241 更に変身する為に
聖書箇所[ヨハネの福音書1章35ー51節]
主イエスさまと出会う、なんてすばらしいことでしょうか!だって、だれもが変えられます。変身します。そして主イエスさまと交わりを深めて行くと、その変身には加速度が加わります。今回はそのための強力なエンジンをご紹介しましょう。三人を例に確認してください。
ヨハネ
主イエスさまによる弟子集めの活動の中で、アンデレとこの福音書の著者であるヨハネは最初の二人の弟子たちの一人です。興味深いのは、様々な性格を持った人たちが様々な方法で弟子入りしている点です。たとえばアンデレとヨハネは、バプテスマのヨハネの証言がきっかけでした。さて当時、ラビ(教師)たちはどのようにして弟子を取ったのでしょうか。イエスさまと弟子たちとの会話からその典型的なパターンを知ることができます。
四つのステップ
(1)ラビとは着かず離れずの距離で、教えに耳を傾けつつ、その後について行く。期間はさまざまです。(37)
(2)ラビが弟子入り志願者に「何を求めるのか」と質間します。(38)
(3)弟子入り志願者は、「ラビ。今どこにお泊りですか」と質間します。(38)
(4)「お前とは関係がない」という返事がくれば、断わられたのです。
「来なさい。そうすればわかります。」と言われれば、弟子入り合格。(39)
ヨハネはアンデレとともに合格!あなたはクリスチャンですか?もしそうなら無意識かも知れませんが、主イエスさまを信じて行くに当って、上の四つのステップを通って今日があるはずです。私はそうでした。はじめて教会に足を踏み入れるとき、相当迷いました。礼拝で説教を何度も聞いて信じようか、あるいはもう教会に来るのは止めようかと迷いました。ついに心の中に主イエスさまを迎え入れました。弟子入りの瞬間でした。
イエスさまの弟子になったことがヨハネの運命を変えました。エゴイストから愛の人に。あなたは、イエスさまについて行きたいですか、あるいはもうついて行っていますか。ヨハネについてはこういう話が伝わっています。小アジアを伝道旅行していた彼はある一人の青年と出会います。吸収の早い彼をヨハネは特別に愛しました。どんどん成長し、ヨハネは教会の長老にこう言って預けました。「彼は私の子です。大切に育ててください」数年経って戻って来たヨハネは期待に胸を膨らませながら長老の家を尋ねてこう言いました。「私の子どもを返してもらいたい」。長老はかなしそうな顔をして言います。「彼は死にました」「えッ!」「申し訳ありません」かの青年は堕落してしまっていたのです。ヨハネは山賊の頭領になっていた彼を探しに、山の中へ深く入り込みます。だれもが危険の故に止めるのも聞かずに。ちょうど彼はそこにいました。ヨハネにはすぐに分かったのです。そればかりではなく、その青年もヨハネであることがすぐに分かり、なんと逃げ出すではありませんか。老いたヨハネが屈強な青年を追い掛けるのです。まもなく彼は逃げるのを止めます。「もし必要なら私はお前の代わりに罰を受けよう、死のう」と言いながら抱き締めるヨハネの腕を振りはらおうともせず泣いています。彼はこの後もう一度改心し、立派な働き人になったと言います。ヨハネ、彼はすぐに切れる人で有名でした。自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こしていた人でした。でも今や愛の人です。彼は変わった!変えられました。
弟子(入り志願者)としての私たちには、「ラビ。今どこにお泊りですか」という質間(38)が重要です。今日でもあなたはヨハネのように生活ができます。それは生活のあらゆる場面で「イエスさまなら、この場合、どうなさっただろうか?」 「イエスさまなら、この場合、どうおっしゃだろうか?」といつも自分に聞くことです。先生と寝食をともにすることが弟子の生活です。こうしてイエスさまのおられるところに留まり、イエスさまを体験的に知ることができるようになります。これが第一のエンジンです。
ペテロ
第三の弟子ペテロは兄弟のアンデレの紹介でイエスさまに出会いました。ペテロの元の名はシモンと言いました。あなたはきっとご存じですね。では元々の名前は?シメオン。これはヘブル名でシモンはそれのギリシア語読みです。イエスさまは彼を見て、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ〕と呼ぶことにします。」と言われました。ペテロという名はイエスさまから受けた名であり、イエスさまによるペテロへの預言とも言えます。シメオン、それは「聞く」という意味であり、親の願いが込められています。よく聞く者であってほしい、これは間違いなく親の願いであったでしょう。それが成就しました。よく聞く姿勢があればこそ、岩、すなわち家の土台になろうというものです。事実ペテロは初代教会の土台を据えました。私たちは自分の変身について主にあって期待をすべきです。
キリスト兄弟団秋田ベテル教会の牧師をしている中田元先生は、牧師になる前は盆栽の仕事をしていました。先生が師事した師匠は盆栽作りの名人でした。あるとき、師匠が盆栽棚の中から,だれも見向きもしないような、癖のあるクズのような黒松を仕事場へ持ってきました。中田先生は、水をやりながら、「こんな木を置いておいても無駄じゃないか。早く処分してしまえばいいのに・・。」と思っていました。しかし、そのクズのような木を師匠は入念に手入れして、懸崖盆栽に仕立て直しました。すると、見違えるような立派な盆栽になったのです。それまでどうしようもなかったものが、名人の手にかかるとすばらしい盆栽に変わりました。数日後、その盆栽はよい値段で売れてしまいました。この話を聞いて、次のみことばが頭に浮かぴました。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた暑です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5:17)(『クレイ』2002.12)
