232 だれが救われる?

  聖書箇所[ミカ書] 

 ミカは紀元前8世紀に活躍した預言者です。当時社会はひどくすさんでいました。そこで神さまは「終わりの日が来る」(4:1)警告を発せられます。その時の情景はおそろしくだれをも驚愕させるものです。
 
 見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。(1:3-5)

 しかしこのような人は安心だ、救われると神の配慮を示すのがこの書物の持つ意図です。ではどのような人々が救われるのでしょうか。その答を言う前に救われる人の持つ恵みを二つ指摘しましょう。一つはもちろん救われること。もう一つは社会にキリスト教文化をのすばらしさを分かち合うことができること。それは誇りを持って生きることができることを教えています。

 ではだれが救われるのでしょうか。4章6節に書いてあります。

 その日、――主の御告げ。――わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。

 足のなえた者

 足のなえた者ってだれでしょうか。それは自分が弱いことを知っていて、それに悩む者です。あなたは劣等感に悩んでいますか?私は足りない、遅いと思っていますか?私は運動会の季節が来るのが嫌でした。なぜって。足が遅いから。強制的に走らせられるのです。私はいつもオリンピックみたいにエントリー制にすればいいのにと考えていましたが、だれも聞いてはくれませんでした。みなが同じことをしなければいけないのです。私には劣等感を増幅させる季節でしかありませんでした。しかし、しかし、神さまの世界は違います。

 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(5:2)

 小さい者の中にもっとも強い者が生まれると言います。通常これはメシア預言と呼ばれます。2000年前にベツレヘムでメシアすなわちイエス・キリストがお生まれになったことを示したものです。預言は成就しました。しかしあなたに対する個人的な預言でもあるのです。あなたは弱い、劣る、しかしあなたの中に世界最強の者が生まれる。そうです、あなたの中にイエス・キリストが生まれ、もはやあなたは弱さの故に悩むことはないのです。弱さに悩む者への応援、これこそ真のリーダー、真のやさしさではないでしょうか。18世紀にマリー・アントワネットというフランスの王妃がいましたが、ある時貧困に苦しむ農民たちが「食べるパンがない」と訴えたら、「それならケーキを食べればいい」と言ったと言います。ギロチン刑に遭いました。真のリーダーは優しさを持つものです。思いやりを持つものです。優しさこそ、しかも心の底からの真実のやさしさこそ私たちを救います。
 韓国には有名な永楽教会があります。ある時もっとも優れた牧師を表彰する式が営まれました。選ばれたのは金先生。先生はこう述べました。「私は何度辞退しようと思ったか知れません。私は日本の植民地時代に憲兵の銃剣を恐れて神社参拝をしてしまったからです。」会場には銃剣を恐れずに拒んだ勇気ある牧師たちも多数参列していました。でも会場はやさしさとあたたかさに包まれていました。金先生が悔い改めたことをだれもが知っているからです。やさしさはキリスト教文化の一部です。
 あなたの中のキリストはやさしいのです。私は足が遅いことに始まっていつも何ごとも遅いので次のみことばには励まされました。心の支えに今日までやって来ました。

 あとの者が先になることが多い。(マタイ19:30)

 やさしさはキリスト教文化の一部です。

 神さまは弱い者を大切にしてくださいます。「私はあなたを忘れてはいないよ」と声をかけてくださっています。あなたは弱いですか?

 追いやられた者

 追いやられた者ってだれでしょうか。マイノリティー(少数派)です。あなたはマイノリティー(少数派)ですか?マイノリティー(少数派)の人たちはこう訴えます。「私の気持ち、分かってもらえないッ」日本ではクリスチャンが圧倒的に少ないので、「私は一人だけクリスチャン」というケースは少なくありません。「私は正しいことを言っているのに……、私、正しいことをしているのに……、どうして?どうして分かってくれないの……」とついぐちをこぼしたくなりはしませんか。外国人にも同じ思いがあるかも知れません。マイノリティー(少数派)はマジョリティー(多数派)から圧迫されやすいものです。なぜ?マジョリティー(多数派)には力があるからです。マジョリティー(多数派)は寝床においてさえもいかに力のないマイノリティー(少数派)からかすめ取るかを考えていると言うのです。

 ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。(2:1-2)

 マジョリティー(多数派)とは誰か?以下に紹介されています。

 わたしは言った。聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を知っているはずではないか。あなたがたは善を憎み、悪を愛し、人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、その骨を粉々に砕き、鉢の中にあるように、また大がまの中の肉切れのように、切れ切れに裂く。(3:1-3)

