216 聖書に見る危機管理
聖書箇所[箴言4章23節]
私たちはだれでも良いものを得たいと願っています。積極的であなたを愛してくださる神さまもそれを大変喜んでくださっているでしょう。ただしその途中で何が起きるかが分からない、というのは罪の世界に私たちは生活しているから。もうちょっとというところで、誰かが何かが邪魔をする、ということがあり得るのです。そう言えば、そうです、そういったことがあるのです。時、あたかもテロの時代!今回は聖書に見る危機管理という題です。危機に備え、最高に祝福された人生を生きるように備えをしましょう。心構えです。危機管理の書である聖書はこう言います。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)
礼拝すること
どんなことがあっても礼拝することをやめてはいけません。ここで言う礼拝は礼拝のプログラムに参加することを指しているのではありません。礼拝の心です。もちろんその心は実際の礼拝プログラムへの参加となって表れるはずです。
三人の例を取り上げてみましょう。
まずはノア。彼は洪水という危機を前に(もちろん彼はまだ洪水を見てはいない)、「主の心にかなう人」(創世6:8)と評価されています。それは「主の命じられた通りに(同6:22)」箱舟作りを実行したことでも分かります。寸分違わず、言われた通りに。そしてその危機を乗り越えた後に、再ぴ家族と共に主を礼拝しました(同8:18-20)。
イスラエルの祖、アブラハムに襲った危機は彼の一人息子イサクを犠牲として神様に捧げるということでした(同22:1〕。その危機に対してアプラハムは主に対する忠実さを持って応えます(22:12)。ゆえに彼は最大級の祝福を神様から受けます。与える者は実際受けるのです。イスラエルの城壁を再建したネヘミヤも、祈ることをしつつ、自ら状況を調査分析をすることを怠らりませんでした。同胞の訴えに耳を傾けつつ、やって来るかも知れない外敵に対して、片手に鍬、もう一方の手には槍を握りながら仕事を進めていきました(ネヘミヤ4:17〕。捕囚後のイスラエルの危機管理は、外面的には城壁の修復ですが、内面的にはイスラエルの民の宗教改革、すなわち心を見張ることでした。
このように聖書は、どのような時も神を礼拝するという態度を持って、家族・民族を守るべく危機を予防し、また危機に対応した。私たちにとって大いに参考になる。
礼拝することを忘れない、という助言を生かす道においては二つのことを強調することができます。一つはみことばを大切にするということ。サムエルは「しもべ、ここにおります。主よ、語りたまえ!」と応答しました。私たちはいかがでしょうか。「私は語る。主よ聞きたまえ!」ではないことを祈ります。近頃「預言」なるものが流行っています。私は彼らの多くに不信感を持っています。なぜなら「主は語った」という内容がちっとも実現しないからです。この場合、聖書はなんと言っているでしょうか。
ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。(申命記18:20-22)
その「預言」なるものが実現しなかったら、つまり主は実はおっしゃってない、のですが、私の知る限り、責任を取った人は皆無です。少なくとも旧約聖書においては責任の取り方は死刑でした。それはそうでしょう。みことばの重みを考えれば当然!人間社会においても「Aさんがこう言ってました」とBさんが伝えたけれども、実際はそのようには発言していないとすれば、信用問題です。名誉毀損です。犯罪です。ノアもアブラハムもエレミヤもみことばへの態度は立派です。私たちも削ったり、付け加えたりしないでそのまま受け取りたいものです。もう一つは神を感じること。礼拝の時や、祈りの時や、賛美の時などなど。「今、私の中に主イエスさまが生きておられる!」という感じ。あなたはいかがですか。これは宝物。みことばを大事にし、神を感じるとき、そこには真の礼拝があります。真の礼拝を捧げる者を主は責任をもって守ります。
律法に従うこと
聖書が危機管理の書物であると言えるのは、次の二種類の警告文がその中には存在するからです。「〜〜してはならない」「〜〜しなければならない」。
それにしても私たちは従うことが苦手ですね。こういう話があります。時は紀元前300年ごろ、かのアレキサンター大王は、その強大な軍事力によって連戦連勝、多くの国々を手中に収めて行きました。ある日、強カな城壁によって立て籠る城を攻め落そうとしましたが、アレキサンダーは使いをやり、こう言わせました。「ただちに降伏せよ!」。ところが城主は「なぜ私がお前ごときに隆伏しなければならないのか。我が軍は実に強力なのだ!」「そうか、それなら降参すぺきわけをご覧に入れよう」と言って、アレキサンダーは、兵士らを落差が30メートル以上ある絶壁に向い、一列に並ばせたあと、「前進!」と命令しました。城主とその家臣たちにとっては信じられない光景でした。膝が震えるほどの衝撃でした。一人ずつ、アレキサンダーの兵士たちは、ためらいもなく前進し、絶壁から落ちていったのです。膝が震えるほどの衝撃でした。こうして1O人が死んだのち、アレキサンダーは残りの兵士たちを停止させ退却させました。城主と軍人らは、その場でアレキサンダー大王に投隆しました。私はこの話を知って、主イエスさまの命令で即死ぬことができるだろうかと考えました。あなたはいかがですか。さて律法と言えば、そのエッセンスが十戒です。出エジプト記20章を参照してください。
1あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
3あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
4安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
5あなたの父と母を敬え。
6殺してはならない。
7姦淫してはならない。
8盗んではならない。
9あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
さてこれらを私たちは守らなければならないのですが、、主イエスさまは山上の説教においてこれを心の問題として取り扱われました。
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22-48)
憎んだだけで殺人罪だというのです。これはこれは大変!そこで
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)
実際、カインは弟アベルを殺しましたが、何が原因でしょうか。ねたみです。ねたみは明らかに心の問題です。ではこころを見張るには、すなわち律法を守るにはどうしたらいいのでしょうか。それはあなたの中に住む聖霊さまのお力を活用することです。
アメリカのテレビ番組に『オープラ・ウィンフリー・ショー』があります。あるとき二人の女性がゲストとして出演しました。一人はAという名の女性。もう一人はBという名の女性で、二人は大の仲良しというふれこみでした。話を進み、驚くべき事実がわかりました。Bは以前、アル中と麻薬中毒であったというのです。そんなある日、飲酒運転中にかわいい女の子をひき殺してしまったのです。その女の子の母親が隣にいるAでした。司会者は驚き静まりかえった聴衆に問いました。「もし、たった一人の、世界で最も大切なあなたの娘が、こんなひどい目に遭わされたら、あなたはどうしますか?」。さらに話は続きました。Aは自分の娘を殺したBを赦したのです。そればかりか愛しました。事故を起こしたBには三人の子どもがいましたが、Aは、Bの娘たちの面倒を見、アルコール中毒と麻薬中毒から立ち直ることができるよう何年も支え続けました。そして、ついに見事に立ち直ったのです。今二人は大の仲良しです。スタジオはざわめき、司会者は尋ねます。「どのようにして、そんなひどいこことをした人を赦し、愛することができたのですか?」。Aは答えました。「私にはできないこと、でも私に対して同じことをしてくださった方、赦してくださったお方がおられます。私を神様は無条件に赦し、愛してくれました。だから私もだれかを赦し、愛することができました」。Aの中に働いた聖霊さまのみわざです。ハレルヤ!
再臨に備えること
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(黙示録3:3)
あなたは主イエスさまの再臨を信じますか?携挙を信じますか。この世界は罪に汚染されています。この世界を終わらせ、全く新しい世界を創始するというご計画が進んでいます。天国は実在します。私たちのついの住処です。病気もない、苦痛もない、憎しみもない、一切の悪がない世界がまもなく始まるのです。あなたにはこの世界がやって来ることが楽しみですか?それは突然やって来ます。だから危機です。あなたにはそのための備えがありますか。備えの仕方は神を常に見ていること。神こそが常に正しくあなたを評価し、あなたを真に祝福し、あなたの利益を保証します。だから神だけを見て生きるべきです。他にはどのような生き方があるでしょうか。人を見る、という生き方があります。それはどういうことでしょうか。あの人がああ言った、ああ行動した、といつも気にしている生活の仕方です。たとえばあの人があの程度のことをしたのであれば、私はこの程度であれば十分。こんな態度です。まるであの人はあなたの神みたい。あなたは神がこう言った、こうした、ということに焦点をあてて生活すべきです。これが神を見ることの実際です。神を見ている者にはもはや危機は危機ではありません。何が起きても新しい祝福への入口以外の何ものでもありません。再臨こそ人類におけるにおける最大の危機であり、しっかりと主イエスさまの十字架と復活を信じ、それに備えなければなりません。あなたの危機管理は万全でしょうか。