208 今年、だれがハッピー?
●聖書箇所[詩篇1篇1ー6節]
新年あけましておめでとうございます。今年も良い年であるように心から願っております。今回はだれがハッピーであり得るのか、どのようにしてハッピーであり得るのかを考えて参りましょう。
主のはかりごとに歩む人[1:1b]
「悪者の〜」とありますが、これは一種の修辞法で、あえて否定形によってて強調しています。つまり「善者の〜」、すなわち「主のはかりごとに歩む」ことこそ最高。そうです、主こそ最高の善を行なうお方です。創世記1章を見てみましょうか。
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(1-3)
天地創造の時のことが紹介されていますが、完成なさったあとの主の見方は、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。……(31)
主のなさることはすべて見事に成功に至る、の一言に尽きます。ところであなたは昨年このようなとまどいを覚えたことはなかったでしょうか。始めた時、実にスムーズだった。その後も順調だった。しかしいつのまにか下降線を辿り始めた、しかしそれを止めることもできなかった。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。一つは、私たちは罪の世界の中を生きているということ。ねたみや、意地悪があなたを取り囲みます。あなたの足を引っ張る人がいます。でもこのようなことはいわば当然あることとして生きなければなりません。というのは、もう一度言いますが、あなたの生きている世界は罪の世界であるから。罪を持った人々に囲まれているから。ならば最終的な成功をおさめることは期待できないのでしょうか?ハッピーにはなれないのでしょうか?いいえ、なれます。何がそのために必要でしょうか。すばらしい文章を目にしました。
あなたは後味で勝負できるか
あるレストランのシェフが、味には「前味」「中味」「後味」があると言つた。「前味」とは、なんと感じのよい店だろう、一度入ってみようと思わせる味である。「中味」とは、応対も含めた「おいしかった」と満足していただく味である。「後味」とは、お店を出る時に、またこの店に来てみたいと思っていただく味である。どんな商売や仕事であろうと、この三つの味が揃つて初めて、心の籠ったもつた仕事、繁盛する企業になると思う。私の経験から言うと、「前味」「中味」に気を配っているお店や企業は沢山ある。「前味」は、店舗の設備(ハード)などでつくることができる。「中味」も、技術的な問題(ソフト)で、その道で、一生懸命に努力すれば可能である。難しいのは「後味」だ。お店に入ってしまえば、買ってもらえば事は済んだとばかりに、「後味」の悪い思いをすることがよくある。それでは何事も長続きしない。「後味」は、お客様の後ろ姿に感謝する心掛け(ハート)にあると思う。結局は、ハードウエアとソフトウエアとハートウエアの三位一体が大切である。(太田典生『毎朝「一話」出勤前に読む本』三笠書房)
最後のハートウエアが大切というわけですが、考えさせられる話です。私も私の教会において、「前味」「中味」「後味」、いずれも良いものを提供しているかと問われたら自信がありません。しかし、しかしですよ。ここにこそ主の出番があるのではないでしょうか。主に登場していただく。そのためには私たちは一層謙虚でなければなりません。自我を十字架にかけねばなりません。この場合、自我とは「俺が、俺が」です。「私がスポットライトを浴びなければ」、「私が中心でなければ」という思いです。これを十字架にかけるのです。「主が栄光をお受けになればいい」、「他の人の功績になればいい」という心。こういう心のときに主は働き、あなたはあなた自身が始めたことを成功させて、ハッピーな気分になれるのです。
聖い道を歩む人[1:1c]
「罪人の道に立たず」とありますが、罪人の反対は聖人(カトリック教会の使用法とは異なります。聖書ではすべてのクリスチャンに聖人であることを期待しています)です。主がお嫌いになることは、習慣的に罪を犯すことです。というのは私たちは人間である限り、この地上に生きている限り、罪を犯すことは避けられないからです。問題は罪を犯し続けるかどうかです。犯し続けることは避けなければなりません。「でも実際は難しい!」というのが本音でしょう。妬み続ける、意地悪し続ける、悪口を言い続けるなどなど、なかなか、止めようと思っても自分が言うことを聞かない、というのが現状。なんと悲しいことでしょうか。しかしここで質問があります。あなたは以上のことを認めますか?つまり自分の中に聖さがないことを。聖書の勧めはあなたが聖くあることです。さあ、ではどのようにして聖さを得て行くことができるでしょうか。まず悔い改めることは必要です。一つ、一つの、示された罪を悔い改めることが必要です。ここでもう一つの提案があります。それはミッションを持つこと。使命と言ってもいいでしょう。第二次世界大戦中、ドイツ軍の捕虜収容所にいたビクター・フランクルは未来に絶望した二人の囚人仲間からこう話を聞きます。「こう死にたい。自殺する」と。彼はこう応答します。「あなたはもう人生に何の期待もないと言う。でも人生が、あるいは何かがあなたに期待していることを忘れないでください。それらはあなたに発見されるのを待っているのです」と。「そうだ、国にはかわいい子どもが私の帰りを待っている」、「私は著書を未完成のままで家を出て来た。ぜひとも完成させなければ」、こうして二人は自殺を思いとどまりました。二人ともミッションを発見しました。ミッションに基づき生きるときに右にも左にもそれないで生きて行くことができるのです。もしあなたが聖い道を歩みたいと願えばそのミッションがそれを守ってくれるのです。ミッションはあなたが造り出すものではありません。あなたに発見させるのを待っています。そもそも神さまがお造りになったものです。さあ、あなたのミッションは何でしょうか?
