249 エクソダス
聖書箇所[ルカの福音書9章ー36節]
ここは有名な「山上の変貌」と呼ばれる場面です。山とはヘルモン山で標高3000メートルです。高い山は神の近いことの象徴です。頂上にまで行かれたとは考えにくいので中腹でしょう。三人の弟子たちを連れて、父なる神とお話をなさるためにお出かけになりました。では何のお話でしょうか?その答えが31節にあります。日本語では「最期」と表現されていますが、ギリシア語ではエクソダス。ギリシアに行きますと簡単に目につきます。出口という意味で使われています。英語ではエクサダス、これが日本語の聖書の書名としては出エジプト記。ただし語の意味としては出ること、脱出すること、解放されることです。イエスさまは父なる神とこのテーマで話し合われました。第一回目のエクソダスはモーセに率いられて成功しました。ここでは第二回目のもの、そして究極のエクソダス。その内容を今回は学んで参りましょう。
憎しみの世界から愛の世界へのエクソダス
モーセって聞いて、彼に関するイメージはどのようなものでしょうか。十戒を思い浮かぶ方は少なくないでしょう。ではその心は?その精神は?十戒は聖書のコア、核心、そしてエキスと言えるでしょう。ある時イエスさまが聖書の核心とは何ですかとの質問に答えて、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われました。十戒の心は愛です。あなたは愛の世界へエクソダスし、そこに留まらなければなりません。それはだれもが憧れる美しい世界です。聖書が教える美しい愛の世界を叙述した文章を見つけましたのでご紹介しましょう。
ささ<れた心をうるおす八つの「ふれあい」
この「ふれ愛」を分析すると、次のように分類できるでしょう。
(1)「求め愛」(求め合う愛)
人は、他人と関わることなしには生きられず、育つこともできない。他の人間との関わりを経て初めて、ヒトは人間になり、健やかに育ち、人間らしい生き方を営むことができる。「求め愛」は「ふれあい」の基盤である。
(2)「見つめ愛」(見つめ合う愛)
愛は、相手をより深く理解したいという想いや、理解するための行動を生む。「見つめる」とは、うわぺを繕った姿ではなく、相手の心を、部分ではなく、全体を理解することである。
(3)「語り愛」(語り合う愛)
相手と理解し合うためには、語り合いが必要。語り合うということは、心を開いて心を通わせ合うコミュニケーションになる。そこに、信頼に基づく愛が育つ。
(4)「響き愛」(響き合う愛)
見つめ合い、語り合う関係は、心が響き合う関係を育てる。相手の気持ちの共感、つまり、気持ちのこだまが生ずる。
(5)「ほめ愛」(ほめ合う愛)
どんな欠点をもった人にも長所はある。相手の短所を受容し、長所をほめ合う関係は和を育てる。また、個人の自信、自尊心を育む。それが短所を少なくし、長所を多くする基盤となる。
(6)「支え愛」(支え合う愛)
すべてに完壁な人はいない。人は互いに支え合い、助け合いながら生きていかねぱならない。「支え合い」は「癒し合い」でもある。人は皆、多かれ少なかれ病んでいる。親しい関係には傷つき合いは避けられないが、その傷や病に”手当て”ができる関係であれば、愛が育つし、心身の健康も維持できる。
(7)「赦し愛」(赦し合う愛)
相手の好まない言動を赦し合える関係は、愛に深さと広さ、そして長さを加えることができる。
(8)「睦み愛」(睦み合う愛)
これまでの七つの「ふれあい」の積み重ねが、睦み合いをもたらす。逆に、これらが欠けていれぱ「睦み合い」は生じない。……(『自分の心を癒す本』三笠書房 近藤 裕)
エジプトではイスラエル人が迫害されていました。信仰者として赦そう、赦そうと内面の戦いを続けていたでしょう。でも人間の弱さ。つい憎んでもしまいます。憎しみの連鎖は断ちがたいものです。そのような世界から足を洗って愛の世界へというのが第一のメッセージです。愛はあなたを真に幸せにしてくれます。では愛の世界で生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。それは愛の金持ちになることです。しかも自分を愛する愛の金持ちになること。扇子を考えてみてください。片方を神を愛することを考え、もう片方を人を愛することと考えた場合に、非常に重要なことは要の部分です。要が頑丈であればしっかりとじゃばらを広げることが、すなわち神を愛することができますし、反対方向へも広げる、すなわち人を愛することができます。自分を愛する愛の金持ちになる、そのために二つ考えられることがあります。一つは「私はイエスさまに愛されている」としっかりと信じ、かつ信じ続けること。もう一つは隣人を愛すること。というのは「与える者は受ける」というのがこの世界を支配なさる神の法則であって、愛を与えるあなたは愛を受けます。ちなみに隣人とはあなたの身近な人を指します。決して見ず知らずの困難に直面した人ではありません。隣人を愛しなさいとは日頃お世話になっていることに感謝の気持ちを持ちなさいの意味です。イエスさまにとって当時もっとも身近な人と言えば弟子たちです。その12人の弟子たちの中でも特にペテロ、ヤコブそしてヨハネの三人は別格でした。もっとも親しい弟子たちを愛するイエスさまのお姿をここで見ることができます。私たちに模範を示しておられます。
