191  カメレオンマン

●聖書箇所[マルコの福音書5章1ー20節]

 ドキュメンタリ−タッチの映画に「カメレオンマン」があります。覚えていらっしゃるでしょうか。時は1920年代、ユダヤ人レナード・ゼリグが登場します。彼には実に特殊な能力があります。それは周囲の人々に同化できるというものです。金持ちたちの間にいれば金持ちになり、医者たちの間にいれば医者になります。黒人たちの間にいれば皮膚の色が黒くなって行きます。太った人たちの間にいれば太って来ます。ラビ(ユダヤ教のいわば牧師)たちの間にいればラビになり刑務所で教誨師を依頼されたりします。なぜこんな能力を持っているのか、と女性精神科医ユードラ・フレッチャーが研究を始めます。質問しました。「なぜ、周囲の人々と同じになるの?」「安全だから、それに周りのみんなに好かれたいから」。彼女は愛情を注ぎ、彼に自信を取り戻させようとします。自分自身であること、物真似は止めること、カメレオンのように生きることは爬虫類に等しいことなどを訴えます。彼は普通の人に戻り、二人の間に恋が生まれ、婚約をします。すると問題がたちまちにして発生します。彼を訴える女性たちが現れたのです。曰く、「俳優に化けていた彼と結婚していた」「医者に化けていた彼に氷ばさみで赤ちゃんを摘出された」「悪くない盲腸を摘出された」などなど。人気者はたちまちにして詐欺師になり、彼を憎む人々は彼こそは搾取のために変身を繰り返す資本家の真の姿だと糾弾します。ついに彼はカメレオン時代に犯した罪を謝罪し、社会から姿を消してしまいます。逃れた先はナチスの親衛隊の中でした。全体主義(こういう単語が登場すると話が難しくなりますが、やくざ、暴力団、暴走族などのアウトローの世界ーー彼らは社会の鼻つまみ者のみならず、社会を攻撃する集団ーーと考えたら分かりやすいでしょう。今回の聖書箇所では墓場が相当)はこのような場合に格好の逃げ場になるともこの映画は言います。彼は以前に戻って同化の能力を発揮し、ファシズムの中に自分を埋没させます。フレッチャーは彼を探し求め、ついに会い、彼はハッと我に返り、そこから脱出してついに結婚する、という話です。

 テーマは何でしょうか。それは、人間の尊厳!今回学びたいのは通常「悪霊に憑かれたゲラサ人」などと称される話ですが、テーマはこれです。私たちは人間としての尊厳を傷つけられると決して幸せに生きることはできません。以下は一人の夫の証です。

 妻は小さい頃から「お前はばかだ、ゴミだ!」と言われ続け、自分への自信を失い、人との関係も上手には結べず、母親への憎しみを内に燃やしながら生きて来ました。その不満が結婚と同時に吹き出し、ささいなことで私を責めるようになって行きました。ことばやしぐさのすべてが責める理由とされました。そうして私のもっとも大事にしているものをわざと見つけては壊し寝込んでしまいます。こういう状況が6、7年続きました。私は泣きながら祈りました。「なぜ、こんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか?妻の心の傷をいやしてください」。すると主は「あなたも同じではないかいつも不平不満ばっかり、私に対して恩知らずではないか」。私はこのとき分かりました。私は自分が被害者であるとばかり思っていたのですが、加害者であったということ。こうして少しずつ妻が変わり始め、子どもが与えられ、10年目に妻がこう言いました。「私はあなたをはりつけにしていやされたのよ。恩返しをするからもう少し待っててね」

 「お前はばかだ、ゴミだ」と言われる、これこそが人間の尊厳を傷つけられた状態です。人間は自分の尊厳を奪われた時、あるいは傷つけられた時に病気(心も体も、広い意味で言っています)になります。怒りは社会に向けられていますが、それは表面的な見方であって、本来は自分に向けられています。

 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。(5:5)

 しかしこれは孤独な作業であって、ゆえに仲間を作ります。そのあかしが次のような会話です。

 イエスが、……「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。(8,9)

 日本語の語感では突然、「おおぜいですから」と言われてもとまどいますが、レギオンとは6000人から成るローマ帝国の連隊です。アクセントは「自分たちの仲間はおおぜいいるのだ」というところにあります。さて続けて尊厳をテーマに考えましょう。

人間の尊厳とは何か?

