214 幸福は家庭から

●聖書箇所[創世記3章1ー6節、エペソ人への手紙5章22ー33節] 

 幸福な人は幸福な家庭から生まれます。今回は幸福な家庭を作るためのレシピを学びましょう。

情報

 正しい情報を得なければなりません。何について?もちろん家庭についてです。では何から?それが冒頭にあげた二ケ所です。創世記から本来の、造られた時の家庭の原型。そして家庭の理想的なあり方についての説明書きはエペソ人への手紙から。もし家庭についての正しい情報が確保されてあれば、幸福な家庭を得て行くことに成功する確立は高いでしょう。やみくもに進めば良いというものでもありません、家を出たけれどもどこへ行くんだっけ、では困ります。得るべき情報は特にふたつ。
 一つは家庭とは何か。それは神からのプレゼント。それぞれ配偶者が与えられてこそ存在しうるもの。したがった夫も妻も相手に選んでいただいたという意識が求められます。私は結婚式の司式をするのが大好きです。その中で私がする『夫と妻のための祈り』があります。「世界には多くの男性がいる中で、よくぞこの私を選んでくださった」「世界には多くの女性がいる中で、よくぞこの私を選んでくださった」とそれぞれに意識するように促します。決して、「私はあなたを選んでやった!!」ではありません。そのように考えるのは間違っています。「選ばれた」意識こそが「与えられた」意識であり、感謝の気持ちの起源です。私たちには感謝の気持ちが必要です。「与えられて当たり前、してくれて当たり前」などと考えていたら、それは恐ろしいことです。ボタンのかけ違えという言い方があります。特に男子学生服はその典型です。一番上のボタンをかけ違えてしまうと最後迄間違い。直すのには、はじめから全部をかけ直さなければなりません。まず第一に私たちは神さまから、家庭をはじめ教会などすべてのものをいただいていることを覚えましょう。
 もう一つは家庭作りが失敗する時はいつ?という質問への答。さあ、いつ、どんな場合でしょうか。それは互いに助け合わない時。創世記3章1ー6節を見てみましょう。

 さて、……蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 以上の会話がなされている時、夫アダムが妻エヴァの近くにいることは明らかです。でも彼は一言も発していません。

 6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、

 6節で、彼女はついに食べました。でも彼は「止めなさい」と言いもしなかったし、止めもしなかった。そればかりかこともあろうに一緒に食べてしまってもいるのです。あーあ、といった感じでしょうか。

 6いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 自分の妻である彼女に対して何の責任も果たさないばかりか、自ら食べてしまいます。ここでアダムを一方的に責めているのではありません。エヴァも必要に応じて聞くべきであったし、アダムもこれから何が起きるだろうかよーく考えるべきでした。夫はリーダーであり、妻はヘルパー(2:20)。これは聖書の考え方。リーダーは一人ではリーダー足り得ず、ヘルパーもリーダーいずして存在し得ません。互いに依存関係や補完関係にあり、したがって助け合わなければならないのに、互いに何の責任も果たしていません。こうして家庭作りは失敗するのです。こうして一つの重要なことが分かります。それは家庭は人間関係であり、ゆえに家庭作りには人間関係の技術が必要であること。そばにいても役立たずの好例がここにありましたが、一般に人間関係において、こじれる時はあまりにも近付き過ぎた時(具体的には120センチメートル以内)であり、対策としては互いに距離を置く(まずは2メートルにします。ともに心理学上の見解)のが良いのです。このようなことを練習させてもらえる場が教会、すなわち神の家庭です。互いに練習、失敗して「ごめんなさい」と言いつつ、互いに技術を磨きます。自動車教習所のようなものです。教会は大切な、かつありがたい存在と言わなければなりません。

基準

 どのような社会にも基準はあります。日本には日本国憲法があり、各種の法律があります。ではあなたの人生には、家庭にはどのような基準が用意されていますか。それは「神のことば」、聖書でなければなりません。なぜなら世界のすべては、この中にはもちろん家庭も含まれています、神の手により造られたのであり、聖書はその解説書です。上手に作り上げるためにも、万が一故障したときにもこの解説書は有用かつ完璧です。もし基準がないと社会は混乱します。たとえば「夫と妻、どちらが偉い?」という質問があります。男女同権が叫ばれる時代です。差別禁止の時代です。従来通り「夫が偉い!」とばかり言ってはいられない雰囲気ですね。ダイアナ妃は結婚式のときに「夫に従う」という部分を削ったと言われています。もし「神のことば」に変更を加えたとすれば恐ろしいことです。

 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22:18-19)

 さて話をもとに戻して、「夫と妻、あるいは男と女、どちらが偉い?」。創世記2章21節を見ますと、男のあばら骨の一部から女が作られています。これはいったいどういう意味でしょうか。頭の骨からであったら、女はどのような立場になり、男に対してどのように振る舞うでしょうか?きっと男に対してえばり、かつ支配しようとするのでしょう。ではかかとの骨からだったら?きっと男にいつも踏み付けられてばかり。あばら骨から、それは心の近くであり、対等を意味します。希望、夢、誠実さの共有を示唆しています。運命共同体であり、愛し合う関係です。決して利益によって結びついている間柄ではありません。つまり、「どっちが偉い?」という質問はナンセンスと言わなければなりません。では具体的に聖書と言う基準の書は家庭の秩序についてどのように教えているのでしょうか。