私がことさらにそう思うのは、ある日のTDLでの体験による。その日私は平日の空いているであろう日を狙ってTDLに来ていた。しかし意に反してその日はまるで日曜日かと思うほどの大変な混み方だった。あまりの人の多さに多少疲れた私は、飲み物とスナックを買い込んで池のほとりのイスに腰掛けていた。と、目の前のごみ箱を片づけに一人の清掃係がやって来て、新しいごみ袋と交換を始めた。私はその彼に何気なく「いやあ、今日はずいぶん人出が多いねえ。空いていると思って来たのだけれどあてがはずれてしまったよ」と声をかけてみた。作業中の清掃係だ。来場客のサービス係ではない。私の方を振り返り「そうですね」とでも答えれば合格点だ。ところがその彼の反応は私の想像を超えていた。彼は手を休め私の方を振り向くとにこやかに「そうですね。今日は実は香港からの旅行客が多いのです。この時期のこの曜日は朝香港からの便が成田に着きますから、平日ですが実は非常に混む日なのです。空いた日をご希望でしたら、しばらくこの曜日ははずした方がいいですよ」と答えたのだ。十分に合格点だ。しかしまだ続きがあった。彼はさらににこやかな表情になると「でもお客様、今日はラッキーです。本当はご存じのようにこの曜日は通常、夜のパレードはないのですが、今日は香港からの旅行者がとりわけ多いので特別に夜のパレードがあるのですよ」と続けたのだ。あてのはずれた混み具合に実はいささかアンラッキーな気分だった私の心は、このさわやかな彼の応対と、彼によって伝えられたスペシャルな情報によって一気に晴れた。さすがはTDLである。だがここでさらに大事なことは彼は何者かということだ。彼は何者か。彼はミッキーマウスではない。場内の清掃係だ。』だが私は忘れない。私がディズニーランドでこれまで受けた数々の素晴らしいサービスの中で、この彼のサーヒスがまぎれもなく最高だった。彼は少なくとも私にとって、ミッキーマウス以上にディズニーランドそのものだったのだ。(小阪裕司『仕事ごころにスイッチを』フォレスト出版)
私がなぜこの文章をご紹介したか、お分かりでしょうか。「私のタレントは小さい、私には何のタレントもない」などと弁明する人が少なくないからです。神さまがあなたに人生を下さった以上、同時にミッションもくださっているのです。どうかそれを発見してください。今は「子育て」があなたのミッションかも知れません。今は「勉強する」ことがあなたのミッションかも知れません。ちなみに私は「人に仕えること」をミッションとしています。勝利教会は『癒しと寛ぎの時空間』をキャッチフレーズとして来ていますが、さらに新しいものを加えようと考えています。『愛とロマンに生きる』です。つまり冒険です。私は教会員が新しい何か、すなわち自分も喜び、周囲の人々も喜んでくれる何か、このようなものは当然神さまも喜んで下さるはずですし、ゆえに成功するでしょう。だれもがハッピーになれるのです。ゆえに『愛とロマンに生きる』、すなわち冒険をしたいと願う人を応援させてもらいたい、というのが私のスタンスです。新しいアイディアを歓迎しています。当然ですが、私のミッションはその基礎に福音を置いています。福音を通じて『愛とロマンに生きる』機会を会員に提供したいのです。それはとりもなおさず、会員の周囲の人々にも愛とロマンを提供すると信じます。それには同時に私たちに進むべき道、すなわち聖い道からそれないように守る力が伴います。愛とロマンに燃えている者が他の何の悪いことをするのでしょうか。主イエスさまは救い主として明確にミッションを意識しておられました。それゆえにサタンに負けませんでした。いつも聖い道を歩まれました。
人を尊敬する人[1:1d]