人のことばの世界から神のことばの世界へのエクソダス
さて、エリヤってどのようなイメージでしょうか。ご存じのように預言者です。神のことばを取り扱う者です。さて神のことばってどのような魅力があるのでしょうか。それは常に良いものを生み出す、造り出すこと。
みわざが現われるため
韓国ナザレ園の創設者菊池政一師の生涯から、真実の隣人愛の原点を知る
菊池師を信仰に導いた聖書のことばは「ただ神のみわざが彼の上に現われるためである」ヨハネ9:3であった。この時、イエスは伝道の旅で生まれつきの盲人と出会ったのである。これを見た弟子たちは、イエスに「この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか」と質問した。それに対するイエスの答えが冒頭のことばであった。「私はこの福音を受け止めて救われました。青年時代、東京で無理な苦学をしてすっかりからだをこわしてしまい、田舎に帰り、罪の呵責とひどい神経症に苦しめられ、そして止めどもない前世の因縁、先祖のたたりなどの日本教の教理に悩まされていました。その時、この因果論を打ち砕く福音の言葉を、白分の身に当てはめました」
信仰により、師の上には平安と希望の光がさしこみ、不安と脅迫観念は霧のように消えてしまったという。二十四才で受洗した師は、「主の十字架の宇宙最高の功績と価値を世に表現しなければ申しわけない」と使命感に燃え伝道者として献身した。その後、伝道に従事している中で、福祉事業を思い立ったのは、ある失明者の回心にあった。戦後まもなく栃木県K町に伝道した時である。一人の全盲の人が救われ、夫妻で受洗した。数年後彼は伝道者となり冨士吉田市に治療院を開きながら失明者にマッサージの技術を教え、点字図嘉を建てるまでになった。これに啓発された師は瓜連キリストの教会を牧会しながらナザレ園を創立、盲老人ホームや救護施設、特別養護老人ホームなどを増設するようになったのである。さらに師の働きは韓国慶州市で在韓日本婦人の保護のため韓国ナザレ園を開設するに至った。師はとくに二人の入園者のことを記している。一人は第三番目に入園した館さん。全盲で釜山の山中で露命をつないでいた彼女は、「一生ここで主を賛美して暮らします」と喜びの人に変わった。また京畿道の山中の穴倉から救出された全盲の山崎さんは、腰が曲がり、やせ細り、この世の人とは思えない老婆に見えた。戦後両親に死に別れ、一人異郷に取り残されてしま'つたという。その彼女は、園で一番元気に主を賛美する人に変わっていった。「この二人を擁護しただけでも園を作ったかいがあった」と師は記している。「神はみこころをなすために、信ずる者のうちに働き、志を立て、わざをなさしめます。罪深い病弱な、絶望の一青年だった私が救われ、神のみわざの参与者になったことはただ神の賜物です」と師の告白は、今でも不滅のメツセージである。(『チャペルタイムス』1999.6.10)
人間のことばではそうは行きません。良いものも作り出しますが、悪いものをも多く生み出します。カウンセリングで有名な柿谷正期先生はこういうことを話されています。ある精神病院で妻への謝罪のために右手中指を付け根から切り離し、郵送した夫がいたと。理由は妻の一言でした。「あの人のことばには誠意が感じられない」
ことばの持つ、恐ろしいほどの力です。
私バカよねおバカさんよね……
私バカよねおバカさんよね……
私バカよねおバカさんよね……
(細川たかし唄 なかにし礼作曲)
という歌があります。特に女性がカラオケなどで歌うことが信じられない!バカな女と結婚するのはバカな男、バカな女とバカな男から生まれて来る子どもはバカな子ども、バカな子どもが大人になって結婚する相手はバカです。
おれは河原の枯れすすき
同じお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすすき
(森繁久弥唄 野口雨情作詞)
これもなんと否定的な歌詞ではないでしょうか。このような歌詞は仏教の無常観を背景としています。多くの日本人の心を汚染している考えです。気をつけなければなりません。あるいは諦観思想です。このような良くない、不健全な思想に毒されていてはいけません。意識的に捨てるようにすべきです。もっと前向きにことばを使うべきです。
