207 クリスマスの祝い方

●聖書箇所[ルカの福音書1ー2章]

 クリスマス、おめでとうございます。救い主イエスさまがお生まれになりました。ほんとうにうれしいですねえ。さてそのクリスマスって、いつでしょうか?初歩的な質問ですね。だれでもきっとご存じです。ではもう一つ、質問。あなたはクリスマスの、ほんとうの祝い方をご存じでしょうか?「そりゃー、カラオケさ」、「いや、パチンコだ!」っていう答もあるかも知れませんが、今回はこれを聖書から学びましょう。

驚く

 ……羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、……この出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。(1:15-18)

 「あっ、これは何だ!」「いったい、何が起きた?」羊飼いたちの話を聞いて、出来事(上は史上初のクリスマス)に人々は驚いていますね。感動の心。いかがでしょうか。あなたはお忘れではないでしょうか。お花を見て、「ああ、なんと美しい!」、プレゼントをもらって、「わあー、ありがとう!」。気持ちの良いものではありませんか。現代の日本は感動の薄れている時代だと言われます。

 「サンタのおじさんから何をプレゼントしてほしいか?」という問いに「べつに」と答える子供が多くいる。幼児に「欲しいものは」と聞くと「何もない」という答が返ってくることが珍しくない欲しいものがたくさんあって、一つに決めかねていたひところの子供の姿は少なくなった。今は、クリスマスと正月ど誕生日だけが子供がビッグブレゼントを手にできるチヤンスだった時代ではなくなっているようだ。クリスマスのプレゼントとして欲しいものが特にないくらい、物の豊富な中で育っている今のわが国の子供たちは本当に幸せなのであろうか。「エミール」(第二編)の中で「子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ」とルソーは述べている。約二百五十年前に子供に物を与えすぎるフランスの貴族階級の母親に向けられたルソーの警告は、そのまま今のわが国の親たちに当てはまるように思われる。(『日本経済新聞』1998.12.18)

 感動の心があなたを神に近づけさせますよ。これをイエスさまは「幼子のよう」(ルカ10:21)と表現なさっています。幼子ってほんとうに小さなことでも実にすなおな感動をしてくれますね。それは最近まで神さまのもとにいたからです。大人に感動が薄れてくるのはそれがだんだん記憶の彼方へと消えて行っているからです。すれて行くのです。すでにすれきっている人もいます。何を見ても、何をしても、何を聞いても感動のない人がいます。残念です。そしてとても不幸です。今こそ私たちは子どもの心を取り戻そうではありませんか。子どもの心は、「私の人生にはこれからもきっと良いことが多く起きそう」という心です。あなたはいかがですか?そのような気持ちがありますか。「私の未来には、きっと良いことが多く起きるに違いない!」という思い。このように考えている人ははたから見ていても魅力的です。明るく、前向きで、何ごとにもめげず、笑顔を絶やしません。ではどのようにしたら感動の心を再び持つことができるでしょうか。クリスマスの出来事に注目してみましょう。いったいこれは何が起きたのでしょうか。それは「神が人となられた」のです。でもこのような表現では理解が難しいかも知れません。言い換えましょう。「大が小の中に入った」のです。これならお分かりでしょう。でも果たしてこのようなことが起きうるのでしょうか。小さなお皿に大きなお皿が入るでしょうか。いいえ、入るはずがありません。ところがそのようなあり得ないことが起きた。これがクリスマスです。神が人イエスとなって地上にお生まれになった。これがクリスマスです。「こんな不思議なことがねえー」とあなたがお思い始めるならあなたには、今、感動の心が戻って来ていますよ。今、あなたは神さまの近くにいますよ。

考える

 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(1:18-19)

 驚いた後には、じっくりと考えることが必要です。「いわしの頭も信心から」と言いますが、とんでもないことです。「これは正しい道であると信じて、私はやって来た、しかし今や、間違っていることが判明した」なんて、20年後に告白しても喜劇にもなりません。少なくない方々が「教会に来ると、すぐに『信じなさい!』と言われる。だから嫌なんだ!まったく非常識なことばっかり言うんだから!」これは正当な考えではありません。そのような人はレストランに入ってテーブルの上に置いてあるお醤油を使わないのでしょうか。きっと毒味もしないでお使いになるはずですよ。それは毒が入っていないと信じているからです。信じることは社会生活におけるもっとも基本的な態度であって、異常なことでもなんでもありません。「信じる」ことがなければ私たち人間には社会生活そのものが成立しないのです。さて、神さまがくださった能力の半分はしたがって「信じる」ことです。しかしもうもうひとつあります。理性あるいは知性によって「考える」ことです。「いったいクリスマスの出来事って私にとってどのような意味があるのだろうか?」「この出来事はどのような意味があるのだろうか?」さあ、いかがでしょうか?具体的な解答例をご紹介しましょう。