「あざける」人は他者を尊敬していないからそうするのです。他者を尊敬する人は人をほめます。長所を指摘し、その成長と発展とを喜びます。「良かったねえー」と成功を一緒に喜びます。人の気持ちを汲み取ります。次の詩は子ども向けのものですが、大人同士にも当てはまるのではないでしょうか。
南力リフォルニア大字客員教授で能カ開発研究家のウェイトリ一は、次のような詩を作りました。
「耳を傾けよう」
今日、少し耳を傾けよう 子どもが何か言おうとしている
今日、聞いてあけよう あなたがどんなに忙しくても
そうでないといつか子どもはあなたの話を聞こうとしなくなる
今日、子どもの声に耳を傾けよう
どんな些細な自慢話も、どんなにささやかな行ないもほめてあげよう
おしゃべりを笑顔で聞いて、いっしょに大笑いしてあげよう
今日、聞いてあげよう 子どもに何があったのか
そして言ってあげよう「愛しているよ」と
叱ったあとは必ず抱きしめてやり「大丈夫だよ」と言ってあげよう
子どもの悪い点ばかりを責めていると いじけた人問になってしまう
でも、「君が家族の誇りたよ」と言ってやれば 子どもは自信を持って育つ
今日、少し耳を傾けよう 子どもが言おうとしていることに
今日、聞いていてあげよう あなたがどんなに忙しくても
そうすれば、やがて子どももあなたの話を聞きに戻って来る(『クレイ』2006.6)
すばらしい詩ではありませんか。人の気持ちを汲むことができたら、なんとも、これもすばらしいことではありませんか。
他者を尊敬する人は尊敬されます。何かしようと計画しているときに応援に駆け付けてくれます。困難なときに助けてくれます。それを詩篇の作者はこう言います。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(37:5)
主があなたを助ける時、多くは人々をあなたのもとに送るという方法を採ります。ではだれがあなたのもとに送られるかと言えば、あなたを尊敬している人です。あなたを尊敬している人はすでにあなたによって尊敬されている人です。まさに与える人は与えられるのです。他者を尊敬するあなたは多くの人から尊敬され、そればかりでなく必要な助けを彼らから与えられ、成功します。だからハッピーになれます。
聖書に親しむ人[1:2]
聖書の中にはたくさんのアイディアがあります。あなたの心を楽しませ、未来に希望を持たせてくれます。第一の愛読書にすることをお勧めします。聖書のみことばは聖霊によって書かれたので、聖霊によってその意味を私たちは正確に理解することができます。そうして聖霊に導かれたときに、そのみことばは巨大な力を発揮します。
『柔和な憐れみ』という映画があります。そこでは正反対の二人が結婚生活をしている様子が描かれています。Macは酒との戦いに負けた男で、妻は妊娠中に夫をベトナム戦争で失った未亡人です。彼女は貞淑な女性で夫を神さまが救ってくださると信じています。彼はいつものように酒を買って夜遅く家に帰って来ます。その時、彼は妻が自分を励ますために一生懸命に聖句を暗唱しているのを見ます。このとき彼は変わります。私たちはあわれみの人にならなければなりません。聖書は神さまの書かれた作品です。作品には著者の人格が反映されます。あなたが聖書に親しむとき、あなたには神さまのご人格が移って行きます。どうかすなおに読んでみてください。聖書はあなたへの神さまからのラブレターです。神さまはあなたを愛しておられます。そうしてあなたも愛します。相思相愛の中であなたは変えられて行きます。そうです。相思相愛の中にいるあなた、それはハッピーなあなたではないでしょうか。今年、昨年にも増してあなたがハッピーであることを祈っています。