245 すばらしい教会

聖書箇所[エペソ人への手紙1章3ー14節]

 私には教会に対して特別の思いがあります。私の人生を決定的に変えてくれたからです。もちろんイエスさまによるものなのですが、教会があればこそです。きっとあなたも同じ思いではないでしょうか。今回は教会をテーマに考えてみましょう。さて、はじめの質問は、教会とは何か?です。それは建物ではなく、人々です。次の質問。幸福と愛とは同じものなのでしょうか?いかがでしょうか。答えは、はい、イエス。愛によって得られる満足感が幸福だから。さらに次の質問。愛と幸福と言えば、だれもが目を細める対象ですが、両者に共通する要素は何でしょうか?それは、人々!愛は一人では成り立ちません。愛し、愛されて、はじめて愛が存在します。幸福もたった一人の世界では成り立ちません。それ以前に孤独により発狂してしまいます。次の質問です。ではどのような人々が教会には集まっているのでしょうか。今回はすばらしい教会という題ですが、すばらしい教会にはどのような人々が集まっているのでしょうか。学んで参りましょう。次のような人々が集まるから教会はすばらしいのです。

神に選ばれた人々

 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び[1:4]

 教会とはエクレーシア(ギリシア語)の訳です。これはエックとカレオーの合成語です。前者は「〜から」、後者は「呼ぶ」の意味です。もちろん天の神さまがあなたを呼んで下さったのです。「おーい。そんな所にいないで、こちらに来なさい!」って。こんな所とは罪に汚染された世界です。あなたはその声を聞いたはずです。そうですね。心の中にそれは理解されたはずです。これを「神に選ばれた」と言います。うれしいですねえー。感謝したいですねえ。私は結婚式に出席するのが大好きです。にこにこしている人たちばっかりですから。私が司式をする場合には「新郎新婦のための祈り」をします。これがどのようなものかと言いますと、次のようなものです。
 「新郎に『世界には多くの男性がいるのに、よくぞこの私を選んでくださった』、新婦に『世界には多くの女性がいるのに、よくぞこの私を選んでくださった』と思えるようにしてください」と祈るものです。
 同情結婚と呼ばれるものがあります。「お前をもらってやったんだ、お前なんてもらい手がないだろう。おれが救ってやったんだ」式の言い方です。決して健全ではありません。互いに謙虚に「選んでいただいた」と受け止めることがいいのです。このように受け止めることができる人は「私は必要とされている」意識を持つことができます。これもまたうれしいものですね。「私はもはや必要とはされてはいない」と思ったら人は生きてはいません。生きることが不可能なのです。神さまが「あなたはこちらへ来なさい」と呼んでくださいました。当然あなたにはすべきことが用意されています。あなたはこれを信じますか。ミッションと言ってもいいし、使命と表現してもいいでしょう。あなたは日常の生活で期待されています。神さまがあなたに向けて「これをしてください」と心の中にいつも語りかけてくださっています。

罪が赦された人々

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。[1:7]

 罪人は罪を犯します。弱さがあり、失敗します。ところで、ある人々が誤解していますが、人は罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯します。その罪を原罪と言います。アダムの罪です。原罪があるゆえに、善意でスタートしたのに他者を傷つけてしまった、いつのまにか悪意が入ってしまった、といったことが起きて来ます。「いやー、申し訳なかった」ではすまないのが被害者の立場であり、心情です。では私たちは罪を犯してしまった場合にはどう対処したらいいのでしょうか。罪を犯した場合には唯一の解決策があるのみです。それは赦されること!十字架の意味がここにあります。あなたが赦されるために代わりに罰を受けてくださったのです。ありがたいものです。さて、このありがたい事実を知る時、二つのプレゼントが与えられます。一つは心の平安。もう一つは人への思いやり。実はこの二つはリンクしています。平安に十分に満たされたなら、人は他者にやさしくできるものです。赦された意識(の量)と他者への親切(の量)とは完全に比例関係にあります。有名な事例を聖書から見てみましょう。

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:9-13)

 人を裁く、つまり他者に冷たいパリサイ人と謙虚な取税人の対比的な態度が印象的です。

 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。(ルカ19:1-9)

 特に8節の

 ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。

ということばが彼の天にも上る喜びと感謝の気持ちとを表しています。もちろん赦された喜びであり、感謝です。「私の罪は、しかもこんなにも多いのにも関わらず赦された」という思いを持っている人は生活がすばらしく変えられます。

キリストのからだの一部にされた人々

 キリストにあって一つに集められる[1:10]

 最初の教会のメンバーは何人(じん)であったでしょうか?答え、ユダヤ人。しかしすぐに外国人が入って来ます。ここで一つの問題が生じます。外国人とのあつれき。これは普遍的な問題です。先に来た者は既得権益を主張したいし、後から加わった者は人としての当然の権利を主張します。世界中、どこに行っても、差別の構図は同じです。多数派が少数派を差別します。何人(じん)が、あるいは何民族が特別に差別しやすいといったことはありません。常に強者が弱者を差別します。弱者が、そして少数者が反対の立場に立ったら、差別は解消するかと問われれば、否と言わざるを得ないでしょう。原罪を、人ならだれでも持っているからです。では希望はないのでしょうか。あります。信仰があれば解決できます。仲良くやれます。キリストにあって一つとは2章14ー15節でも参照できるように、キリストという一つのからだの中に統合されたという意味です。ある人は右手、ある人は左手。野球で例えてみましょう。一塁手は一塁手としての仕事をします。二塁手は二塁手としての仕事をします。投手は投手としての仕事をします。捕手は捕手としての仕事をします。これで試合には勝てます。そうですね。ではだれがそれぞれの立場を教えてくれるのでしょうか。それは聖霊。

 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。(13-14)

 聖霊こそが一人一人に、しかもお互いに「私は、あなたはこの部分だ」と分からせ、キリストのからだを一致させます。互いに異なることを認識させ、聖なる目標を共有し、ともに達成を喜びます。もちろんその途中における苦労をも共にします。この快感がまたすばらしいのです。

キリストに所有された人々

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い……を受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。[1:7]

 贖い、これは奴隷を買い戻す時の用語です。あなたは罪の奴隷になっていたのを父なる神はイエス・キリストの血を代金として買い戻してくださいました。あなたは信じた時、買い戻しの恵みにあずかりました。感謝ですね。ゆえにあなたのオーナーはキリストです。教会は英語ではchurchと言いますが、ギリシア語kuriakosから来ています。それは「主の所有」という意味です。あなたは晴れて主のものとなったのです。あなたは感謝しますか。感謝するわけがあります。あなたはもはや悪魔や悪霊の奴隷ではありません。あなたの心の中にはいつも善意と誠実と愛が満ちます。なんとすばらしいことではありませんか。これを精神の自由と言います。あなたは今自由ですか?人の意見や影響の奴隷になってはいませんか。あなたの奉仕は人へのものですか、それともキリストに向けてのものですか。もしキリストに向けてのものであれば、あなたは自由です。キリスト、すなわち神を喜ばせることが最優先なのですから。これがキリストをオーナーとする者の姿勢であり、心構えであり、責任です。このことが分かる者はいつも自由です。他者の評価からも自由、自分の中にある見栄からも自由。ハレルヤ!イエスさまはご自分の命をもってあなたに自由を与えてくださいました。ただ感謝!感謝が満ちるところ、またそうする人々が満ちるところにすばらしい教会があります。