246 宝物さがしゲーム

 聖書箇所[ローマ人への手紙5章1ー8節]

 あなたは神の手になる立派な作品です。

 テキサスをべースに、牧師、ラジオ伝道者、著作家として活躍しているマックス・ルカードの言葉です。神はなぜ、あなたを救おうとされるのでしょうか。多くの理由が考えられます。ご自身の栄光のため、義を成就するため、ご自身の主権を示すためなどなど。しかし、最も感動的な理由は、あなたのことが好きだからです。あなたがそばにいてくれることが嬉しいのです。あなたのことを最高の宝と考えておられるのです。もし神が冷蔵庫を持っているとしたら、あなたの写真がそこに貼られていることでしょう。もし神が財布を持っているとしたら、あなたの写真がその中にあるでしょう。神は毎年春には、あなたに花を贈ってくださいます。毎朝、朝日を贈ってくださいます。あなたが話したい時にはいつも、聞いてくださいます。神は、宇宙のいかなる場所で生きることもできるのですが、あなたの心の中に住むことを選ばれました。(『クレイ』2003.12)

 なんてうれしくさせてくれる文章でしょう。一言で言えば神はあなたに恋をしているのです。あなたは神にとっては宝物なのです。今日は、宝物さがしゲームと名付けました。気楽に参加してください。あなたの何が宝物なのか、さあ、さがしましょう。

 存在自体
 
 あなたの存在自体が宝物です。あなたがそこにいるだけで、それだけで価値があります。あなたはこれを信じますか。もう一度言います。あなたには、あなたそのものに価値があります、と神はお考えです。「いや、私はそうは考えない」とおっしゃいますか?もちろん日本は自由の国ですから、そのように考え、そのように発言することをだれも止めることはできません。でも幸せですか。幸福って、結局自分との折り合いの付け方如何でしょうね。「自分はクズだ」と考えればクズだし、つい否定的な口ぶりにもなれば、そのような生活にもなります。私は以前はそのような人間でした。常に否定的でどんなにすばらしいことがあっても、決して喜ぶことができない性格でした。でもある時自分との折り合いをつけることができるようになったのです。何か頼まれます、そのような時に「できることはしますが、できないことはできません」とはっきりと言えるようになりました。「それが自分なんだから、それでいいじゃあないか」と割り切れるようになりました。以来とても気持ちが楽です。そしてよく考えてみたら、そのような生き方以外に道はないのです。きっとあなたにも同意していただけると思います。私たちは別の誰かになることもできないし、「別の人間になれ!」と言われても困ります。私は私を生きる、それしか道はないのです。「あーあ、らくになった」ですか?あなたが知るべきことはたった一つ。イエスさまがあなたを見ていてくださっていること。ここに自分との折り合いをつける力と知恵があります。一人の人間の中に二人の自分がいて戦っています。一方は「私は神の手になる立派な自分と信じる」自分、そしてもう一方は「ダメな自分を信じる」自分。イエスさまはすばらしいお仲人さんです。この戦いは神との戦いです。この戦いを十字架の上で終わらせて下さいました。ハレルヤ!いまやあなたと神との間には平和があるのみです。[1]
 あなたはザアカイをご存じでしょう。

 ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

 いったいどうしてこのようなことが可能なのでしょうか。何がこれほどまでに彼を変えてしまったのでしょうか。それは

 イエスは、ちょうどそこに来られて、見上げて彼に言われた。(同5)

 イエスさまにより見られる経験。じいーっと見られる経験。これが彼を大きく変えました。あなたもイエスさまにあたたかいまなざしでじいーっと見られていますよ。信じて下さい。