 1 「神さまは私を忘れない」

 ザカリヤは当時2万人もいると言われた祭司のひとりですが、こう記されています。

 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。(1:5-7)

 そうです。実にまじめな人であったのですが、子どもがいなくて辛い思いをしていました。その願いは何十年にも及びました。そうしてついに、

 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。(1:13-14)

 何十年も祈るというのは並み大抵のことではありません。人間には精神的な、そして霊的な波がありますから、時に落ち込み、あるいは不信仰に陥り、祈りを忘れたことでしょう。彼としては精一杯誠実にして来ようと思ってはいてもできない弱さが人間ゆえにあったはずです。では彼にとってクリスマスはどのような意味でしょうか。それは「私が忘れていても、神さまは忘れずに私の願いを覚えてくださっている」ということです。

 2 「神さまは私の祈りに答える」

 シメオンの願いは死ぬ前に救い主イエスを腕に抱くことでした。それは聞かれました。彼にとってクリスマスは「私の祈りは聞かれる」というものです。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。(2:25-28)

 3 「神さまは私を孤独から解放してくださる」

 あなたは孤独を感じることがありますか?妻「どうして私の、気持ち、分かってくれないの?」。夫「なんで?俺だって、一生懸命にやっているんだ!」母親「どうしてお母さんの言うことが聞けないの?あなたのためを思って言っているのに……」子ども「お母さんて、いつもああなんだから……」

    ただ”黙って聞いてやる”だけでいい!

 野手としては日本人初の大リーガーになったイチロー選手の父親チチローが週刊誌で、「一朗は、一度だけ、高校一年の初めに『野球をやめたい』と、言いだしたことがありましてね」と話していた。その時、父は息子にこう言ったという。「お前の野球は、ほかの誰とも違う。小さい時から鍛えに鍛えた野球だからな。その野球を、ほかならぬお前がやめようというぐらいだから、そりゃよほどのことだろう。どうしてもやめたいと思うなら、やめるしかねえな」そして、何日か過ぎて「また練習したい、付き合ってよ」と言ってきたので、結局は野球をやめずに続けることになった。そして今日のイチローがいるのだが、「あの時、なんでやめたいと言ったのか、結局聞かずじまいで私は知らないままなのですよ」と父親は笑っている。いまどきの親なら「どうしてだ、こんなに苦労してきたのに。そりゃお前の言うことも分からないこともないけれどな、もしここでやめたら、もつたいないじやないか」と言ってしまうかもしれない。その時、その場で、なんとか子供の心を納得させたいと力んでしまいがちだが、力めば力むほど子供の心は荒れるだけである。チチローのように、ただ聞いてやるだけでいい。(太田典生『毎朝「一話」出勤前に読む本』三笠書房)

 なかなか立派なお父さんですね。しかしもっともっと立派な、しかも完璧なお方がおられます。

 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)

 あなたを理解してくださる方の誕生日が来ています。いつでもどこでもあなたはどんな場合でもイエスさまに受け入れられ、心安らかに過すことができます。イエスさまはあなたの味方です。

 4 「私の罪の問題を解決してくださる」

 あなたはかつて犯した罪に悩んでいらっしゃるでしょうか。良心は痛み、脱出することの苦しみにうめいていらっしゃるでしょうか。イエスさまは救い主としてあなたの住む世界に来てくださいました。もしそう信じるならあなたにとってクリスマスはすばらしいものに違いありません。十字架に架かるために、すなわちあなたのために、身代わりに死ぬために来てくださいました。あなたはこれを信じますか。私の好きな作家サンテグジュペリはこう言います。「愛とは見つめあうことではなくて、同じ方向を見ることだ」イエスさまはあなたの悩みを知ってくださいます。あなたの重荷を一緒に背負ってくださいます。あなたの罪という重荷はイエスさまだけが解決してくださるのです。

 さあ、クリスマスってあなたにとってどのような意味があるものなのでしょうか。よーく考えてください。そのためにはイエスさまとともに過す時間を必要とします。デボーションのことを言っているのですよ。静かなひとりきりの時間を用意してください。と言ってもイエスさまとふたりきりになります。あなたとイエスさまとの間に愛の関係が生まれます。お互いにかけがえのない間柄になります。ともに過す時間がそうしていってくれます。以下はきつねが星の王子さまに話し掛ける場面です。

