247 人間関係の鍵
聖書箇所[コロサイへの手紙3章12ー17節]
今回は人間関係の鍵と言うテーマで学びましょう。お互いに気持ちよく過ごしたいものです。一人で生きて行けない以上良い関係の構築を願うのはだれしもです。家庭でも、職場でも、学校でも、教会でも。さて、良い人間関係の鍵とは何でしょうか?
作家のなだいなだ氏の作品の中に私の心を打つ一つのエピソードがある。なぜそれが私の心を打つかというと、それはきっと私自身が同じような失敗を多く犯してきたためであろう。話の内容は大体次のようなものである。精神科医として駆け出しのころ、なだいなだ氏は病院の女子病棟を受け持つ。そこに、歌子という、小柄でかわいらしい女の子がいた。ちょっと見たところ十七歳くらいににしか見えないが、実のところ三十近かった。ところでこの歌子は、一言も口をきかず、古びた着物をだらしなく着くずし、メンスのときもそのままである。看護婦が世話をしてやろうなどと近寄るものなら、こわい顔をしてにらみつけるのである。その形相は恐ろしく、口を開くと八重歯が牙のように飛び出し険悪な表情を作る。それがため、まわりの人は何かたじろがずにはいられなかった。そこでベテランの看護婦は、若いなだいなだ氏に、ーー先生。歌子ちゃんは、そっとしておいたほうがいいですよ。
医者になりたてで、どんなむずかしい病気も直してみせると意気込んでいた彼の耳にはそんな忠告も入らなかった。ーー歌子ちゃんは、呼んだって来ませんよ。
こう言われて、彼は自分の方からのこのこ病室まで出かけた。歌子はたった一人で火の気のない火鉢を抱えるようにうずくまっている。
ーー歌子ちゃん、歌子ちゃん。
こう声をかけながら、彼は彼女の前にかがみこみ、話しかけようとした。しかし彼女はじっと重苦しい沈黙の中にとどまったままである。その沈黙に気おくれしながら、しゃべり続けようとした瞬間、火箸が飛んできた。なだいなだ氏によると、こうした出来事に彼の精神科医としての生活の中で、後にも先にもこれがただ一度の経験だった。ところがこんなことがあったあとも、なだいなだ氏はなんとか直してやろうといろいろと手を尽くす。当時は今日のような良い薬はなかったのだから、さぞかし医者は苦労したにちがいない。さて、こうした努カのかいあって、一か月くらいたったある日のこと、一人の看護婦があわただしい足音で医局に駆けつけてくる。
−ー先生、歌子ちゃんが変わりました。歌なんか歌っているんですよ。見ると、驚いたことに彼女は歌っていた。言葉は聞きとれなかったが、ほんのかすかな声で、切れ切れに、古い小学唱歌のメロディーを歌っているのである。なだいなだ氏の心は踊り、勝利感のようなものに満たされる。こうして、彼女は少しずつ医老にも慣れ、まわりに対する警戒も薄らいだように思われた。ところがある日、なだいただ氏は歌子の姉の訪問を受ける。親がわりの彼女が引っ越しをするので、その近くの病院に転院させたい。ついては車で連れていく途中に暴れられると怖いので、注射で眠らせてくれというのである。彼はしばらく考える。こうした要請を受けて、心にひっかかることもきっとあったにちがいない。しかし若さのゆえであろうか、彼はこう結論づけてしまう。
ーーどうせ転院して行くのだし、今さら彼女のことを聞いて何になるというのか。
彼女の転院する日、注射で眠らせれぼいいのだ。私にはその仕事しか残っていないのだ。さて、転院の日、彼は薬を注射器につめさせ、歌子を呼びにやらせた。すると驚いたことに、彼女は素直に廊下までやって来たのだ。まれにしか見せないような笑顔とともに……。だが、注射器を見たとたん、その笑顔は消え、そしてあの激しい形相に変わった。麻酔の効き始める中で、なだいなだ氏は初めて歌子の声を聞く。
ーーやっぱり、おまえもうそつきだったんだな。おまえあたいをだますんだな。ほんとうの話をしようとはしないんだな。おまえも、おまえも。
なだいただ氏は言う。「それが、私の、歌子の口から聞いた最初の、そして最後の一言だった。一時はおしではないかとも思った彼女が、はっきりと叫んだ、まぎれもない日本語だった。私は注射をしながら、もしかしたら彼女は今日、私の診察に素直に応じ、私と話をしたかも知れなかったのだ、という気がした。そのチャンスは永久に失われてしまった。……私はその時、自分がたとえようもないものを失ったような気がした。いや、失ったのではない。はじめから私に欠けていたのだ。……私は彼女にこたえるものを持っていなかったのだ。」(『なだいなだ全集4』筑摩書房「患者は先生です」の項)(『より良い人間関係めざして』いのちのことば社工藤信夫)
あなたにはもうお分かりですね。それは愛!心の中に愛があれば、OK!愛があれば、私たちのことばは温かくかつ思いやりのあるものになります。反対に良くないものがあれば、たとえばねたみがあればそれらしいことばを発するものです。それはそのまま人間関係に反映されます。今回は愛について学びましょう。愛とは?
