248 悪霊への対処法を学ぶ
聖書箇所[ルカの福音書11章13ー26節]
愛の神がこの世界をお造りになり、そこで私たちは生活をしているのですから、安心はしていられます。しかし罪が世界に入ってから、その影響でさまざまな悪さを私たちは受けます。その一つが悪霊によるものです。聖書箇所はイエスさまが悪霊の追い出しをなさった場面です。それをする人をエクソシストと呼びますが、現在もいます。その世界のプロフェッショナルです。ちなみに悪霊とはサタン(悪魔)の子分です。もと天使で、堕落して地に落とされました。さてこの場面は、「悪霊に憑かれた」と言いましたが、こういう例は数から言ってもまれであって、多くの場合は「悪霊の影響を受ける」ことが私たちにとっては課題になります。「影響を受けた」場合にはどうなるか、三つ指摘できます。
1)全体的に暗い沈んだ生活と人生になる。
2)神の前に無意味な人生になる。たとえばこの世で高い評価を受けていても、神によって評価されない人生は空しいものです。
3)人間関係が破壊的です。
さて聖書の考え方は目に見えないもの、世界こそ本物、というものです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(Uコリント4:18)
目に見えない世界こそリアリティ。目に見えない悪霊の世界について学んで影響を最大限に避けるすべを入手しましょう。霊的洞察力を身につけましょう。まず、参考となる大切なことをお知らせしましょう。それは悪霊の大好物とな何か、です。
1)空っぽ
2)暗さと否定的
ではどう対処したらいいのか。それはこれら大好物を悪霊の前にぶら下げないこと。馬の鼻の前ににんじんをぶら下げれば自分の方へ引き寄せることができます。なければ来ません。これが原理です。つまりあなたの心の中を悪霊の好まないもので満たすこと。それは何?さあ学んで参りましょう。
良い考え
前向きな考えであり、積極的な考えです。どんな場合でもこうであれたら理想的です。しかしそうはできない、のが普通の人間の現状。それが14節以下に見ることができます。
イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。(14-15)
悪霊を追い出していただいて、おしが直ったのです。一緒に喜んだらいいではありませんか。でもそうしないのです。変な理屈を言っています。ベルゼブルとはサタンのことです。親分が自分の子分を追い出すでしょうか。なぜこんなつじつまの合わないことまで言って批判をするのでしょうか?答えはたった一つ。ねたみです。ねたみは恐ろしいもです。最終的な目標は相手の人を地上から抹殺すること。相手の人もまた神の大切な財産。神の所有するものを勝手に破壊し、地上から消し去ろうとする、これは大きな罪です。でもねたみは人をしてこれをしようとします。ねたみは悪霊により導かれるものであり、悪霊が非常に好むものです。悪霊に導かれた人はどんどん深みに入り、そこから抜け出ることができません。聖書に登場するもっとも有名な場面はサウル王のケースでしょう。
主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。(Tサムエル16:14)
サウル王はダビデをねたみ、やがては殺しを実行に移します。ねたみはこのように恐ろしいものであり、大きな罪です。もっともっと前向きな考えを持つような者でありたいものです。そのためにはやさしいイエスさまとの出会いが有効です。
富と才能に溢れたジョージ・マセソンは、グラスゴー大学に在学していました。しかし突然眼を病み失明してしまいました。泣きっ面に蜂とはこのことでしょう。恋人から婚約破棄を告げられ、暗やみのどん底に突き落されました。しかし彼はこの絶望と孤独をとおしてキリストと出会い、大学を優秀な成績で卒業し、牧師として、生涯を神様にささげて歩みました。その出会いとは……。ある日、彼は海辺の家に一人で滞在していました。この時彼は非常なさびしさと悲しみに襲われましたが、その瞬間、「私はただ一人ではない。神様の愛が今この私に向けられている。神は今私とともにいる」という思いに満たされました。神の愛のやさしさの迫りを感じました。この時彼は変えられたのです。
優しいの優は人を憂えると書きます。「どうしてる?元気にしてる?」と思いやる心。こういう心は傷を持った人が自らに養っているものです。汗を流し、辛い思いを重ねて来た人が優勝します。それは優しさに勝れた人です。世界でだれが一番優しいのでしょうか。もっとも大きな傷を受けたイエスさまです。事故で首から下が動かなくなった星野富弘さんはこういう詩を書いています。
わたしは傷を持っている
でも その傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる
あなたには傷がありますか?その傷からイエスさまが見えますよ。優しいイエスさまが見えて来ますよ。またイエスさまもご自身の傷からあなたを見ていてくださっています。人間はインプット(入力)されたものをアウトプット(出力)するものです。幼児虐待の被害者は同じことをする加害者になると言われます。「ない袖は触れない」と言われる通りです。持っているものだけを使うことができます。優しいイエスさまとの出会いが、イエスさまの優しさがあなたの中に入り、あなたを祝福し、前向きな考えを持てるようにしてくれます。
良い習慣
汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(24-26)
汚れた霊が出て行きました。これは良いことですね。しかし問題が発生しました。この場合、アフターサービス、アフターケアが必要でした。空っぽになってしまった後に、何の手当てもなかったので、何かが起こりました。何が起こったのか、それも上の聖句に明らかですね。アル中や薬物中毒を治療する場合に、大切なことはこれら悪い習慣を止めた後に、代わりのものが提供されなければいけないということです。その代わりのものが良い習慣であれば最高!趣味やサークル活動など。つまり健全な目標が必要です。私は東京の教会で救われました。めぐみ教会と言いました。そこで代表を勤めていた先生が私によくこういうことを聞いてくださいました。「井上君は、何がしたいの?」私はこの質問に面喰らいました。それまでの人生でそのように聞かれたことがなかったから。いつもいつも「あれをしろ、これをしろ、あれをしてはいけない、あれもしてはいけない」と言う言い方しかされて来なかったからです。新鮮でありましたが、戸惑いました。やがてその意味が分かる時がやって来ました。「君の人生を舞台にどんな夢があるの?この教会を舞台に何をしたいの?」ということであることが。嬉しくなりました。つまりは自分の生き方を探しなさい、の意味です。それがないと他者をねたむことから解放されにくいのです。どうしても他者の動きが気になって気になって仕方がなく、落ち着きません。どうか神さまから目標をいただいてください。神さまから来たものであるかどうかは簡単に判別できます。自分もわくわく、近くにいる人もわくわく、これです。神さまは目を細めてあなたの動きを見守り、応援して下さるでしょう。
メキシコに暴風神父がいます。メキシコでは失業者が300万人以上に及ぶと言われています。したがってストリート・チルドレンとなって、子どもたちが町にあふれています。そういう子どもたちはカトリックの神父さんを慕って来、とうとう80人の子どもたちが寝起きする孤児院ができてしまいした。この孤児院を支えるには、月に35万円が必要ですが、それを稼ぐために神父さんは覆面をつけたプロレスラーに変身するのです。だから「暴風神父」(フライ・トルメンタ)というのです。ファイトマネーが1回2万5干円、年に240回もリングにあがります。孤児たちの応援にも熱が入ります。勝てばファイトマネーは多くなり、その日の食卓は賑やかだから。「私は少年の頃、麻薬におぽれました。その時、親や神父に相談しても、相手にされませんでした。そこで私は、神父になろうと思いました.同じような悲しみを抱えた子どもたらを助けるためにね」ショメトラ敦会のセルヒオ・グティエレス神父はこう言います。孤児たちにも恵みですが、彼自身にもすばらしい目標でもあります。
良い人格
24節で「帰ろう」と言っています。そして実際に帰ってしまいます。ことばって本当に恐ろしい。なぜ?その通りになるから。私も23年前に現在の勝利教会を建てましたが、ことどとくことば、つまり宣言した通りに実現しています。私はいままで病気らしい病気をしたことがありません。風邪だってひきません。あるとき、ちょっと高慢になって「風邪でもひいてみたい」っていったんです。たちまち風邪をひいてしまいました。三日間辛い思いをしました。新鮮ではありましたが、実に辛い三日間でした。もう二度とこんなことは言うまいと思いました。ことばには造り出す能力があります。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1-3)
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:1-3)
ではことばはどこから発するのでしょう。それは人格から。人格からことばが出てきます。
人生にはただ一つの義務しかない。それは、愛することを学ぶことだ。
人生にはただ一つの幸福しかない。それは、愛することを知ることだ。
神学者テイヤール・ド・シャルダンのことばです。とてもすばらしいことばではありませんか。ことばからその人の人格を知ることができます。またことばは人間関係を大きく左右します。
人間関係を和やかにするのに、「の」の字の哲学というのがあります。例えば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」といった時に、知らん顔して、その言葉を聞き流したり、「私だって、一日結構忙しかったのよ」と自己主張したのでは、二人の問はうまくゆきません。その時に、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることが大切なのです。友人が、「私、海外旅行に行ってきたの」と言えば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」と、おうむ返しに言葉をそのまま繰り返して、相手と共感することが、相手への真の優しさとなります。私たちはとかく自分本位になりがちで、共感する前に、自己主張をしがちです。相手が感じていることを、そのまま受け止めてあげる前に「私だって」とか、「私なら」と比較してしまいがちになります。自分が感じたことのない気持ちには共感できないので、そのためには、いろいろと自分も経験することが大切になってきます。ただ、ここで気をつけないといけないのは、同じような経験でも、他人のそれに対する感情と、自分のそれとは同一ではあり得ないという事実です。子どもをなくしたことのない人より、その経験をした人は、今悲しんでいる人に共感を抱き易いとは思いますが、一人ひとりの経験は独特なものであって、決して同じではありません。その事実に対しての、「全く同じ経験はあり得ない」という醒めた目と、「しかしながら、自分の経験から少しでもわかってあげたい」いう温かい心が必要なのです。」「慰めてくれなくてもいい。ただ、傍にいてください」といわれたことカあります。ただ「悲しいの」「苦しいの」と受けとめてくれる人-キリストは、そういう人でした。「の」の字の哲学の元祖だったのです。(『目に見えないけれど大切なもの』PHP文庫 渡辺和子)
