198 労苦が無駄にならない為に

●聖書箇所[テサロニケ人への第一の手紙3章5節]

 今回は人生の危機管理について学びましょう。危機管理などと言うと、いかにも堅いのですが、表題の通りで、いままで苦労して来たことがらが、あるいはこつこつ積み上げて来たことが崩れてしまうことのないように、不測の事態を想定して予防しましょう、とこういうわけです。具体的にはパウロの知恵を学びます。ある時、パウロ一行は地中海を航海していましたが、大暴風雨に襲われ、船内はパニックになります。だれもが「もうだめだ、沈む」と予想したときに、パウロは「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません」(使徒27:22,25)と励ましました。これは芝居であったのでしょうか、いいえ、そうではありません。口からのでまかせではありません。彼の、人生への危機管理のまっとうさを示していると言えるでしょう。彼はここで死ぬわけにはいかないばかりか、死ぬわけがないのです。なぜかと言いますと、主から与えられた、異邦人伝道というビジョンがあるからです。

 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。(ローマ11:13)

 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。(同15:16-18)

 私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。(同20)

 このビジョンに基づくすべての働きが無駄になることのないように彼は危機管理を有効に行なっています。パウロが実際に遭った危機をご紹介しましょう。

 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難(ちなみに、これだけでも説明しましょう。当時は一つの職業と考えられていましたので、なぜ人が苦しむことを彼らは平気でするのだろうかというあなたの疑問は成り立ちません。どうようなことは現代でも言えます。どうしてあの人は平気でこういうことを私にするのだろうか、という疑問も成り立ちません。イエスさまはこう話しておられます。「イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカ23:34)、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Uコリント11:23-27)

 あなたの人生にもさまざまな危機が訪れますよ。リストラ、夫婦の不仲、病気、怪我、交通事故、中傷、人間関係の壊れなどなど。私たちは罪の世界に生きている以上、これらの危機が襲って来ることは避けられません。大切なことは事前に対策を練って、ダメージの最小化を計ることです。

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Tコリント10:13)

 三つのキーワードで学びましょう。

 情報

 正確な情報があなたを助けます。パウロが常に正確な情報をスピードとともに収集していることは参考になります。何度も暗殺団に狙われ、そのつど寸前のところで逃亡に成功しています。安易に殉教者になろうとはしていません。各教会から寄せられる正確な情報が彼をいつも助けていました。第三回伝道旅行の際には、10人の伝道チームがトロアスからアソスへ海路移動し、アソスでパウロを拾うのはそこまで彼ひとりは陸路を使ったからです(使徒20:13,14)。すでに危険は迫っていましたし、そのための情報も得ていた結果の行動でした。最後のエルサレム行きであり、逮捕、投獄、殉教が近いことを予想しつつもいたずらに命を危険に曝すことを避けました。船の中で暗殺者が船員か乗客に紛れ込んでいれば逃げることは容易ではありません。ギリシアから出航しようという時に、ユダヤ人暗殺団の陰謀が発覚、マケドニアに向うということもありました(同20:3)。実に危険いっぱいのパウロの伝道生活でした。彼を助けたのは情報であった、とこのように言えるのですが、一つ注意しなければいけないのは、情報をどのように使うかです。それは主から与えられたビジョンに照らしてと答えることができます。暗殺団から逃げることも、そのまま殉教することも間違ってはいません。キリシタンのころの宣教師たちには以上の二つの選択がありました。一旦日本から退避する、そしてもう一つは殉教覚悟で伝道しかつ信者の面倒を見るというもの。パウロは主からいただいたビジョンに照らして与えられた情報を活用しています。アッシジのフランチェスコは信仰を持ってまもなく道を歩いていてライ病者を見ました。彼は迷いました。祈って看病をしようか、それとも見過ごすか。当時は恐ろしい病と考えられていましたので、彼も恐れました。伝染したらどうしようと。しかし通り過ぎてから彼は激しい葛藤に悩みます。主の声が聞こえます。「お前はなぜ通り過ぎたのか?」お前はそのライ病者よりもましなのか?もっときれいだと言うのか?もっと汚い罪人ではないか、それなのに私はお前を受け入れた、愛した」。フランチェスコはライ病者のもとへ戻り、祈り、篤く面倒を見ました。すでに彼には主からのビジョンが垣間見えています。ビジョンに基づき活用される、正確な情報があなたの人生を実り豊かなものにします。

 祈り

 祈りは現実の力です。パウロ自身ひざで勝負する祈りの人でした。彼の手紙の最後には多くの人々の名が見えます。たとえば、私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。……ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。……あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。(コロサイ4:10)