人を受け入れる
許容する、寛容である(12)、互いの違いを承認するなどなどさまざまに表現はありますが、どれも同じことを意味しています。ただし誤解しないでください。相手の意見を受け入れることは賛成することとは異なります。賛成はする必要はありません。「あのお花、きれいね!」にはおおむね人はだれでも異を唱えることはないでしょう。でもにんじんやほーれんそうでは?きっと好き嫌いは出てくるでしょうね。「私、ほーれんそう、だーいすき!」と言う人がいても、もしあなたが嫌いだとして、きっとむきになることはないでしょう。「ふーん、そうなの……」というふうに。しかしことが人間関係になるとそうは問屋が卸さないのです。つい感情が、自分の思い込みやら、願望が入り込みます。でも冷静に、「ふーん、そう思うんだ……そのような受け止め方もあるねえー」と。これが許容です。人にはさまざまに事情があるものです。
私は中学生のころ生徒会の役員をしていた。その当時は、遇番制度というのがあって、月曜日の朝礼の時に全校生徒に向かって今週一週問の目標を決め、週末に報告するということをしていた。私はあるとき、「遅刻をしないように」という目標を掲げ、毎朝校門の入口に立って、遅れて来る下級生に注意を与えていた。ところが、同級生の一人がどうしても遅れて来るのである。私はそれを見て、いつもイライラしていた。というのは、この人が遅刻しなけれぱ、「今週はとてもよく規則が守れました」と言うことができ、役員としての私の力量が評価されるからである。私の心の中には、いつも彼へのさぱき心が働いていたわけである。ところが、一年ほどしたある時、私は彼の事情を耳にした。彼の父親は三年前から刑に服しており、母親は、生活苦と将来への不安のあまり、子供三人を置いて行方をくらましているということだった。彼は近所の人の好意で、ある家の屋根裏を借りて、弟や妹の面倒を見ていた。また、生活の糧を得るため、朝五時半からリヤカーを引いて朝市に物を連ぶアルパイトをしていて、帰ってから弟妹に食事をさせ、小学校に送った後、登校するという毎日だったのである。私はそれを聞いたとき、子供心にも、彼に対して"なんと申し訳ないことをしてきたのだろう。と思った。……一体、私は何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。彼がいつも遅れてくる"という、規則に合わないたった一つのことのために、私自身が焦り、彼に対して苦々しい思いを抱いていたのである。.大切なことは、ある人があることをできていないとき、きっとその人にはその人なりの事情があると考えてみることである。新しい人間関係に求められるもの、それは私たちが自分をさばきの座に置くことではなくて、良き理解者であろうとすることではないたろうか。聖書は「あなた方が裁く通りにさばかれ、あなたがたが量るとおりに量られるからです(マタイ7:2)と記している。(『より良い人間関係めざして』いのちのことば社工藤信夫)
もしあなたが人を受け入れることをなさるなら、あなたはおおいに人間として成長させてもらえるでしょう。大きな器になって行くでしょう。単純なことです。小さな器には多くの物は入りませんが、大きな器ならたくさんのものを入れることができます。どうか二つの大切なことを知ってください。一つは神は一人一人を異なるものと造られた。私の教会グループには現在9つの教会(チャペルと称します)がありますが、それぞれ礼拝の形式も異なりますし、雰囲気も異なります。つまり文化が違っています。これがまた私には愉しみです。出かけて行く時にどんな珍しいことに出会えるかなーという期待感があります。異なるものや世界との出会いくらいわくわくさせられるものはありません。あなたはそう思いませんか。もう一つのことは、距離。お互いに適切な距離を持つのがいいでしょう。プロクセミックスという名の学問があります。