199 神にならう者になりなさい
●聖書箇所[エペソ人への手紙5章1ー21節]
今回の題名は実に大きく、あるいは大げさにみえますね。でもみことばです。1節にあります。私はこのみことばを読むたびに30年前の事を思い出します。東京のとある教会にいたのですが、青年会の集会でのことでした。ひとりの姉妹が立ち上がりあかしを始めました。開口一番こう言いました。「私はいかにキリストになることができたのか、お話しします」と。爆笑でした。ときに、青年会では内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』が読み廻されていました。キリスト(神)には、私たちはなれなせんが、キリスト信徒にはなれます。神にはなれませんが、神にならうことはできます。このみことばが与える二つの希望があります。聖書は決して私たち人間が実行不可能なことを勧めることはないこと。もう一つは、かなり高い目標であること。高い目標こそが私たちを引き上げます。低いものは私たちを怠惰へと誘うでしょう。さて、実行可能な目標なのですから、勇気をもって神にならうとはどのようなことなのかを学びましょう。
愛のうちに歩む[2節]
ならうとはギリシア語でミメーシス。模倣する、真似をするの意味です。では何を模倣すればいいのでしょうか?それは2節に書いてあります。十字架の上でなされた行為、すなわち赦しの香りを放つこと。
愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(2)
赦しという香りは世界で一番美しく、かつ香ばしい香りです。あなたの中にあれば周囲の人々に気持ちよく嗅がれるでしょう。うっとりとさせ、幸せな気分へと誘うことでしょう。赦すあなたの心の中には平安と静かな喜びとが漂い、いっぱいになり、あなたはそれにより満足感に浸ることができるでしょう。先日(2002.10.23)NHKで盲目のテノール歌手新垣勉のあかしを聞きとても感動しました。生後まもなく助産婦さんが間違えて劇薬を点眼し、盲目になりました。助産婦さんへの赦せない思いが彼には生じます。続けて父親(メキシコ系アメリカ人)が突如アメリカに帰り、消息不明になります。いつかアメリカに行って殺してやろうと決意を堅めます。さらに母親は再婚し、これが彼には父親からばかりか母親からも捨てられたという思いに導きます。ついには自殺を考えますが、イエスさまに出会い、赦すことを学びます。赦している彼の顔は輝きテレビ画面いっぱいに写し出されます。彼の心の中の平安がそのまま写し出されてすばらしい番組に仕上がっています。彼は言います。「今、私は父に感謝しています。このすばらしい咽(ラテン系の響きがする)をくれたから」
けれども実際のところ赦すことが容易ではありません。どのようにしたらそれは可能になるのでしょうか。
アッシジのフランチェスコにはこのような話が伝わっています。あるとき、救われて間もない頃、道を歩いているとライ病患者がいるのに気がつきました。彼は心の中で葛藤しましたが、そのまま通り過ぎました。すると聖霊さまが彼に語りかけました。「なぜお前は通り過ぎたのか?」「私はライ病者が実に汚く見え、かつ恐かったのです。病気が伝染したらどうしようと考えてしまったのです」「聖霊さまのお答えはこうでした。「お前はこのライ病者よりもきれいだと言うのか。以前もっと汚かったではないか。そういうお前を私は愛し、受け入れたではないか」。フランシスはこう言われて返すことばがありませんでした。汚れた自分を受け入れてくださった主を思い、悔い改め、ライ病者のもとへきびすを返しました。手を置いて祈り、からだを拭いてあげ、看病をしました。あなたは何が彼をこのような行動へと駆り立てて行ったのかもうお分かりですね。赦されたことを知ること、神によって。これこそ神のわざ。