ある人たちは自分をけなします。なぜそのようなことをするのでしょうか。神さまの手になる立派な作品をなぜけなすのでしょうか。それは罪です。罪を犯しているかぎり祝福はありません。上のみことばをよく聞いてください。みことばがあなたを真に変えます。
仙台国見教会の福田勝俊先生は、牧師になる前に、三つのカミに仕えました。
(1)散髪屋さん(髪)で働く。中学を卒業後、手に職をつけるために京都の散髪屋さんに丁稚奉公として就職しました。しかしもともと恥ずかしがり屋で、お客さんに「いらっしゃいませ」ということばが出てきませんでした。客簡売で挨拶ができないと仕事になりません。ご主人に叱られても、うまく客に対応できずによく泣いていました。ここでの仕事は1年も持たず、自閉症になって自殺未遂を3回もくり返しました。
(2〕印刷会社(紙)に勤める。京都から、逃げるようにして神戸に帰り、近くの印刷会社で働くようになりました。会社の先輩が、昼休みに、食後、倉庫で祈っているのを見ました。その先輩は一目置くような存在で,その人間的な魅力に引かれました。先輩は教会に誘ってくれましたが、ずっと断っていました。しかしあまり断るのも悪いと思い、先輩の顔を立てて一度だけ教会へ行きました。それが、神戸中央教会の特別伝道集会でした。その夜本田弘慈先生の伝道メッセージを聞いて信仰の決断をしました。それから自分でも驚くほど性格が変わりました。……
(3〕牧師にな⊃て真の神に仕えようと決心。神学校へ行こうとしましたが学歴がありません。しかし、恵みによって関西聖書神学校に仮入学を許されました。苦労しながらも無事に卒業し、同じ神学校で学んだ勝江先生と結婚。その1年後、夫婦で京都の散髪屋さんへ挨拶に行きました。そのとき、御主人が言いました。「今、話しているのは確かに福田君だが、別の人と話しているようだ。……」そのように言われるほど、福田先生はキリストを信じてから、すっかり変えられてしまったのです。(『クレイ』2002.12)
みことばをよーく聞くことです。あなたは大きく変えられます。
ナタナエル
ピリポは直接イエスさまから「わたしに従って来なさい」(43)と声をかけられています。彼はアンデレやペテロと同じベツサイダという町の出身ですが、このピリポの証言によってナタナエルはイエスさまとの出会いを果たしています。ナタナエルのはじめての反応は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(46)です。ガリラヤ出身の彼の目から見てもナザレは取るに足りない町だったのです。しかしイエスさまに出会った直後、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49)と告白しています。なぜ?なぜ、そんな重大な告白がすることができたのでしょうか。
(1〕イエスさまは彼について、「これこそほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(47)と言われました。イスラエルとはヤコブの別名です。ヤコブという人は、父イサクを欺いたりしたことがある人ですが、大きく変身を果たした人でもあります。イエスさまは、ナタナエルの心の中を見抜き「彼には偽りがない」と最大限の褒め言葉を発しておられます。
(2)さらにイエスさまはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言われました。いちじくの木の下にいるとは、そこでナタナエルが黙想していたことを表わしています。ここでもイエスさまはナタナエルの心の中を見抜いておられます。
このようなことがらが、ナタナエルを信仰告白へと導いたのです。鍵となることは、すなわち変身のための第三のエンジンとは、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白です。王とは巨大な存在です。スケールの大きな存在です。彼はデボーションの中でそのような認識に達しました。でもこのスケールの大きさがナタナエルを大きく変えたし、あなたをも大きく変えてくれるのです。あなたはゴルファーのアーノルド・パーマーをご存じでしょう。以前サウジアラピアの王から招待されて一連のプレーを披露したことがありました。感動した王はパーマーに何かプレゼントをしたいと言いました。しかしパーマーは「陛下、私はご招待をいただいただけで光栄なのです」と答えます。すると王は、「もしプレゼントを受け取ってもらえないなら、私が困る」と返します。パーマーはしばらく考えて「そうですか、ではゴルフクラブはいかがでしょうか。私がこの美しい国を訪間したという記念になるでしょう」翌日ホテルに王からプレゼントが配達されました。権利証でした。何とそれは何干本の木や美しい湖、立派なグラブ八ウスなどを擁するゴルフ場のものでした。パーマーは、王の前では小さなことを願ってはいけないのだと学んだと言います。私たちクリスチャンは、天のお父さまの子供たちです。このお父さまの前では、大きなお願いをすべきです。「私を大きく変えてください」と。