豊かな感受性

 豊かな感受性があなたには備わっています。へえー?さあ、どうでしょう。感受性とはこのようなものですね、あなたの友人が悲しい時、「あー、私も悲しくなっちゃったー」と反応するもの。嬉しい時はもちろん、一緒に嬉しくなります。なぜあなたには備わっていると言えるのか。それは神があなたに本来与えているから。ところであなたのイエスさまに関するイメージはどのようなものでしょうか。おすましやさんではありませんか。どんな場合もすました顔で、怒ることもなければ、取り乱すこともない。お風呂上りでもネクタイ姿。でもそんなイメージって、正確なんでしょうか。イエスさまはお怒りになったことがありますよ。悲しくて悲しくて涙を流されたこともありますよ。そう、彼は人間なんです。あなたと同じ人間なんです。悲しいこともあれば嬉しいこともあります。それを彼は隠すことをしません。あなたはいかがですか。ある婦人がうつ病になり、しばらく苦しんでいましたが、ある時、ふとその理由が分かったような気がしました。少し前に大好きなお母さんが亡くなりました。ところがなんと彼女は涙を流していないのです。亡くなった時、そしてお葬式をしている間、教会員は口々にこう言って慰めてくれました。「お母さんは天国に凱旋しました。だから喜びましょう、感謝しましょう。涙はふさわしくありません」と。彼女もその意見には同意していました。でもふと気がついたのです。自分の気持ちとは乖離があることに。彼女は悲しかった、寂しかった、のです。内と外の間には大きなギャップがありました。「私は自分にうそをついている」と分かった瞬間、とめどなく涙は流れました。そしてうつは直りました。私たちは人間です。感情があります。気持ちがあります。このことを忘れてはいけないのです。豊かな感受性が復活するには、あるいは感受性を瑞々しく保とうとするなら、良い友人が必要です。しかも完璧な友人が。それはイエスさま。というのは人間には限界があるから。

 慰めが人を傷つけることも                 会社員 板倉美雪29(東京都板橋区)

 随分前の事になりますが、その日以来ずっと心に残っている事があります。私は生まれた時から嫁ぐまで、祖父母と同居していたため、核家族の方たちよりも、お年寄りに対する接し方や考え方が分かっているつもリでした。ある日、祖父の友人が訪ねて来ました。そのおじいさんは奥さまを亡くされたぱかりでした縁側で二人の会話が耳に入り、はっとしました。「おばあさんの分まで長生きしてねって、皆、言うんだよ。そんな言葉が一番つらいんだよ」と。それはそれは悲しい目をして話していました。愛する人を失った悲しみがどれほど大きいものか。人の分まで長生きする事って何だろう。必ずしも、それは残された者に対する思いやりの言薬ではないんじゃないか、と痛感させられました。文芸評論家の江藤淳氏が愛妻の後を追うように自らの命を絶たれました。私も結婚をした今、愛する人に対するおじいさんの思いが改めて心にしみました。(『読売新聞』1999.8.6)

 ところで多くの場合、人は欲求不満を物にぶつけます。野球選手がベンチに戻って来て、物を壊すのをよく見ますね。しかしお金がかかることを覚悟すればいいものかも知れません。もちろんリスクはありますよ。思いきって蹴飛ばせばねんざするかも知れません。もっとも効果があると無意識のうちに信じられている欲求不満解消策は身近な人を攻撃すること。人は人格です。人格を傷つけることくらいスカーっとするものはありません。人が苦しんで、こきみよさを感じる罪人の性格があります。でも不道徳です。イエスさまは、「それなら私を攻撃しなさい」と言われます。さすがに救い主です。あなたが十字架を受け入れる、それはイエスさまを傷つけることをすることです。あなたの罪がそうします。そしてそうすることは良いことです。あなたが救われるために。ちなみに悲しみや艱難(3)が避けられないのが人生であるなら、なんとか解消策を手に入れなければなりません。
 ノーマン・ヴィンセント・ピールが悩んでいる友人にこう切り出しました。「そんなに悩んで……悩みのない世界に連れて行こうか」と。すると友人は「そりゃーありがたい!それでそれはどこにある?」「墓地さ!」
 イエスさまこそ最高の友人です。「私を傷つけなさい」と、とうとう命まで差し出されました。しかしそれでも身近に友人は欲しい。これもホント!ならば信仰の友はいかがでしょうか。きっと分かりあえる間柄になれますよ。しかし「友人がほしい、ほしい」と言うだけでなく、自分が友人になることも良いことです。幼い頃に両親を亡くした、一生独身を通した成功した実業家が四六歳で亡くなりました。遺産額が100億円に上りました。友人知人たちが見守る中で遺言書が開かれましたが、こう書いてありました。「あるとき○○さんが、孤独な私をピクニックに連れて行ってくれた。一生忘れられない思い出だ。○○さんに100億円遺す」

