204 神は祈りに応える
●聖書箇所[サムエル第一1章]
赤ちゃんを連れて来て母親がその町一番と言われる名医に診てもらったところ、「これは、もう直る見込みはないですね!」と言われました。しかしさすが母親です、「医者がさじを投げても私は投げん」と言って、一生懸命に祈り、ついに直りました。その子は後に敬和学園(新潟市新発田市)の校長先生になりました。祈りのだいご味といったらいいでしょうか。今回は祈りについて学びましょう。あなたは祈りますね。神さまはあなたのお祈りに応えてくださいます。どのように応えて行ってくださるのかをハンナの例を参考に学びます。
具体的に
祈りは具体的であってこそ、私たちも元気が出ます。「祝福をください」よりは、「このような家をください」の方が神さまの方だって応えやすいっていうものです。子どものいないハンナはこう祈っています。
……万軍の主よ。……はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてください……(11)
あなたの祈りは具体的でしょうか。あなたは何を求めておられますか。何がどのように変化、あるいは変更されることを望んでいますか。あなたは何になりたいのですか。あなたはどのような人生を送りたいのですか。これらの願いを聞いていただくについてあなたは具体的な表現をしておられますか。祈りとはいわば発注書を書くようなものです。写真で言えばピンぼけはいけません。焦点がぼけているようなものはいただけません。鮮明な、一目瞭然の内容が示されなければ神さまの方も悩んでしまいます。ではどのようにしたら鮮明かつ明瞭な発注書を書くことができるのでしょうか。それはイメージの力を利用することです。アブラハムはこのレッスンを受けました。まだ子どもがいない頃、
「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。(創世記13:16)
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5、22:17)
イメージは常に聖霊さまとともにあります。次の聖句を解説しましょう。
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:1)
はじめに何もなかったのです。あなたにも解決策がないとしましょう。期待すべきは聖霊さまのお働きです。さて神の霊が、すなわち聖霊さまが「動いていた」のです。これはどのような意味でしょうか。ホバリングしている状態です。ジェットフォイルをご存じでしょうか。空気を水面または海面に強力に吹き付けて浮き上がる船です。神の霊がホバリングしています。これは車のスイッチを入れたときとも似ています。ブルンブルンと車体が震えます。でもまだともに出発はしていません。「光あれ」と主の号令があって、無が有に変わります。しかし有になる前にすでに神さまの中にはできあがったイメージはあったのです。イメージが先行します。
オハイオ州のある町の貧しい人びとの住む地区で、一人の少女が金だらいの上にかがみこんで、せっせと洗濯をしていた。彼女は八人きょうだいの一人で、鉱夫の娘だった。ちょうど父親の作業ズボンを洗っているところである。洗いながら、時おりすすけた窓からわびしい貧乏ぐらしを象徴する周囲のものをあれこれ眺めているうちに、あるイメージが浮かんだ。以前にも自分の将来を漢然と思い描いたことはあるが、今度のは単なる夢以上のものだった。まるでダイヤのように一点のくもりもなく、くっきりと心に浮かんだのは、大学のキャンパスと、見る者の気持ちをせいせいさせる緑の芝生と、ツタにおおわれた校舎の風景だった。今卒業式の真っ最中で、彼女は制帽をかぶりガウンをまとって、卒業証書を受けとっているところであった。天にものぼる喜び、何かをなしとげたという充実感、プライドを彼女はかみしめていた。だが、この実現しそうにない夢はいったい何なのだろう?家族には、一人も大学へ行ったものはいなかった。確かに彼女メリー・クローウェは、大学へ行けるように祈ったことはあったが、そんなことに使える金は皆無だった。大恐慌が、アメリカののど元を締めつけており、クローウェ一家の食卓には、かろうじて生きていくだけの食物しかのらなかった。メリーの奇妙なビジヨンなど、単なる少女のあこがれ以上の何ものでもなかったにちがいない。だがしかし、卒業証書を受けとっている彼女のイメージは、非常にいきいきした現実感にあふれていた。この後何がおこっただろうか。メリー・クローウェは呼びだしを受けた。地元教会の牧師が会いたいという。面くらいながら牧師をたずねると、善良な牧師は机の引き出しをあけ、一通の封筒をとりだした。「メリー」と彼はいった。「かなり前だが、教区のある人が、しかるべき若い人の教育に役立ててほしいといって、いくらか寄付してくれた。