1)夫は妻を愛する。(エペソ5:24,25)

 愛された人の心は開かれます。北風と太陽の話を思い出します。子どもがおじいちゃんの家に遊びに行きました。都会っ子ですから、裏山で見つけた亀の子が珍しくて、捕まえて来て、大声で叫んだり、甲羅を棒で叩いたりしていました。返って首を引っ込めるばっかりでした。ちょうどこれと同じ。きびしく追求したり、叱ったりしても心は開かれません。心が閉じられたままであればそこには前向きのものはあり得ません。愛こそがすべての良いものを産み出します。夫は妻にはきびしくしないで愛すべきです。

2)妻は夫に従う。(エペソ5:22)

 妻は夫に何か言われたら、「ハイッ!」と応えましょう。ある新婦と司式者である牧師との間に次のような会話がありました。「夫は妻を愛するだけでいいのに、妻は夫に従わなければならない、これは不平等です」「もしこの基準に賛成できないのであれば私は司式をしません」。彼女には誤解があります。従うことの方が愛することより難しいという誤解です。全く反対です。次のことばを見てください。

 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(同5:25)

 命を捨てることを愛と呼ぶ、と実に明解です。とすると決して簡単なことではありません。しかし少なくとも愛し、従い、敬うことを目標に掲げる二人の間にはすばらしい何かがあるはずです。そのすばらしい何かこそがは家庭にあたたかさや思いやりをもたらし、幸せな子どもを生み、育てて行くのです。現代、日本においては家庭に危機が訪れているのではないでしょうか。真夜中に女子中学生たちが繁華街にたむろしています。きっと家庭が温かくないのです。

礼儀

 これは夫と妻とが互いに尊敬することの勧めです。エペソ人への手紙5章22ー33節はこれを主張しています。尊敬する、とは一つの心の癖です。だれにも心の癖があり、これは子どもの頃から親によって育まれます。たとえば、何かを人からもらったとしましょう。ほんとうにうれしそうに「ありがとう!」と応じる人がいます。これは癖です。反対に「なんだ、こんなもの……」と反応する人もいますが、これも癖。癖は強情なもので変更することは難しいものです。たとえば、ある一つのものをもらって「なんだ、これだけッ」と文句を言うので、もう一つ追加してあげれば文句を言わないかと思えば、そんなことはありません。相変わらず「なんだ、これだけッ」。「ありがとう!」と言って喜ぶ人は、もらう分が少なくても「ありがとう!」ってうれしそうにします。だからこれらは心の癖なのです。互いに尊敬する癖があると申し分ありません。良い家庭が出来ます。それには

1)神を見上げる。見上げれば「私はあなたを愛しているよ!」という神さまのあたたかいまなざしに文字どおりあなたの心は温まります。そうすれば「金持ち喧嘩せず!!」心がピリピリしている人が喧嘩をします。イライラしている人が喧嘩します。神を見上げている人が他者を尊敬するのは決して難しいことではありません。

2)常に悔い改める。なぜ?互いに罪を内に持っているから。

 先日こういう記事を目にしました。

 トヨタ自動車の張富土夫社長は「今、トヨタを見る世の中の目は厳しくなっている」と気遣う。同社は一兆円を超す連結経常利益を上げて絶好調。長期停滞にあえぐ日本経済とは対照的である。だからこそなのだ。社長あてに苦惰の手紙がいろいろ来る。「トヨタの社員が電車の座席にだらしない座り方をしていた」「車を買っても、お宅の社員はお礼を満足に言わない」等々。ほとんどは、さ細なことのように思える。だが「注目されているから、普通なら問題になりそつにないことでも許されない」と張杜長は考える。(『日本経済新聞』2003.2.2)

 カンバン方式は世界でも有名なビジネスモデルです。経営者のみならず、労働者も血の滲むような努力を積み重ねて来た結果、前期の利益一兆円、そして多分今期は一兆五千億円。当然の報いなのです。でも罪の世界からの反応はねたみであり、やっかみです。罪があるから、それが表に出る。それを家庭においても心すべきです。夫も妻も罪人。完全な人間はいない。罪を犯さない人間はいないのです。相手を責めるよりは自分が悔い改めるべきです。それによって心の癖を神に直していただき、行動を変化させるべきです。
 パトロールをしていたおまわりさんが商店街に来たところ一軒のお店のドアが開いています。犯罪を直感した彼はピストルを構え、いっきに開いたドアから入りました。なんと目の前に体の大きい、ずんぐりした、こわもての男が今にも飛び掛ろうとしています。驚きました。しかし一瞬冷静になった彼はそれが鏡に写った自分であることに気がつきました。私たちはつい目の前の人を責めたくなりますが、自らを顧みたいものです。

 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

3)共通の目標を持つ。

 同じ方向を向くことができます。できれば他者を喜ばせるようなテーマを用意すると良いでしょう。自分が、あるいは自分たちが幸福になろうなろうとばかり考えているから、幸福になれません。もらおうもらおうとばかり考えているからもらえません。あげればいいのです。与える者は受けます。ともに祈り考えてみてください。私たちの家庭は何を与えることができるのだろうか、と。こういうことを考えている家庭、こういうことを話題にしている家庭に暗さはありません。冷たさもありません。子どもだって帰って来ることが楽しみになります。