 彼の手帳は手あかで汚れていたことでしょう。日夜ひとりひとりのために祈るから(コロサイ2:1)。彼が祈りの力を知るのは実に彼の身に起きたことを通じてであったというのも歴史の面白みではありますが、これも神さまのわざです。何を言おうとしているのかと言いますと、初代教会はある一つのことを祈っていました。迫害の嵐に耐えられますように、と。内憂外患と言いましょうか。外からはローマ帝国により、内部ではユダヤ教からの攻撃にさらされていました。後者はパウロ(当時はサウロと呼ばれていました)をリーダーとして進められていました。その彼が祈りによって倒されてしまいました(パウロにおいてもひとつの人生の危機)。そのいきさつは使徒の働き9章に詳しく記されています。初代教会クリスチャンたちの祈りに答えてイエスさまが直接パウロを倒しました。しかし倒しただけではありません。教会の最高のリーダーに変えられて行きます。なんということでしょう!ここにも祈りの力が働きました。イエスさまに打たれた彼はまず何をしたのでしょうか。祈った!のです(使徒9:11)。その祈りの結果はアナニヤを彼のもとに派遣するというイエスさまの決定でした。アナニヤはパウロのために祈り、励まし、バプテスマを授けました。するとたちまちにしてパウロは

 ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(使徒9:20)

 伝道者・初代教会最大の指導者パウロの誕生です。今、私たちは祈りに対して真剣な思いを持たなければなりません。決して気休めではありません。現実の力を産み出すもの、これが祈りです。私の助言は、ただひとつ。ただ祈ってください。これだけです。1988年にドジャースを両リーグ優勝に導いた立て役者はオーレル・ハーシュハイザーです。防御率、なんと0.60。クリスチャンになって間もなくでしたが、インタビューではイエスさまについてあかししました。しかしこれには後日談ならぬ、前日談があります。以前マイナーリーグで投げていた頃、スカウトの目にとまり、大リーグへと上がりました。そのとき彼はこう言います。「私は祈ることをやめてしまいました」。その結果三試合で防御率8.60というふうにさんざんな結果でした。彼はこう回想します。「まるで神さまにどやしつけられたみたいでした。『いったい、だれのおかげでここまでやって来れたんだ!?』」と。

 仲間

 危機のときに、仲間は重要です。心も不安定な状態にありますし、具体的な援助も必要ですから。パウロは決して一匹狼にはなりませんでした。クリスチャンとしてデビューするときに、突然「私はクリスチャンになりました」と言ってもだれも信じないでしょう。彼は迫害の張本人であったし、それゆえ有名でした。人々はわなかも知れないと思ったかも知れません。でも彼は決してあきらめません。パウロ教会を建てようとはしていません。あくまでキリスト教会に留まることを前提に行動しています。

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:26-28)

 そうです。バルナバが助けてくれました。身元引受人になってくれました。困ったときに助けてくれるのが真の友人です。真の仲間です。伝道旅行も単独ではなく、チームで実行しています。それは自らを弟子を訓練するためでもありましたが、危機管理ににとって有効な方法でした。私たちはひとりでは弱いのです。常に他者の、特に友人の助けが必要です。ではどうしたら危機のときに頼りになる友人を得ることができるでしょうか。それには日頃から他の人々と夢の共有をすることです。同じビジョン、夢を楽しめることです。私とあなたの間の取り分がせめて50・50。「この夢はあなたに50%の利益を与えます」と言えること。できれば自分の取り分を40%とか30%にできれば理想です。反対に「私はこれをしたい!とにかくこれがしたいンだ!(あなたの取り分は0です、の意味)」と叫んでもだれも友人にはなってくれません。なってくれないばかりか、いざという時に足を引っ張られます。なぜ!エゴイズムだから。全ての人に嫌われるのがエゴイスト。いざというときに、だれも協力してくれません。自分のことしか考えない人間をだれが歓迎するでしょうか。私は各地にチャペル(教会)を建設し続けていますが、あくまでも地元の方々へのサービス(利益)と考えています。「地元の方々にとって、良い教会とは何か?」を常に念頭に置いて建設をしています。「私にとって都合の良い教会」ではありません。ですから、多くの決定をその教会の会員たちがみずから、しなければなりません。自分たちの教会なのですから。私は彼らの理想の実現のために仕えます。それが私にとって大きな喜びです。いったい両者の取り分はそのパーセンテージはいかほどでしょうか。理想をここでは語りました。理想がなければ人生は空しいものです。私たちはともに、「他者に与える」理想を掲げることを忘れないようにしたいものです。ビジョン、夢、目標を共有できる間柄において、はじめて友情も共有できます。真の友はあなたが危機のときに助けてくれます。なんとありがたいことでしょう。

 罪の世界で生きている、ゆえに人生にさまざまな危機を避けることのできない私たちには常に主の助けが必要です。その具体的な助けのひとつ、今回学んだような危機管理の考え方は有効です。いままでの蓄積が無駄にならないように、一瞬にして消え去ったりしないように細心の注意を払うことがあなたには必要なはずです。なぜならあなたの人生には価値があるからです。主によって愛され、主によって重要と考えられているあなたの人生に祝福を覚えて、お祈りしております。