 1 神のかたち

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26,27)

 それは人格。美しいものを見て、美しいと感じる。人が悲しんでいるのを見て、いっしょに悲しくなる。これは神の持つ人格のイミテーションですが、神の手になる作品であって実に価値あるものです。

 2 神の次に価値ある存在

 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇8:4-6)

 神よりいくらか劣るもの、とはなんという驚くべき表現でしょうか。全知全能の神を除き、この世界においてはだんとつの価値と言っています。私たちがもし「自分は愚かだ!つまらない存在だ!」と発言するなら、どういう意味で発言しているのかを確認しなければなりません。もちろん神との比較でのことなら、その通り、でも人間の価値について触れているとするならば、この発言は間違いであり、非聖書的です。決して自分をゴミにしてはいけません。

 3 御子という犠牲の大きさ。

 もしあなたがバーゲンセールで1000円のものを買ったとします。それが故障しました。修理費は1万円。さあ、どうしますか。通常修理代を出す気持ちにはならないでしょう。あなたという一人の人間が罪で故障しました。愛の神さまは御子の血を代価として用意してくださいました。あなたの価値の高さを証明してはいないでしょうか。

 以上のことを覚えるとき、あなたは自分の尊厳を取り戻すことができるでしょう。私たちは聖書を正しく読むべきです。聖書はあなたの尊厳を教え、かつそれをしっかりと保持することを主張しています。

人間の尊厳の持つ可能性とは何か?

 それは神のみわざがなされる、ということ。神のみわざがなされる舞台は本来どこでしょうか。地球の上?会社の中?いいえ、あなたです。ゲラサ人は大きな変化をみずからに見、そして周囲の人々もそれを見ました。

 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったこと……つぶさに彼らに話して聞かせた。……それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(15-20)

 いかがでしょうか。「あーあ、とってもらくーッになったあー」なんて、礼拝の中で経験なさるのでは?これこそがあなたを舞台になされた神のみわざ!と言うのは、もし心の中に希望が生じれば、どんな問題に対しても勇気を持って立ち向かうことができるものだからです。ちなみに逆の可能性とは何でしょうか?つまり尊厳が傷つけられたままであったら。その人には悪意が生まれ、留まり続けます。悪霊、それは現実の存在、そしてこの話は史実ですが、悪霊は悪意のシンボルです。ローマの軍隊はローマ市民には味方であっても外国人には略奪行為を行う恐怖の存在でした。「レギオンです」と名乗られたとき、外国人は自分たちへの悪意を恐怖の思いとともに強く感じたでしょう。では神のみわざがあなたを舞台になされるためには何が必要でしょうか。それは自分の弱さを認めること。かつて神戸市であった小学生殺害事件では犯行声明文が有名になりました。「透明な存在であるボク」。この感覚は、つまり「自分自身を生きている充実感に乏しい」という表現で、今の子どもたちに共通してる感覚であると教育専門家は口を揃えて言います。「受験やいじめなどで子供が挫折を体験した時、親が受け止めてやらないと、子供は自己肯定感の欠如に悩むことになる。「『弱音を吐くな』『頑張れ』などと言わず、子供の言葉をただ聴いてやるだけでいい」(フレンドスペース顧問の富田富士也)(『読売新聞』1997.7.23)

 私たちは自分の弱さに気がついているはずです。暑ければ、ぐったり、寒ければ畏縮し、ちょっと風邪をひいただけで「あーあ、人生って空しいーッ」と思ったりします。みことばに聴きましょう。