失敗の経験

 聖書を読みますと信仰の英雄が多数登場しますね。ほんとうに立派な人たちがいるものです。あこがれます。見習いたい思いにかられます。でも一方その立派さを見るだけなら、私たちは劣等感に捕われるでしょう。「私なんかにはとてもとても……」しかし聖書には愛情が溢れています。彼ら英雄たちの失敗も正直に記録されています。神の愛情です。何度も失敗するような者が信仰の英雄になれると教えているのです。では失敗するのはなぜでしょうか。人は不敬虔(6)であり、罪人(8)であり、弱い(5)からです。失敗するのは当たり前なのです。これが人間です。感謝しましょう。というのは神さまはあなたに教訓を学ばせようとしておられます。以前NHKで「一番美しい日本語は何か?」というアンケート調査をしたことがありました。345人の回答者のうち70%が「ありがとう」と答えました。美しいあなたはこの美しい日本語を話すべきではないでしょうか。失敗の経験こそ宝物です。それから実に多くのことを学ぶことができます。成長させてもらえます。

個性

 個性を神はあなたに与えておられます。個性は先天的なもと後天的なものとの二つに大きく別れます。前者は神が100%決定しているものです。体型であるとか、顔つきであるとか、親子でよく似ていますが、遺伝です。これが先天的なものの世界です。性格も親から受け継いでいる部分が大きくあります。後天的とは生育環境です。これはさらに神と人間の間で50%ずつに責任が別れます。3節から5節までのみことばは印象的です。人生には艱難があります。艱難のない人生はあり得ません。罪の世界に人は生きているのですから。しかしここで人生は分岐点に出会います。艱難を経験し、ふてくされ文句を言うのか、あるいはそれを前向きに捕らえるのか。前向きなら忍耐、練られた品性、希望へと、まさに明るい未来がそこにはあります。鍵は分岐点においてどう判断するか、です。これが個性です。前向きに判断する、それはとても良い個性と言えます。

 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(3-5)

 良い個性はどのようにして私たちのものになるのでしょうか。それは「神は私を愛して下さっている」と信じればOK。たった一個のパンを盗んで19年を獄中で過ごしたジャン・パルジャンは刑を終え社会に復帰します。しかし世間は甘くない。彼を暖かく迎え入れる人はいませんでした。そんな中で、ある日ミリエル神父のもとでひさしぶりに暖かいもてなしを受けます。ご馳走に舌鼓を打ち、やわらかなベッドの上に横たわります。ところがいざ眠ろうとしたときに目の前にはきれいな銀の燭台があるではありませんか。彼は少し悩みますが、自制心を失い、ひさしぷりに受けた愛を裏切り、盗んで逃げてしまいます。しぱらくして彼は警察に捕えられて帰ってきました。ところがなんとミリエル先生はそれは「私があげたものだ」とジャン・バルジャンをかばい、警察官を叱るのです。「ほら私が二つあげたんじゃない。どうして一つしかつ持っていかなかったの?」と言いながら残りのもう一つを差し出します。このとき、ジャンのかたくなな心が砕かれ、変わっていくのです。「常識と理性を越えた先生の愛に、キリストの愛とはこういうものなのか」と彼は悟ります。やがて彼は、成功を納め、のちに市長にまでなって行くのです。
 キリストの愛がいつもあなたの個性を輝かせるのです。