私はずっときみに注目してきて、この金を使ってもらうことに決めたよ。これだけあれば、セント・メリー・スプリングス大学で四年間勉強できるだろう。きみならきっとすばらしい成績をあげられると思うよ」ここでも、熱烈に描いた夢が、まぎれもない現実となって現われた。燃えるようなイメージが、実体となった。単なる偶然の一致だろうか?そうではない。セント・メリー・スプリングス大学に着いて初めてキャンパスを目にしたとたん、信じられないような話だが、偶然の一致ではないことがわかったと、一メリー本人が語っている。それは彼女が自宅の台所で、でこぼこだらけのブリキのたらいで水をはねとぱしながら、父親の作業衣を洗っていた時に心に浮かんだ光景とそっくり同じだったのである。なぜこうなったのか私には説明できない。メリー・クローウェにもできなかった。だが実際に彼女は大学へ行き、けんめいに勉強してトッブの成績をおさめた。(ノーマン・ヴィンセント・ピール『人間苦向上の知恵』三笠書房)
いかがでしょうか。イメージする祈りを活用してみては。ちなみに先週(2002.11.25-28)ノーマン・ヴィンセント・ピール牧師と握手をして来ました。信じますか?彼はもうすでに亡くなっています。実は訪問したクリスタル教会(米国ガ−デングロ−ブ市)礼拝堂の中に立っている彼の銅像と。
聖められつつ
あなたが聖められたと同時に、神さまはあなたの願いに応えてくださいます。事実、聖められていない状態で望みのものを得ても決して幸せではありません。たとえば人から騙してお金を得ても真のうれしさはないはずです。エルカナには二人の妻がいましたが、ハンナの他にペニンナ。彼女には子どもがすでにいましたので幸せかと言うと決してそうではありません。なぜ?彼女の心が聖くないからです。聖められていない心には真の満足、平安、喜びは存在しません。ペニンナのいじわるなこころは次の説明で明らかです。
彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。(6-7)
ハンナも罪人、聖められていない心がなかったと言えばうそになります。神さまは聖め続けます。ついに彼女は言います。「与えられた子どもをささげます!」
ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(10-11)
私たちは他の人たちを見返すためとか、自らのプライドのためとかで願いごとをします。自分の栄光を求めています。クリスタル教会に続けて、近くにあるカルバリーチャペル(コスタメサ市)に行き、夜の集会に参加しました。恵まれる説教を聞きました。説教者はその話の中でハレルヤではなく、ハレルミーと言う人が多いと話しました。ハレルは誉める、ヤーはヤーウエで神さまのこと。ミーは英語で私。神さまを讃えないで自分を讃えているというわけです。「これはこれは、まことにその通り!」と思わず反省をしました。心の底から神さまの栄光を求めたときに、聖められた、と言うことができます。そのときあなたのために神さまはその腕を指をあなたを祝福するために動かしてくださいます。そのためには聖められる時まで待つことです。神の時があります。これは人間の時ではありません。時にもいろいろあります。最近興味深いものを読みました。
一九七六年の夏、ブラジルの……連邦大学の心理学担当客員教授になって間もないころだった。……ブラジル人には共通して「アマニャ(明日、そのうち)」の態度が見られ、よほどのことがないかぎり、つねに今日の仕事は明日に延ばされるらしい、と。つとめてぺースを落とさなければなるまい。何かをなしとげようなどと期待するほうが無理だろう。だが、なにせわたしが生まれ育ったのはプルックリンだ。……異文化のなかで生き延びるすべを身につけていた。……ところが実際は、それどころではないカルチャーショックをくらった。時間をめぐるわたしの「お稽古」は、ブラジルに着いてすぐ始まった。初日の講議に出掛けるまぎわ、人に時刻を聞いた。午前九時五分。十時からの授業までにはたっぷり時間がある。三〇分ほどたったかと思ったころ、通りすがりに時計を見た。十時二〇分。あわてふためき、教室に向って駆けだすとのんきな学生たちが背後から「先生、こんにちは」とか「先生、こきげんいかが?」などと声をかけてくる。あとで気づくことになるのだが、その多くは、わがクラスの学生たちだった。息もたえだえにたどりつくと、教室はからつぽだ。半狂乱になって部屋を飛びだし、近くにいる人をつかまえて時刻を聞く。「九時四十五分」という答えが返って来た。別の人にも訊ねてみた。九時五十五分。すぐそこの研究室の掛け時計は三時十五分をさしている。このときブラジルに来て初めて二つの教訓を得た。この国の時計はどれもこれも不正確であること。そして、わたしを除いて誰一人その事実を気にかけていないらしいということ。授業は十時から正午までだった。