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(・コリント12:9)

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(・テモテ1:15)

 パウロはなぜこんなにも強いのか、それは弱さをさらけだしてしまっているから。弱い者を神さまは助けます。なぜなら強い者に助けは必要ないからです。あなたは強い者ですかそれとも弱い者ですか?弱い者であるあなたに神のみわざはなされます。「ライオンとゾウと神さま」のお話をしましょうか。

 ライオンが神さまに言いました。「神さまがわたしをりりしく立派に作ってくださったことには感謝します。でも一つだけ困ったことがあります。恥ずかしくだれにも言えないことです。それは私は鶏が恐いのです」「百獣の王であるライオンがそうであったとすれば情けない。鶏が恐いと言うのは心の問題だ。象を訪ねて話を聞いてみなさい」。こうしてライオンは象のもとへと行きました。すると象は休むことなく耳を動かしながらこう言いました。「まったく蚊には困ってしまう。もし耳の中に入って一刺しでもしようなら僕は死んでしまう」。このことばにライオンは俄然勇気が湧いて来ました。

 だれにも弱点はあるのです。隠す必要はありません。そのところであなたは神さまと出会い、みわざをいただくことができます。

人間の尊厳はどこで回復されるか?

 それは十字架の上で。そこであなたという人格からあなたの罪は分離されます。罪は罰を受けー御子イエスさまがあなたの代わりにお受けになるのですがーあなたという人格は、したがってその尊厳は守られます。このときあなたは以前には答えることの出来なかった質問に答えることができます。二つあります。

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)

 住まいの住所を質問しているのではありません。罪に汚染されたゆえに、「本来あなたがいるべき、尊厳と言う場所にいまあなたはいないのではありませんか?」と質問されています。もし罪が除去されれば、尊厳という場所にいられます。

 イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」……(ルカ23:34)

 罪を犯しているとき、人は尊厳を失っています。罪を犯しているとき、人は自らを傷つけており、しかもそのことに気づきもしないのです。尊厳が回復された時、人は自らをもはや傷つけません。「あなたはみずから尊厳を傷つけているのではありませんか?」という質問です。

 どうか罪が除去される恵みに浸ってください。イエスさまだけがそれをすることがおできになり、したがってイエスさまだけがあなたの尊厳を回復することがおできになります。

 もし(霊的に、身体的に、精神的に広ーい意味において)病気を人間の尊厳性の喪失と考えるならば、どのようにしたら治療は可能かと言う質問に答えることができます。私たちが恐れるのはさらに尊厳に傷を受けることです。たとえば恥をかかされることと考えてみてください。公衆の面前で恥をかかされた人はそれが再び起きるのではないかと恐れます。ならばもうそれは二度と起きないのですよ、と安心させられれば前進する勇気が生じると言うことができます。では人間の中でだれがそのようなことをすることができるのでしょうか。

 あるカウンセラーの体験。18才の少女がクラエントです。面談中、どんなにカウンセラーが話しかけても応答しません。まもなく18才の少女は壁に向って椅子の向きを変えて、座ってしまいました。カウンセラーは彼女の脇に同じように椅子を動かし壁に向って座りました。30分間、続けて語り続けましたが、何も反応がないので椅子から立ち上がろうとしました。すると彼女は突然カウンセラーの腕を掴んで「行かないでーっ!」と叫びました。「私を独りにしないでッ!」。「この人によっては私の尊厳は傷つけられない」と彼女が理解した瞬間でした。

 愛情と使命に燃えた人からはこのような働きを期待することができますが、私たちは同時に人間の持つ限界も理解しなければなりません。完璧にはできません。失敗もあります。だれが真の理解者でありうるのでしょうか。それは世界でたった一人、イエスさまだけです。イエスさまはあなたを完璧に受け入れてくださいます。

 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された(愛し抜かれた、と訳すこと可)。(ヨハネ13:1)