 なぜ、マイノリティー(少数派)はこんなにも辛いのか。それは道具扱いされるからです。道具扱いされると消耗し尽くされます。そうして捨てられます。これでもかこれでもかというふうに請求され、要求され際限がありません。期待が天を越えて高まり、やがて「期待通りにしてくれなかった」と言って復讐に走る人も少なくありません。人間の罪深さが現れる瞬間です。妻の立場から言えば、「私は洗濯機なのかしら?私は掃除機なのかしら?」と思え、夫からすれば「俺はATMなのか?」と呟かざるを得ません。このような文化は偶像礼拝の文化です。だから愛の神さまは偶像をお嫌いなのです。「私の大切な子をペンチやのこぎりや釘のごとく考えるのか!?」とお怒りです。私たちは互いに神のすばらしい作品として尊敬をしなければなりません。神さまはこの真理が理解しやすいマイノリティー(少数派)の味方です。でも誤解しないで下さい。いつもマイノリティー(少数派)が正しいと言っているのではありません。マジョリティー(多数派)はいつも悪いと言っているのではありません。いままでのマイノリティー(少数派)がマジョリティー(多数派)に交代するとき、心も交代してしまいやすいのです。私たちは罪人です。でもこれを知る者には謙虚さがあります。この謙虚さもまたキリスト教文化のすばらしさの一つです。この謙虚さは決して復讐をしようとはさせないし、赦すことをさせます。あなたが復讐しないのは神さまがあなたを傷つけた人に復讐してくれるから。神さまの手による復讐はきびしいものです。だからあなたは赦せるのです。第二次世界大戦が終わった時、中国大陸には300万人以上の日本人がいました。今こそ復讐が始まると怯える毎日でした。そのような時に蒋介石総統はこういう命令を出しました。「中国のみなさん、みなさんが仕返しをしたい気持ちを持っていることはよく分かります。しかしここはやはり徳をもって報いるべきです」と。彼はクリスチャン。赦しは十字架の上でなされました。これはキリスト教文化なのです。

 わたしが苦しめた者

 わたしが苦しめた者ってだれでしょうか。信仰のゆえに損をした者のことです。あなたは信仰のゆえに損をしたことがありますか。たとえば「ここで小さなうそをつけば儲かったのに……」とか。信仰者としてうそはつけませんね。ダニエルの三人の友人もうそをつけば火の燃える炉の中に入れられることもなかったのです。その場面を見ましょう。

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。(ダニ3:16-18)

 勇ましい三人ではありませんか。うらやましい限りですね。以前カネボウの社長さんが私の教会にお話に見えました。三回も左遷の憂き目に遭ったとあかしされました。すべて信仰のゆえにです。神さまはどんな場合にも信仰を忘れない者を愛してくださいます。それは目に見えないものを大切にすることだから。というのは目に見えないものこそ世界において真実であり、本物であるから。

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(・コリント4:18)

 信仰は目に見えないものです。さらに信仰は目に見えない世界の奥地へとあなたを進ませます。それは愛の世界。これも目には見えません。たとえば物をあげればそれは愛、でしょうか?そうとも限りませんね。何かの催促かも知れません。真の愛は目にはみえないものです。こういう目に見えないものを大事にする、これもキリスト教文化です。救われる者はこのような文化を世界に広めます。誇りが同時に生まれます。聖フランチェスコが死ぬ時を迎えました。弟子たちは泣いています。「名残りおしゅうございます」「で、あとどれほど私は生きればいいのだ?」一人目の弟子は「今まで生きて来た分だけ」と答えました。「それは欲というものだ」と聖フランチェスコは応答しつつ、二人目の弟子に尋ねました。「おまえはあとどれほど私に生きてほしい?」「あと一年」。三人目の弟子に彼は尋ねました。「おまえはあとどれほど私に生きてほしい?」「あと一日」。最愛の弟子に彼は尋ねました。「おまえはあとどれほど私に生きてほしい?」「あと一時間で結構です」。聖フランチェスコは尋ねました。「その一時間で何をする?」最愛の弟子はこう応えました。「ご一緒に礼拝を捧げたいのです」

 では私たちはどのようにしたら救われる者になることができるのでしょうか。それは、神の前に正直になることです。一人の自分の中に二人の自分がいると言われます。一人は正直な自分、もう一人は不正直な自分。後者は架空の存在です。架空とは存在しないのですから、神さまの愛の対象にはなり得ません。正直であることです。そうであるとき、あなたは以上の三種類に自分が当てはまることを認めざるをえないでしょう。でもそれがあなたを救うのです。神は真実のあなたを愛し祝福してくださいます。そうして礼拝は自分を正直にさせてくれるものです。形式を超越して主を礼拝しましょう。心で礼拝しましょう。正直になったあなたは特別に神さまに祝福されるのです。どんなに時代が悪くてもどんなに状況が悪くても、救われるのです。

 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。聞け。主が町に向かって叫ばれる。――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――(6:6-9)