私は目が細いのですが、「起きているか、寝ているか分からない」と言われるよりは「謙虚なまなざし」と言われた方がうれしいです。ものは言いようです。前向きになるためには常に良いものを生み出す神のことばを自分への個人的ものと受け止めることが肝要です。そのための練習をご紹介しましょう。()の中にあなたの名を入れて大きな声で読んでみてください。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世( )を愛された。それは御子を信じる者( )が、ひとりとして[省略]滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
肉の判断の世界から霊の判断のの世界へのエクソダス
29節の光、輝き、そして35節の雲は聖霊のシンボルです。聖霊は天より下り、私たちの人生に決定的な良い影響を与えます。あなたの中に彼を感じることができれば毎日の生活は明るく気持ちよく、希望に満ちたものになります。それは彼があなたの中にインスピレーションを与えてあなたを納得させる働きです。その影響は地上にあるいかなるものも損なうことができない、実に強力なものです。あなたを幸せな思いにさせ、心には夢がいっぱい生じます。平安と幸せで満たされます。解放感にあなたは酔うことができます。私たちは幸せを物や金銭に依拠すべきではありません。
テルブルグにアカキエビッチという老人が住んでいました。「あなたの夢は何ですか?」と問われた彼は迷うことなく「あの毛皮のコートを着ることさ」と答えていました。ことばは先に学びましたように大きな力を持つもので、なんとそれが実現しました。彼はそのコートを着て毎日が幸せでした。しかし盗まれてしまいます。こうして彼は幸せを失ったしまいました。物でなく、金銭でない、確かなものに依拠して生きるときに真に人生を私たちは楽しむことができます。それにしても人生をもっともっと私たちは楽しむべきではないでしょうか。またそのための技術も持っているべきではないでしょうか。
玉ねぎ全部は売らないよ!
人生には、お金を儲けるよりも大切なことがあるという話しです。
メキシコ・シティーの大市場に、ポタラモという地元の老人がいました。彼は、20袋の玉ねぎをつるして商売をしていました。アメリカ人観光客が彼に尋ねて言いました。「玉ねぎ一袋、いくら?」「10セントだよ。」ポタラモは答えました。「二袋は?」「20セント。」「じゃあ、20袋全部買ったら?」と観光客は尋ねました。するとポタラモは答えました。「玉ねぎ全部は売らないよ。」「どうしてだい?玉ねぎを売るためにここにいるんだろ?」「いいや。」年老いた商人は答えました。「人生を楽しむためにここにいるのさ。わしはこの市場が大好きでねえ。群衆も、太陽の光も、風に揺れるパルメットの木も大好きだ。」友だちが立ち寄って『ブエノス・ディアス!』とあいさつしてくれるのも、赤ん坊や収穫の話しをするのも大好きなのさ。そのために、わしは一日中ここにすわって玉ねぎを売ってるわけだ。、全部をひとりの客に売ってしまったら、わしの一日が終わってしまう。大好き一日を失うことになる。そんなことはできないね。」(『クレイ』2002.6)
生きることを楽しむ技術を持っている人ですね。あなたはいかがですか?天を相手にして生きて行きましょう。明治維新随意の功労者である西郷隆盛はこう言っています。
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にせず、己を尽して人を咎めず、我が誠の足らなざるを尋ねんべし
天を相手にせよ!とはクリスチャンこそ口にすべきことばではないでしょうか。いちいち人のことばに影響を受けてあっちふらふら、こっちふらふら。天は神の御座。いつも神のおこころを心に留めておきたいものです。神のおこころとは実際の所、何でしょうか。
すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。(35)
エクサダスの経験です。たとえば、以下のようなという経験。
あなたの中にイエスさまが働いて普通ならできないはずのことができた。
私にはああいう人は不得意なんだけれど好きになることができた。
私は長いこと罪に深く悩んでいたけれどもゆるしをついに知った、ほんとに嬉しかったなどなど。
これらはいかなるものにも勝るものです。これらをあなたは大切にすべきです。これこそイエスさまがあなたのために命を賭けて獲得してくださったものです。イエスさまの死を無駄にしてはいけません。あなたはエクソダスして、新しい、その魅力的な世界に留まらなければなりまん。