南アフリカ出身のジョアンナ・ヘンドリナ師は幼い頃レイプされ、赦せない思いに悩みました。父親が死に、寂しくななった母親は終末ごとに家を離れるようになって行きました。そういう中他人が彼女たちを面倒見てくれましたが、その中の一人にレイプされたのです。赦すために何年間も祈り続けついに赦すことができたのです。彼女は言います。「赦す心を与えて下さるのは神だけ」。のちに兄弟二人が殺されたときにはたった一日で赦すことができたと言います。神さまはあなたの中に「この私の、汚い罪が赦された」という思いを下さり、あなたを赦す者へと導いてくださいます。赦す生活は愛のうちを歩む生活です。
光の子どもらしく歩む[3ー8節]
光の子どもらしくとは具体的には何を指しているのでしょうか。ことば、そうです。ことば使いです。
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。(3-4)
最近(2002.10)拉致されていた北朝鮮から帰国した曽我ひとみさんの会見で読み上げた文章は詩のようでした。
私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。空も、土地も、木も私にささやく。「お帰りなさい。頑張ってきたね」。だから私もうれしそうに「帰って来ました。ありがとう」と元気に話します。
「『雪が溶けたら春になる』、むむ?そんなことあるか!!雪が溶けたら水になるんだ!」なんていう会話は理科室の中に留めたいものです。ことばには大きな力があります。無から有を産み出す力が。
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:1-3)
ことばが世界を造りました。そうして
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(同1:31)
ことばは良いものを造り出し(悪いものを造り出すのは罪が世界に入って以降のこと)、そして良いものとは希望を指します。ことばを上手に使う時、あなたの人生と生活にはいつも希望と明るさとがあります。すばらしい文章を見つけましたので、以下にご紹介しましょう。(大田典生『いい話のおすそわけ』三笠書房から)
2 信頼の「山びこ」効果
ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、「なってほしい相手の姿、つまり信頼に値する姿は、当方の信頼によってのみ実現できる」と、次のような体験をもとに語っています。あるとき、一人の学生から葉書が来た。「先生の靴は、誰が磨くのですか。いつ見ても光っていますね」と書いてあった。それまでは何の気なしに、汚れたと思ったら、磨いていたのが、その手紙を受け取った後は、光った靴を履いていなければ申し訳ないという気持ちになったから不思議だ。たとえば、、人から「あなたは穏やかな人ですね。いつもニコニコしていて明るいと、もっぱらの評判ですよ」と言われたとしたら、その後、嫌なことや腹の立つことがあっても、努めてにこやかにしていようと努力するはずです。
3「言葉のご馳走」をケチるな
●感謝の言葉……「いや、忙しいところをありがとう」。「助かったよ、ご苦労さん」このひと言で、苦労も吹き飛んでしまいます。何度言っても言い過ぎることはない。
●相談する言葉……「この問題は、若い君の意見を聞きたい」。「あなたはどう思う?」。相談されれば、誰でも嫌な気はしない。当事者意識も出て、やる気が出て来る。
●期待と激励の言葉……「ここは一つ、君に期待するしかない」。「頑張りなさいよ」こんな言葉をかけられたら、多少の心配はあってもおのずと元気と自信が湧いて来る。
●信頼する言葉……「ここは君に任せた。頼むよ」。「君ならきっとできるよ」任されて、「よし、いっちょうやってやるか」と頑張らない人はいないはずだ。
●誉め言葉……「よくやった」。「ここのところがなんとも言えないね」
…………あなたは「言葉のご馳走」を惜しんではいませんか?