興味のある方を研究なさるといいでしょう。生きているものの間にはそれぞれ適切な距離があります。動物の研究からスタートしていますので、まずは動物の例から。一番有名なのは犬が電信柱におしっこをかける、あの姿。縄張りがあるんですね。鮎の友釣りという釣り方がありますが、これは鮎の習性を利用したものです。その習性とは自分の縄張りに侵入した鮎には体当たりして来るというものです。おとりに体をぶつけて来たところを針でひっかけるというわけです。馬の場合も興味深いものです。人間などが近付いて行きますと逃げます。これを逃走距離と言います。さらに近付き、柵などで逃げられないと攻撃して来ます。これを攻撃距離と言います。また、群れをなしている馬はお互いに一定の距離を保っていますが、これを固体距離と言います。人間関係でもこれが参考になります。あまり近付き過ぎると、こじれる場合があります。そうしたときには少し距離を取ればいいのです。しばらくしてまた接近すればいいでしょう。こうして互いの間に適切な距離が認識されるようになります。いわゆるべたーっとした関係は決して良くありません。適度の距離を維持することが良い人間関係のこつです。お互いに異質なもの同士、適切な距離を維持してこそ、建設的な影響の与えあいが生まれるというものです。
聴く
12節には、深い同情心、慈愛ということばが登場します。心を聴くということでしょうね。気持ちを聴く、気持ちが通じるといった日本語で表現する世界でのことです。
昨年の夏の日のことである。私は小学四年になる娘とその友達数人を連れて、遠くまで遊びに行った。三歳になる男の子もお荷物のようについて来た。車が中国縦貫を通って宝塚付近にさしかかったとき、はるか前方に岩肌をあらわにした山々が見えた。子供の目にはそれが奇異に見えたのだろう。三歳になる子供が、「お父さん、あのお山どうしたの?」と聞いた。私は、「うん、お家を建てるために、お山をくずしているの」と答えた。すると、この子はフーンというふうにうなずいて、それを眺めていたが、しばらくして、「お父さん、お山、痛い痛い言って泣いてるね」と言った。私はビックリした。三歳の子が山の痛みを代弁(?)しているのである。(『より良い人間関係めざして』いのちのことば社工藤信夫)
大人である私たちはどう受け止めるのでしょうか。「お、最近、景気が回復してきたのかなあー」でしょうか。
デパートに勤めている鈴木さんは、休みが平日だ……去年家でひとりでテレピを見ていて……偶然、幸子さんの姿が映つた。学校へ行くふりをしていったん家を出、その辺を一回りしてから、だれもいないと思って家へもどってきたのだ。鈴木さんは絶好のチャンスとばかり自分の前へ座らせた。
「おまえ、どうして学校へ行かないんだ?」
「いやなら辞めたっていいんだよ」
「しかし、いまどき高校も出ていないんじゃ、世間へ出ても通用しないぞ」
「どうなんだ?おまえの問題だぞ」
「なんとかいったらどうだ」
「どうして黙ってるんだ!」
幸子さんの涙で、こたつのふとんがぐっしょりぬれた。結局、口にしたのは説教とおどし。これでは確かに何かいい言いたくてもいえません。(『より良い人間関係めざして』いのちのことば社工藤信夫)
もし私たちが心を聴くといった性質を自分自身の中に育てようとするなら、イエスさまのご人格を私たちの中に育てる以外に道はありません。それはどのような性質でしょうか。ちょうど分かりやすい例があります。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9:1-7)