 「仲よくなる?」「うん、そうだとっも。おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子とべつに変わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたつていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちはもうおたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとつて、かけがえのないものになるんだよ……」と、キツネがいいました。

「なんだか、話がわかりかけたようだね」王子さまがいいました。(サン=テグジュペリ『星の王子さま』岩波少年文庫)

 あなたがイエスさまと過すために時間を費やすことはあなたとイエスさまのとの間柄が非常に重要なものになることを意味しています。そういう中であなたはクリスマスの意味をしっかりと自分のものにして行くのです。

神を崇める

 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(2:20)

「崇める」とは「正しい意見を言う」ことです。神に対して正しい意見とは?それは「あなたこそ世界の所有者です」「あなたは世界で一番偉い!」「あなたにできないことはありません」「あなたは私を深く愛してくださっています。その愛に勝るものはありません」と表明することです。どうぞこのように告白なさってください。ところでここでとても大切なことを言いましょう。もし、人に「正しい意見を言う」とどのような表現になるでしょうか。「あの人はやさしい」など、でしょうか。確かに。さて私たち人間の見る目はどの程度確かなものなのでしょう。少ない情報でしかも舌足らずで表現してしまうのではありませんか。これは認めざるをえないことですね。ではだれが完全な「正しい味方」ができるのでしょうか。それは神さま。それをご紹介しましょう。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)

 なんとうれしいおことば!ここで注意。これらふたつはワンセット。すなわち神さまに正しい意見を持つときに、同時に私たちは人に対しても正しい意見を持つことができます。この場合、人とはあなたと他者の両方を指しています。こうしてこのみことばを私たちは実行できるようになります。

 へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)

 もう少し分かりやすく現代風に以上のことを説明しましょう。神さまを崇めるとあなたのセルフイメージが良くなるのです。良いセルフイメージを持った人は他者を尊敬することができます。こうしてすばらしい三角関係が完成します。この三角関係の中心にいるあなたはいつも夢を追いかけて前向きで、希望に溢れ、あなたの人生に期待するのです。あなたはあなたの人生に未来に希望を抱いておられますか。夢は大切なものですよ。

 サンタクロースの話

 クリスマスシーズンを迎えると決まって思い出す一つのエピソードがある。現在、小学五年(十二歳)になる長女が二年生のころのことである。学校で友達に”サンタクロースにすてきな人形を頼んだ”と言ったところサンタクロースなんて本当はいないのよ”と一笑にふされ、”あれは、お父さん、お母さんが代わりにやっているのよ”と言われたのだという。そこで、この子は、”今年は、夜中まで起きていて、なんとしてもサンタクロースをその目で確かめたい”のだという。またサンタクロースが親でないことを確かめるために今年からは、自分がサンタさんにお願いしたものは絶対、お父さん、お母さんには教えないのだという。そこで二、三日後、私は、「菜保子、サンタさんはね、子供が寝ないと来ないことになっているんです」といった。また、家内も「お父さん、お母さんからもサンタさんにお願いしておくことになっているので、何を頼んだのか教えてごらん」と口をそろえた。こうして迎えたクリスマスの朝、クリスマスツリーの周りに習い党えたばかりの大字で大体、次のような内容の手紙が置かれてあった。『サンタさん、外はさむいのにとおいくにからたいへんだったでしょう。世界じゅうのこどもがたくさんいるのによくわすれないで一人一人にプレゼントをとどけられますね。らいねんも、よろしくおねがいします。ところでサンタさんはほんとうにいるのですか。また、ブレゼントはなんさいまでもらえるのですか、ここにかいておいてください……」白紙にしておくわけにもいかず、私は”十三才、小学校六年生まで”と書いておいた。そして彼女は今年もプレゼントを楽しみにしている。私がこの話しを持ち出した理由は外でもない、私たちにほ夢が必要であり、とりわけ子供の心の発違においては、楽しい夢の存在が大切な働きをすると信じるからである。心温まる人間関係や豊かな情緒、思いやりや献身、一やさしさなどといった感情は、こうした世界において育つのではあるまいか。(工藤信夫『クリスチャン新聞福音版』)

 あなたに夢をくださるのが神さま。この神さまがあなたをお造りになりました。立派な神さまがお造りになったからこそ、あなたも立派な夢が持てるのです。立派な人生を生きることができるのです。「そうだ!その通り!だ」、そうでしょうか?ならば今、あなたにメリークリスマス!