ほんとうにその通り、とうなずき乍ら上の文章を私は読みました。「あなたなんかには何も期待していないよ!」なんて言われようものなら。背筋がぞっとしますね。ことばはなんと大きな力を持っているのでしょう。さて、ことばを正しく使うには訓練が必要です。そのためには
感謝しなさい。(4)
の一言。つい私たちはぶつぶつ言ってしまうのではないでしょうか。心にはくせというものがあります。それは本能的に行動にも言葉にも出てしまいます。心の中にあるくせがそうさせます。このくせを直さなければなりません。直すにはまず意識的に良いくせを使うように努力します。ここではどんな場合でも「感謝します」と言うことです。訓練です。どうかやってみてください。そうしているうちにだんだんことば全体が積極的、前向き、肯定的になってくるから不思議です。ことばを正しく使う者は光の子どもらしく歩んでいます。
賢い人のように歩む[9ー17節]
賢い人とは正しく適切に決断できる人のことです。神さまはフェアな方であり、平等なお方です。それはすべての人に同様の価値あるチャンスをくださるという意味です。ゆえに私たちのすべきことは
機会を十分に生かして用いなさい。(16)
という助言を無視しないことです。私は回転寿司が好きです。だれにも美味しそうなお寿司が廻って来ます。「食べたいなあ」と思ったら、そのとき手を伸せばいいのです。決断が鍵です。逡巡していればどんどん流れて行ってしまいます。私は今の教会を始めて22年になりますが(会社勤めをしながら始めました)、いままでに各県に7つの教会堂を建てました。いつも緊張するのは、不動産の物件を見て、「土地購入を契約するにしても、建物を発注するにしても、これがほんとうに正しい決断なのか?」と考えるときです。訓練や練習が必要です。それにはもちろん聖霊さまのお声を聞くことが含まれます。正しい決断も間違った決断もそれぞれにふさわしい結果を約束します。でもそれは自分の責任です。だからこそ人間の尊厳があります。決断が必要なければロボットです。私たち人間は人間の尊厳を賭けて決断し、自らの決断で祝福を自分のものにしなければなりません。ではどのようにしたら正しく決断ができるのでしょうか。それはたった一つの信仰があれば十分です。「神さまは私を愛し、いつも良いことをしてくださる」と信じること。あなたはこのように信じていますか。これは信仰者の採用すべき前提です。前提はそのまま結果になります。あなたの信じる通りになります。ハレルヤ!
聖霊に満たされて歩む[18ー19節]
聖霊に満たされて歩む。なんてすばらしい響きでしょう。あなたは聖霊に満たされた状態をご存知のはずです。さまざまにその場面を表現できますね。「心に平安がいっぱいに広がる」「うれしくてうれしくて、もうほんとうにしあわせ!」などなど。しかしここでは別の表現をご紹介しましょう。それは「あなたはあなたを生きている」。「そんなこと、当たり前!」でしょうか?いいえ、当たり前ではないのです。少なくない人が周囲の声に大きく左右され乍ら、ふらふらした生活をしてします。「こうですよー」と言われ、「こうかなあー」と反応し、「ああ、ですよー」と言われ、「ああーかなあー」と反応しています。自分がないではありませんか。「あなたは、いま、どこにいるのですか?」
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:8-9)
聖霊に満たされて歩む、これが魅力的なのはなんと言っても、自分を歩んでいるから、自分を生きているからです。あなたは自分を生きていますか。「いま、私はこう生きています、これがほんとうの私です。そうして私は満足しています」と言えますか?もし聖霊に満たされていないと何が起きるでしょうか。人間の心は袋のようです。何かを入れていないと不安定です。聖霊か酒か。酒とはすべての否定的なものの代名詞。赦せない思い、憎しみ、ぐち、妬みなどなど。私たちはこのようなもので心をいっぱいにしてはいないでしょうか。いつか爆発しますよ。でも他(の事や人)の責任に(口実を用いること)しないでください。
イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:18-23)
心の中の空洞を埋め尽くした悪いものはやがて爆発します。多くの人に傷を負わせます。聖霊に満たされることです。みんなから愛されます。それには
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(18-21)
次のように整理できるでしょう。歌うこと、それは賛美すること。感謝すること。主に向う、それは悔い改めること。いつも私は正しいと言うのは間違っています。主だけがいつも正しいのです。他の人に従うこと。これができる人は、主だけがいつも正しいと理解している人。主の助言に従うとき、あなたは聖霊に満たされて歩むことができ、あなたは神にならう者であるのです。