弟子が犯人探しをしていますが、まだまだ修行が足りませンねえ。目が見えない人の気持ちがちっとも分かっていません。その人の気持ちをそっちのけにいったいどんな議論が役に立つと言うのでしょうか。イエスさまはこの盲人の現在の必要に焦点を当てていらっしゃいます。ここに、深い同情心と慈愛が見られます。人の心に聴こうとするイエスさまのおこころがよく分かる出来事です。お互いにイエスさまのような性質を内に育てて行きたいものですね。それには自分の生き方に自身を持つこと。「私はこう生きる、こう生きている。これが私の生き方だ!」というふうに。ぶれない、という言い方がありますが、あなたは生き方において、あるいは生活の中で周囲の影響を受けやすいですか、つまりぶれやすいですか。イエスさまは持ち上げられたり、落とされたり、いろいろに取扱いを受けましたが、決してふらふらすることなくまっすぐに進まれました。前方には十字架がありました。目はまっすぐと十字架の方を向いていらっしゃいます。救い主として生きる、これには何の迷いもありません。あなたの生き方はどのようなものでしょうか。自分の生き方が確固としたものであれば余裕を持って人の話にも耳を傾けることができます。またそうする人はイエスさまのようなすばらしい人格を養っています。イエスさまはしっかりと父なる神さまを羅針盤としていらっしゃいました。
赦す
赦すこと、これこそがキリスト教です。キリスト教の神髄です。中心となるメッセージです。
アフリカのルワンダから来た1人の牧師の話を聞いたことがあります。ルワンダといえば、部族間の抗争で百万人が殺された国です。アントン・ルタイサーというその若い牧師は、ツチ族の出身で、5歳の時、近所に住むフツ族の人々に目の前で父親を殺されたといいます。友達の多くも殺され、心に深い傷を負いました。やがて十代になってルタイサーさんは聖書のパウロの手紙を読み、キリストの十字架によって自分が神さまに受け入れられ、救われたことを信じました。しかしその時、一番手放すことができなかったのは、家族を殺した人々への憎しみであったといいます。「目の前で父親を殺した人々を赦さなければならないのですか、と神さまに問いました」。毎日、悶々とした祈りが続きました。そして、1つの結論にたどり着いたのです。イエスは父親を殺したこの人々が救われるためにも十字架で死なれたのだと。赦せない人々の名前をリストに書き、「この理由でこの人を僧んでいます」と一人ひとりの名前を挙げ、「イエス・キリストのゆえに赦します」と祈りました。「主イエスの前に泣きながらくずおれて祈りました。泣き疲れて寝てしまい、起きて家族を殺した人々を思い出したら、また彼らの名前を挙げて祈ることにしました」その後1994年の大量虐殺
が起こりました。「クリスチャンになった後の私にとって大きな挑戦でした。けれども主は『あなたにあげた十字架を保ちなさい』と示して下さいました」この同じ年に、ルタイサーさんは牧師になりました。そして刑務所に出かけていき、虐殺犯たちを訪ねました。そこで自分の体験を話し、キリストが十字架にかかったのは人の罪を赦すためだと信じる信仰によって、どんな罪も赦される、と聖書のメッセージを伝えました。それを聞いた囚人たちは真剣に尋ねるといいます。「イエスが十字架で流された血が、ほんとうに私の犯したこんな罪をも洗い流すというのですか?」と。そして、それが本当なのだと知った虐殺犯たちは、自分が殺した椙手の名前を挙げで罪を告白し、赦しを求めるのだそうです。(『クリスチャン新聞福音版』2003.10.1)
赦す者はなんと言っても聖さにおいて優れています。神のご性質はこれです。だから赦す者は神にもっとも近いと言えます。なんという光栄なことでしょう。イエスさまにたくさん赦していただいたことを覚えましょう。いかがでしょうか、あなたは。たくさん罪を赦していただいたでしょうか。
結局の所、何が愛を育んでくれるのかと問えば、謙虚さが愛を私たちの中にに育むのです。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(12-15)
「選んでいただいた、召していただいた、聖くしていただいた、なんとありがたいことだ!」という素朴な感動と感謝。この感動と感謝は謙虚さから来ます。