223 イエスと姦淫の女

  聖書箇所[ヨハネの福音書21ー27章] 

 人はだれでも人間関係の中で生活しています。すると幸福であるかどうかはこの人間関係に左右されることは間違いがありません。そこで今回はその人間関係を良好なものにするために一つの提案があります。それは自分を魅力的な人間にするというもの。このテーマでご一緒に考えましょう。というのは魅力的な人間の周囲には魅力的な人間が集まって来るからです。ちょうど蟻が砂糖に群がるように。それにしても蟻はどのようにして砂糖に群がるのでしょうか。私たちには不思議でたまりません。それと同様に、あの人の周囲にはなぜあんなに良い人が集まって来るんだろうかと首を傾げてしまいます。一つ明らかなことは、魅力的な人の周囲には魅力的な人が集まって来るという事実です。今回選んだ聖書箇所は有名な姦淫の女の登場する場面です、イエスさまを中心に彼女と彼女を追求する指導者たちが登場します。人は通常、一人でぽつんといて、その人間性を表現することはないようです。でも人とのかかわりが生じると、本性を明らかにします。ここではイエスさまのすばらしい人柄が明々白々です。その魅力が余すところなく示されています。イエスさまの魅力に、いくつかのキーワードを手がかりに迫りましょう。

自分を責めることをやめる
 
 あなたは自分を責めたりしてはいませんか?「私はダメな人間だ!」「私は愚か者だ!」などなど。「私、ばかよね♪♪おばかさんよね♪♪」という歌がありますね。私には女性がこのような歌を歌うことが信じられません。あなたが女性なら聞きたいのです。「あなたはばかなのですか?」。ばかなどということばは使ってはいけないのです。人格を傷つけることばです。ばかな女性から生まれる人は、男性でも女性でもばかです。ばかとばかが結婚してばかが生まれるのは当然です。世界はばかばっかりになります。イエスさまはこうおっしゃってます。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)

 「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では花の咲かない枯れすすき」という歌もあります。花の咲かない人生がそんなに良いものでしょうか。ナンセンスですね。自分を卑しめるべきではありません。自分をけなすべきではありません。もしそのようなことをしているとするならば、少なくとも無意識のうちにストレスが溜まります。欲求不満が蓄積します。しかもいつかそれは爆発するでしょう。なにかのきっかけを見つけて。勘違いしないでください。きっかけと原因とは異なるものです。風船は針を刺すというきっかけで破裂します。風船の中にガスや空気(これが原因)が入ってなければ破裂はしません。最近(2003.4)目にした新聞記事には次のような発言がありました。神奈川県松田市で通り魔事件がありましたが、逮捕された容疑者伊藤弘幸はなぜ刺殺したのかという質問に「だれでも良かった。仕事がなく、むしゃくしゃしてやった」と言っています。ちょうど通りかかった人が犠牲になりました。彼の近くを歩いていた人に落ち度があるわけではありません。殺人者の中にある欲求不満が被害者を産んでしまいました。私たちは自分の心の中を健全に保たなければなりません。次の6節を見てください。

 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

 彼らとは時の指導者たちである律法学者たちであり、パリサイ人たちでした。彼らの中には屈折した鬱屈した心理がありました。イエスさまがその犠牲になりそうになっている場面です。姦淫罪は死刑が相当でした。もし死刑を判決すれば、イエスさまが常日頃叫んでおられる愛は霞んでしまいますし、無罪放免にすれば律法違反、すなわち神をないがしろにしたことになります。どちらに転んでもイエスさまには不利なのは明らかです。だからこれはわなです。イエスさまのお答は以下です。見事ですね。

 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(7-12)

 だれも彼女を責める者はいず、イエスさまも「行きなさい、これからは光の中を歩きなさい」と言われます。人々には彼女を責める資格がなかったのです。さすがに年長者にはそれが分かります。そうして彼女も彼女自身を責めてはいけなかったのです。人を責めてはいけない、という時、私たちは自分という人も含まれていることを知らねばなりません。どうか神の愛を信じてください。あなたは神さまに愛されています。それは、神さまはあなたを責める方ではなく、救うお方であるという意味です。天の神さまがあなたを責めないのです。なぜ一人の人に過ぎないあなたがあなたを責めるのですか。

自分をありのまま正直に見る

 これは上の話をしっかりと確認してからすべきことです。というのは自分をありのまま見てしまうと落ち込んでしまうからです。さて、自分をありのまま見るととっても楽になりますよ。プライドの高い人っていますね。彼らはとっても傷つきやすい。なぜ?自分の実像がばれるのが恐ろしいから。真実の自分を隠し、芝居をし、かっこよくみせかけています。いつかばれるかも、と心配です。実力以上に自分を見せようとしています。疲れます。でももし自分を正直に見せていれば、ばれる失敗はないので安心です。イエスさまの信念を理解すると自分をありのまま見ることに大きな抵抗はなくなります。ではその信念とは?それは人への同情心。二つの内容を持っています。一つはもう一度のチャンスを与えること。もう一つは人への期待。もし、あなたがAさんから何か悪いことをされたとしましょう。あなたが「Aさんって、もともとこんな人だ!」と悪く決めつけたら、つまり最終的な宣告をしたら、これがAさんとの最終的な人間関係における結論になります。もう一度のチャンスをあげることができたら、なんとすばらしいことでしょう。それは「Aさんは変われる!」という意味であるのです。こういう詩があります。