おおぜいの学生が遅刻をした。何人かは十時三十分をすぎてからやってきた。十一時ちかくになってあらわれたのが若干名。さらに二人がそのあとで到着した。遅刻者はみな余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべている。のちには、わたしもそんな笑顔を浮かべられるようになったのだが。どの学生もわたしに挨拶し、何人かは簡単に詫びたものの、誰も遅刻したことを気に病んでいるようには見えなかった。彼らは、当然わたしが理解しているものと思つているのだ。ブラジル人が遅刻をすることは意外でも何でもなかったけれど、正味二時間の授業に一時間以上遅れて平然と教室に入ってくる学生たちを跳めるのは、たしかに新鮮な体験だった。……教え子たちの行動を理解したいと思い、わたしの新たな学部長になった人物と翌日の午前十一時に面会する約束をとりつけた。……十一時三十分に秘書がやってきて、こんにちはと声をかけ、……十二時二十分、彼女はついに私を研究室に招き入れ(ロバート・レヴィーン『あなたはどれだけ待てますか』草思社)
長々と引用しましたが、時間感覚は人により、文化により、気分によりさまざまだと理解してほしかったのです。たとえば大好きなことをしていると時間が経つのは速いもので、逆に嫌いなことをしていると永遠に続く感じがするものです。決して自分の時間が正しいとは言えません、世界で唯一絶対正しいとは言えません。人の時があれば神の時があります。神さまはあなたのとって最善のことを最善の時になしてくださいます。待つことです。
「ああ、すべてのものは待つ者のもとにやって来る」メアリ・モンゴメリー・シングルトン
ハンナの夫はやさしいけれども鈍感です。彼女のすばらしいところは夫にすなわち人間に期待したのではなく、神さまに期待したことです。あなたも最善をなしてくださる神さまに期待して待ちましょう。必ず神さまはあなたの祈りに応えてくださいます。
あなたが変えられつつ
あなたが変えられると、なんと周囲の人々が変わります。変えられます。私たちは人間関係に悩みます。この人間関係を改善する方法は三つしかありません。
1環境を変える。孟母三遷の教えです。違った場所へ移動すればいいのですが、ことはそう簡単ではありません。たとえば夫婦関係が悪化するたびに離婚するというわけにも行きません。
2他者を変える。これも本能的にだれもが最善のものとして考えつくものです。しかしもっとも非現実的です。「夫がこういうふうに変わってくれたら……」。でも夫も同様に考えていますよ。「妻がこうであってくれたら」。自分が変わることを求められたら、と考えてみましょう。難しい!の一言ですねえ。だから非現実的なのです。もっとも現実的な方法は
3自分が変わること。そうです。あなたが変わる、そうすればあなたの周囲の人々は変わり始めます。
歴史を見ると世界は、そして歴史は一人の人が変えて行きます。アブラハムはヤーウエ信仰の世界をイスラエル人の間に創始しました。モーセはそのイスラエル人をエジプトから脱出させ、新しい運命を切り開きました。ペテロもパウロも一人立ち上がりました。あなたが家庭で一人立ち上がる時、あなたは歴史を作ったのです。職場で学校でも同様。多くの人があなたにこう言って来るでしょう。「あなたのおかげで今日の私があります。ありがとう。感謝しています」。人々から好かれる、なんという幸せでしょうか。それは必要とされるという意味です。人生名利に尽きると言わざるを得ません。ではあなた自身が変わるための祈りはどのようなものでしょうか。それは情熱を持ってする祈り。ハンナの祈りはまことにそうでした。
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」(12-16)
情熱は人へのものではなく、主へ向けてのものです。それだけに信仰がないと人々は理解できません。霊的に鈍感になっていた祭司エリにはこの情熱が理解できませんでした。酔っぱらっていると誤解しています。私たちの祈りは人へ向けてのものではありません。神へ向けてのものです。十字架を通して私たちは大胆に求めることができます。主イエスさまを信じる者の特権を行使することを忘れてはいけません。最後にユダヤの格言を二つ、ラビのことばを一つ紹介しましょう。
人は転ぶとまず石のせいにする。石がそこになければ坂のせいにする。坂がなければ靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない。
いくら祈っても応えられないと思うったら、祈りにはもっと情熱が要ると知りなさい。
金と銀は過熱されると純化する。もしあなたが祈っても応えがないと思うなら、あなあは安っぽい金属か、祈りに情熱がないかのどちらかである。幸いにも神は人間を金銀に造ってくださっている。(ラビ・コレッツアー)
あなたの祈りに祝福を。