の隣に座る同僚が目の前の女子事務員としょっちゅうけんかをしていました。たがいに悪口を言い合い、私の頭の上をそれが飛び交います。「いいかげん疲れるなあ」と思っていました。あるとき彼と私は同じ車で仕事に出かけました。車の中は密室です。またまた彼女の悪口を言い始めました。私は「また始まったあ……」と思いつつ、ある一つのアイディアが閃きました。「もしかすると、この二人は好き合っているのかも」と思ったのです。それで私は彼にこう提案しました。提案は営業マンの得意とするところです。「今度、彼女をレストランに連れていって、二万円の料理をごちそうしなさい!」。彼はなんと答えたと思います?「井上さん、それは高い!二千円でどう?」。私は譲りませんでした。まもなく二人は結婚しました。

 つまり私たちは愛を求めているし、その証拠が欲しい。真の愛の証拠はばっちり!あります。神の愛の証拠はばっちり!ありますよ。イエスさまはあなたの代わりに十字架の上で死なれた。あなたのためにいのちを投げ出された。懐が痛めてこそ愛、犠牲が払われてこそ愛、ですね。神の真の愛に出会うためには何が必要でしょうか。それは人間としての叫び。「私は人間!」。でもあなたは「そんなことは当然、分かってる!」。もちろん私はあなたが猿でも犬でもないことを知っています。そういうことを言っているわけではありません。では何が問題?人間でなければ何?それは道具!もし妻が全自動洗濯機であれば、それは道具です。もし夫がATMであれば、それも道具。道具は故障すれば捨てられても文句は言えません。故障するまでの間、すたすら利用されます。人間を利用してはいけません。真の動機(自分の欲望達成)を隠して、他者を動かしてはいけません。それは人の道に反します。倫理違反です。そこに人間の尊厳はありません。一般論ですが、日本人は我慢し過ぎです。運命論的です。クリスチャンもです。我慢している間に自らの尊厳を失っているのに気がつきません。それは自分の責任です。神の前の自分の責任です。だから祝福が少ないのです。こういう詩があります。

 はるがきて めがさめて くまさん ぼんやり かんがえた
 さいているのは たんぱぱだが ええと ぼくは だれだっけ だれだっけ
 はるがきて めがさめて くまさん ぼんやり かわにきた 
 みずにうつった いいかおみて そうだ ぼくは くまだった よかったな

 冬眠から覚めたくまさんが自分を思い出すのです。思い出して幸せをかみしめるのです。

 あなたは叫ばなければなりません。「私は人間なんだ!道具ではないんだ!私の中を血が流れている。辛い時には私は涙を流す。私は人間なんだ!理不尽な取扱いを受けて、私は納得できないッ!私はかけがえのない、世界でたった一人の人間なんだ!私はもっと大切にされるべきだ!」。神の愛はもの、すなわち道具には本来向いません。人間に向います。あなたは人間ですか?

 教会

 教会、これがまた大切なものです。教会、それは目に見えるキリスト教。教会は建物ではありません。夫婦でも同様。戸籍上夫婦なら夫婦。確かに。でもだれもそれだけで十分とはだれも思いません。中身です、もっとはるかに重要なのは。では真の教会の姿とは?
    1 尊敬しあう。

 なぜ?私の大好きな歌を一つご紹介しましょう。

 あなたを主イエスの愛で心込めて愛します。あなたの中に主の姿が映し出されているから♪♪♪
 あなたを主イエスの愛で心込めて愛します。あなたの中に主の姿が映し出されているから♪♪♪

 あなたの中に主の姿が映し出されているか、とはなんとすばらしい言い方でしょうか。これは神のかたちが主イエスさまによって修理されたことを告白するものです。こうあります。

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26,27)

 私たちの教会では礼拝の中で互いに笑顔で目を見て握手しながら、この歌を賛美します。互いに尊敬していますというあかしです。意思表明です。もし上のみことばが分かれば私たちは互いに尊敬できます。これは日本の武士道でも協調されている徳です。五千円札のモデルになっている新渡辺稲造は有名な『武士道』を書き、その中で、尊敬を中心的な徳の一つとして触れています。勝ってもえばらず、負けても卑屈にならない。互いの鍛練と努力を讃えます。相撲でも空手でもガッツポーズはしません。きちんと礼をします。両者対等に。これは聖書の教える徳でもあります。

 へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)

 良い教会では人々は尊敬しあいます。

    2 愛しあう

 私たちは愛しあうことができます。なぜならイエスさまを心に迎えたとき、あなたの中には愛が宿ったから。イエスさまは愛そのもの。あなたは確かに他の人を愛しています。しかしこのような言う時私は苦情を言われます。「でも喜んでもらえなかった。私には愛はない」と。このようなことを言うのは自分のしたことが相手に対して効果的でなかったという意味でしょう。しかし効果的でないことは、それが愛でないことを意味しません。愛は偉大な無駄であるから。O・ヘンリーの『賢者の贈り物』をお読みになったでしょうか。貧しい若夫婦が登場します。二人ともほんとうに貧しい。クリスマスの前だというのにプレゼントができない。妻デラは膝の下まで届くすばらしい髪を売り、そのお金で夫ジムの唯一の財産であり家宝である銀の懐中時計用にプラチナの鎖を買います。一方ジムは彼女の長いきれいな髪をとかすためのベッコウの櫛を買います、その時計を売って。二人の間に愛はないのでしょうか。愛は偉大な無駄なのです。イエスさまは人々に向って、十字架の意味を訴えます。でも多くの人が「俺には関係ないよ!」と言います。愛は偉大な無駄なのです。無駄があっても愛は愛。あなたは愛しました。聖霊さまにうながされ、勇気を持って小さな愛をこれからも人々に向けてください。良い教会では人々は愛しあいます。

      3 赦しあう

 なぜ?神があなたを赦してくださったから。

 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13)

 私たちはそれぞれ感性も違えば、意見も違います。食べ物に好みがあるように、人の好みも違い、好きな音楽も人それぞれ。それを互いに冷静に受け入れなければなりません。特に罪を犯される場合に赦さなければなりません。口で行動で私たちは互いに罪を犯すものです。人間の社会でほんとうに不思議なのは被害者ばかりがいるのです。では加害者はどこにいるのでしょう。どこかにいるはずです。互いに赦すべきです。

 日本を代表するシナリオ作歌木下順二の作品『あとかくし』。だれもが寝静まった頃、しかも雪が降る中、一人の旅人が一夜の宿を求めます。迎え入れたのは貧しい農家の主。いまにもこわれそうな家に気持ちよく歓迎します。旅人は大変感激し、お礼を言います。それを見て主人はうれしくなります。でもすぐに寂しい思いになります。貧しいために何にもごちそうできません。閃いたのは隣の家の軒先きにぶら下がっている大根。そっと抜け出し、取って来て料理し、ごちそうします。旅人はさらに感激し、主人はまたそれをうれしく思います。が、同時に罪責感に悩まされます。その証拠があるから。雪の上にはしっかりとそのときの足跡が。でも降りしきる雪がそれを隠して行きます。これは神のやさしさを表現しています。足跡はあなたの心の傷を現わしています。  神はあなたの罪を赦しました。そして心の傷をもいやします。 良い教会では人々は赦しあいます。