220 狭い門から?なぜ?

  聖書箇所[マタイの福音書7章13節] 

 狭い門から入りなさい、と主は言われます。なぜ? 狭い門は入るのが難しいではありませんか。そうです。難しい、でも祝福が大きいのです。だからそう勧められています。難しさとその祝福とを三つ学んで参りましょう。

温かい交わり

 温かい交わりを一回だけ持つのは難しくはありませんね。いや、しばらく続けるのも決して難しくはありません。でも長ーく続けるのは難しいものです。門について聖書が語っていること、第一は次の箇所で分かります。

 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。(創世記19:1)

 続けて次の文章を見ると事情が分かります。ロトはソドムにおいてよそ者であり、同じ立場の者たちに親切にしようとしています。

 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。(創世記19:2-3)

 本来、門は温かさとやさしさとを表現する場であったのです。

 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲み(門)のうちにいる在留異国人も。――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。(申命記5:14)

 これは私の個人的な意見ですが、日本人はもう少し外国人に対して親切でなければならないと考えています。外国人に対してのみならず、国内でもよそ者への態度は冷たいものがあります。私が以前ある所に教会を建てたところ、会堂の正面に壊れたトラックの荷台が置かれてありました。ゴミ箱として使おうという地域の人々の考えでした。地域の世話役の家を尋ねて事情を聞きましたが、聞く耳をいっさい持たず、「みんなでお宅の家の前をゴミ箱にすることに決めた」の一辺倒でした。とても悲しい気持ちになったことをいまでも覚えています。特に外国から来た人たちは事情も分からず心細い思いをしているはずです。私たちは親切にすべきです。聖書はそれを教えています。

 在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。(出エジプト記22:21)

 次は未亡人と孤児に対して

 すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。(出エジプト記22:22-23)

 貧民に対して

 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。(出エジプト記22:25-26)

 もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。(申命記24:12-15)

 温かい交わりこそが人を救います。その温かさ、本物は神さまのうちに見られるものです。イエスさまを私たちの世界に派遣してくださって、私たちが罪で苦しんでいるのを解決しようとイエスさまの命を提供してくださいました。命、それは提供できるものとしては最高のものです。たとえ最高のものでなくても、提供される、つまり与えられることに私たちはすなおに反応するものです。一人の女性が精神病になり、病院のベッドの上でふとんを顔の上までかぶって、誰とも口をきかなくなりました。女医さんが病室を訪問し、毎日一定時間彼女のベッドのわきに座りました。彼女はいっこうに喋りません。でもやさしく語り続けました。何週間かして、ふとんを顎までずらし、彼女はついに口を開きました。「あなたは私のお姉さん?」こうして少しずつ快方へ向って行きました。温かさとは愛です。だから人を救います。私たちは自分の中にある、温かさの不足に気がつかねばなりません。イエスさまを心の中に迎えるとき、それは起こります。それが私たちの中における、真の温かさのスタートとなります。

神の権威に従うこと

 「ハイッ」と返事ができたらすばらしいのです。しかし、これが難しい!観念的にはなんとでも言えます。「どんな人にも親切にしたいですねー、そうしますか?」「ハイッ」 では、かつてあなたにひどい意地悪をした人が目の前に表れた時はどうでしょう?

 門、それは権威のシンボルです。しかも神の権威です。神の権威ですから、従わなければなりません。

 これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令――おきてと定め――である。……それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、……私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。……あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:1-9)
 夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。(箴言31:23)

 門とは裁判がなされ、正義が告げられ、神の権威が示される場所であったのです。

 あなたが神の権威にすなおに従うとき、あなたはあなたの人生におけるもっとも大きな問題を解決することができます。それは罪という問題です。人には罪があります。これを解決しないから一向に不幸はなくなりません。罪の問題の解決はだれにとっても急務なのです。エインはドイツ医学界のみならず、世界中に影響を与えた人です。ある日の日記にこうありました。「ある晩、私はヘトヘトになってベッドに体を横たえていた。その時電話が鳴った。子どもが病気で往診してほしいとのことだった。私は家の者に頼んで断ってもらった。しかしベッドの上で心も体も決して休むことはできなかった。私の良心は何かを叫んでいた。ついにベッドから飛び起きて子どもの家に向った」

 この日記には続きがあります。「一時間だけ楽しみたいのなら、好きなものを食べたらいい。二、三時間楽しみたいのなら映画館に行ったらいい。四、五日間楽しみたいのなら仲の良い友人と旅行に行ったらいい。一年間楽しみたいのなら家を新築してみたらいい。でも一生楽しみたいのなら常に良心の声を聞かなければならない」

 幸い、主イエスさまを信じる者には、感度の優れた良心が備わっています。と言うより感度を上げてもらったのです。神さまの権威に従う、それは生まれながらの人間には難しい、いや不可能ですが、主イエスさまの霊、すなわち聖霊さまが助けます。あなたが良心の声を聞いたときに、即座に「ハイッ、そうします!」と言えば。不思議、あーら不思議、あなたには、その正しいことが実行ができます。

他の人たちと異なっていること

 テキストの背景はユダヤです。この地では外敵からの侵入を防ぐために厚い大きな城壁を築いたのですが、出入りするためには大きな、広い門が作られてありました。しかし脇に小さな門も用意されていました。いわゆる通用門ですが、日本でもお馴染みですね。これが狭い門です。障害者や伝染病に罹った人たちが使用しました。広い門を通る多くの人たちからは、彼らは異なる人たちと見られていました。「異なる」を新約聖書のギリシア語ではハギオスと言います。転じて「聖い」となりましたが、本来の意味は「異なる」です。他者と「異なる」ことに聖書は価値を認めます。あなたはいかがですか。このような考えに馴染んでいますか。「私は私。私はあなたではない。私とあなたが異なるのは当然!」ちょうど好きな食べ物が人により異なるのと同じ。趣味も違えば、顔かたちも違う。当然!私は以前会社に勤めていた頃、帰宅直前赤提灯に誘われました。でも断りました。本来好きでなかったし、クリスチャンにもなっていたし、そして夜学に通っていたのです。当時こういう言い方がなされていました。「会社の勤務時間が終わる午後五時以降が人生を決める!」私は他の多くの人たちとは異なった道を選びました。自分に投資しました。時間とお金を自分の成長のために費やしました。眠いし、友人は「付き合いが悪い!」と言うし、でも私は私の人生を、「酒と他人の悪口を言う人生」にはしたくなかったのです。今は当時そのようにできたことを非常に深く神さまに感謝しています。ちょっとでいいのです。他の人と異なることに意味があります。そこにあなたがいます。世界でたった一人のあなたが。かけがえのないあなたが。これを「世の光、地の塩」と言います。もしあなたがクリスチャンなら、友人から「へえー、やっぱり!あなたはクリスチャンだと前から思ってたー」と言われる、それは、あなたが他の人と異なっていることが認められてこそのはずです。先日新聞で「子どもに対して無神経な大人の言動」という記事を目にしました。

親   「何回言えばわかるのよ!ママ、あなたのことなんか大嫌い!」「こんなに苦労するんなら、産むんじゃなかったわ」

先生 「お前、耳くっついているのか!ちゃんと聞いておけ!」「兄貴もワルだったけど、お前もダメなやつだなあ」

 確かに叱らなければならない場面はあります。でも上のものとはもうちょっと違う叱り方があってもいいのではないでしょうか。私たち、すべての大人が取り組むべき課題ですね。

 一つのことだけ覚えてください。神さまはあなたを「世の光、地の塩」(マタイ5:14)としてこの世界に送り込んでくださったことを。