ことばはさらに信仰を造ります。信仰の要はと言えばそれは自由。自由なくして信仰は存在し得ません。人からひどい目にあわされた、だから「憎む」。これでは自由がないではありませんか。「愛する」という選択肢も存在するはずです。
アウシュビッツで捕虜生活をおくったヴィクター・フランクルはこう言います。
人間の自由とは、諸条件からの自由ではなく、それら諸条件に対して、自分のあり方を決める自由である。
その通りです。イエスさまは「十字架で死なない」選択肢もありましたが、「死ぬ」道を選ばれました。彼の自由な選択でした。それの恩恵を私たちは受けています。でもどのようにして私たちは自由を得ることができるのでしょうか。あなたは自由ですか?環境に関わりなく正しい選択をすることができますか?悪霊の導きにまったく影響を受けないで済みますか?私たちはあるものを求めなければいけません。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(13)
聖霊の助けがあなたには必要です。どうかイエスさまを心の王座に迎えてください。それはイエスさまのおこころならそのようにしよう、聖書の教えることなら採用しようと言う決心をしていることを意味します。そうするならあなたの中ではいつも聖霊が強力にかつ温かく働き、あなたを悪霊の悪意ある働きや影響から守ります。あなたは真の祝福された生活を毎日楽しむことができます。
注:
■悪魔 悪魔は神に敵対する霊的実在として聖書に明らかにされている.もとは御使いであったが,高慢のゆえに堕落し,神から離反したと理解されている(イザ14:12‐15).悪魔はエバを誘惑して罪を犯させたのを初め(創3:1‐7),ヨブに神をのろわせようとし(ヨブ1:6‐19,2:1‐7),イエスをも試みたのである(マタ4:1‐11).そして今に至るまで,信仰者を堕落させようとして働いている(Tペテ5:8).その性質は執念深く(ルカ4:13),狡猾である(Uコリ11:3,14).しかし悪魔の力は,決して神にまさるものではなく,最後にはキリストによって滅ぼされるのである(ルカ10:18,黙20:7‐10).信仰者も,神に従い,悪魔に立ち向かえば,必ず勝利を得ることができるのである(ヤコ4:7).聖書では,もともとヘブル語で「敵対者」を意味する「サタン」が,悪魔の別名として用いられている(マタ4:10‐11,黙12:9).(本辞典「サタン」の項を参照).
■悪霊 旧約聖書の時代には,神の許しのもとに人の心を惑わし錯乱させる悪霊の存在が考えられていた.しだいに凶暴になり,ダビデを殺そうとして追い回すようになったサウル王が,その例である(Tサム16:14‐15.参照士9:23).新約聖書の時代になると,悪魔の支配下にあって働く霊的存在として認識されるようになり,イエスもまた使徒たちも,その力と戦っている.悪霊は人に働きかけ,人の中に入り込んで,精神的に,あるいは肉体的に病的な状態をもたらす.しかしイエスは,しばしば悪霊を追い出し,弟子たちにも悪霊を追い出す権威を授けて,人々を救いに導かれた(マタ8:28‐34,10:1,12:22,15:22‐28等).パウロは「惑わす霊と悪霊の教え」(Tテモ4:1)が人を信仰から離れさせることについて警告していることから,悪霊の働きは,信仰者の良心と信仰にも影響を与えるものであることが分る.
■汚れた霊 悪霊の別名として使われていることばである.イエス・キリストは,十二弟子に「汚れた霊どもを制する権威」をお授けになっているが,それによってあらゆる病気,患いを直すためであったと書かれているので,汚れた霊は人にとりついて,各種の病気や悩みをもたらすことが分る(マタ10:1).聖書にはこのほかにも,イエスが追い出した汚れた霊が豚に乗り移った出来事や(マコ5:13),人から出て行った汚れた霊が休み場を捜すことを,イエスが話していること(マタ12:43)などが記されており,汚れた霊の力は,キリストの力にまさるものではないが,主もその実在を認めていたことが分る.
■ベルゼブル (〈ギ〉Beelzeboul) 「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから,ましてその家族の者のことは,何と呼ぶでしょう」(マタ10:25).このイエスのことばが明らかにしているように,本来は「家長」とか「住居の主」(〈ヘ〉バアル・ゼブール)といった意味のことばであったものが,サタン,あるいは悪霊のかしらの別名として用いられるようになった.パリサイ人たちは,イエスが悪霊につかれた人を救われた時に,ベルゼブルの力によって悪霊を追い出したのだと言って非難した(マタ12:22‐24,マコ3:22,ルカ11:1)(『新聖書辞典』いのちのことば).