 やり直しのできる国、そのようなすばらしい国があったなら
 すべての誤りと心の痛み、つまらないわがままな悲しみとを
 みんなみすぼらしい古着のように家の外に脱ぎ捨てて
 再び身につけなくてもいいようにできるなら
 やり直しのできる国、そのようなすばらしい国があったなら

 イエスさまのおことばを聞きましょう。

 イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(11-12)

 ありのままの自分を見ると、確かに欠点が見えます。弱点が見えます。しかし、そこにこそ神の力は働きます。あなたは神の力を求めているのですか。ならば使ってください。

 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Uコリント12:9)

 しかし私たちの多くは欠点や弱点に心を支配されます。心の中がそれで占領されてしまいます。ここで一つのことに気がついてほしいのです。欠点や弱点は小さなことであることを。ではなぜ大きく見えるのでしょうか。人生にグランドデザインがないからです。あれば、欠点や弱点をどのように修正すればいいのかが明白になります。方向性が見えて来るし、動機も十分に備わるのです。どうか、神の力を信じてください。神さまはあなたを愛して、ある一定の方向へと導いていらっしゃいます。あなたの人生には使命(グランドデザイン)があります。それを全うできるために神さまはあなたに限りなく力を注いでくださいます。このように神の力を上手に活用している人はなんと魅力的に映ることでしょう。

人を尊敬する

 私たちは人を尊敬しなければなりません。互いに尊敬しなければなりません。尊敬する気持ちがあれば、当然人との接し方にもそれが表れます。バスの座席に美しい女性が座っていました。次々にお客さんが乗り込んで来て、座席はすべて埋まりました。彼女の前にお年寄りが立ちました。バスが揺れるたびに乗客たちの間には彼女を裁く気持ちが募って行きました「席を代わってあげればいいのに……」と。やがて彼女は降りました。男性に身体ごと抱えられて。彼女は歩けなかったのです。

 権威ある者の義務というちょっと堅い表現で尊敬の心について考えてみましょう。私にはそのような立場は関係ない、でしょうか。もしあなたが親なら子どもに対して、先生なら生徒に対して、男性なら女性に対して権威ある立場です。さて、権威ある立場にある者の義務は二つ。一つは人の置かれた状況を推察し配慮する。もう一つは責めるのではなく、赦し(+許し)励ます。イエスさまはそのようなことをなさるお方です。だからとっても魅力的に映るのです。人を尊敬するとはこのような内容を指します。そして尊敬する人は尊敬されます。もちろん魅力的な人は尊敬される人です。アッシジのフランチェスコは多くの人々に尊敬される人です。若い頃、道ばたにライ病人がうずくまっているのを見ました。彼は葛藤を覚え乍らも通り過ぎます。すると聖霊さまが語りかけました。「通り過ぎていいのか?」「でも病気がうつるのは恐いのです」。ついに彼は道を戻り、以来ライ病人を看病する生涯へと向います。愛することと、リスクを取ることとは同義語です。ノーリスク・ノーリターン、ローリスク・ローリターン、ハイリスク・ハイリターンです。ハイ愛(他者への尊敬)・ハイ尊敬です。あなたはどれを選びますか。人を尊敬するためには、自分ばかりではなく、他者の中にもキリストを見ることです。この人のためにもイエス・キリストは死なれたと覚えることです。

痛みを活用する

 いろいろな痛みが人生にはあるのです。そうですね!?あなたにもあるはずです。あったはずです。もしかして、今、経験していらっしゃるかも。この痛み、だれもが好かないものなのですが、私たちの世界には不可欠です。多くの人が痛み、それゆえに慰めを必要としているから。罪の世界に私たちが生きているかぎり、傷や痛みが生じない、人と人とが傷つけ合わない、苦しみが生じないということはあり得ません。でも痛みに苦しむ私たちに、神さまは決して無関心ではありません。だれかを派遣して慰めを与え、立ち上がることができるように助けてくださるお方です。もしかしてあなたがその、助ける人なのかも。では実際にだれがこの任務を果たせるのでしょうか。助けることができるのでしょうか。それは痛みを経験した人、痛みを知った人だけです。

 大きなことができるようにと神に力を求めたけれども、従順を学ぶようにと弱い人にされた

 偉大なことができるようにと健康を求めたのにより良いことができるようにと病弱さが与えられた

 幸福になるために富を求めたのに、賢くなれるようにと貧乏を与えられた

                                         (無名の南軍兵士の祈り)

 私たちは神さまに祈ります。それはたいがいこのような祈り方でしょう。「あれをください、これをください」間違ってはいません。でも時に神さまはあなたが求めたものをくださらない場合があります。それには理由があります。もうお分かりでしょう。あなたに人の痛みを知ってほしいのです。あなたには神さまからの大きな期待があります。私の働きを手伝ってもらえないかという期待が。あなたはそれに答えますか?あなたは今、痛みの中で磨かれています。磨かれている、それは魅力を増しているという意味です。あなたの周囲にはすでに多くの人が群がっているでしょう。あなたは魅力的な人だからです。

 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:5-11)

 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)