252 ありがとう 2003年

聖書箇所 [詩篇92篇1ー5節]

 「終り良ければすべて良し」と言いますが、一年を終えるにあたってきれいに着地したいですね。あのオリンピックの体操選手が鉄棒から舞い降りて来るときのように。どのように気持ちを整理したらいいでしょうか。それには感謝すること。

 主に感謝するのは、良いことです。(1)

 では何に関して感謝したらいいのでしょうか?三つ考えましょう。

出会い

 出会い、これくらいわくわくさせられるものはありませんねえー、そうではありませんか。

 「別世界にいる人との交流はつねに刺激があって、有益で、おもしろい」(外山滋比古『ちょっとした勉強のコツ』)

 日本では京都大学出身者からノーベル賞を受ける人が多いのですが、一般的に言われるのは、理科系の研究者が文科系や社会科学系の研究者と交際できる、しやすい環境があるというものです。H2+O=H20。水素と酸素はもちろん異なった物質ですが、出会うとまったく異なる性質の、第三の性質のものが生まれます。出会いはあなたを新しくします。前向きにかつ素朴に感動を楽しんでください。というよりも、この一年ありがとう!と神さまに言いましょう。神さまはあなたの人生をすばらしくデザインしてくださっている方です。

 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

 出会いにもさまざまあります。人との出会い、物事との出会い、本との出会い、一つのすばらしい出会いを紹介しましょう。

       心打たれた出会い

 テープレコーダーから流れる三浦綾子の自伝『道ありき』の朗読に、若き日の新垣さんは心ふるわせた。人を信じられず自分の価値も分からない。命を絶とうとしたこともあるなんて、まるで以前の自分ではないか。沖縄駐留の米兵と地元女性の間に生まれた新垣さんは、生後まもなく助産婦の、ミスで失明。父はすぐ帰米し行方が知れず、母は幼い自分を祖母に預け再婚した。「なぜ自分だけが不幸なのか」と自らの誕生を呪い、心を閉ざしていた。転機は高一の夏。賛美歌を歌いたくて訪ねた教会で、自分のすべてを受け入れてくれる牧師と出会い、人の優しさを知った。その妻がテープに吹き込んでくれたのが、この物語だった。裏切られ、病に倒れ、捨て鉢になっていた三浦に自身が重なる。だが何より心打たれたのは、彼女を再び生へと向かわせた恋人前川の行動だった。三浦が死を思うのは、自分の力不足からだと、石を拾い足を打つ前川の姿に、新垣さんは「こんな出会いがあるのか」と驚かされたという。新垣さんは現在、コンサートで「人は出会いで成長する」と訴えている。「真実の出会いで人は変わり、他者にもそんな出会いを与える存在になろうと努力できる。そう気づかせてくれたのが、この本なんです」(『読売新聞』2003.10.27)

自我との葛藤

 この1年、あなたは自我との葛藤に悩んだのではありませんか。自我との葛藤、ちょっと難しい表現かも知れませんねえ。簡単です。「私はあの人を赦さなければならない、でもできない」「私はあの人を愛さねばならない、でもできない」私たちはこの種の葛藤を幾度となく経験するのです。「確かに私は悪かった、でもあの人の方がもっと悪い!」などと弁明は限りがありません。でもこの葛藤が良いものなのです。あなたは聖めてくれます。「聖め」とは聖書では本来どのような意味でしょうか。それは「他とは異なる」という意味です。「他」とは罪の世界です。罪の世界は依存の世界とも言えます。悪習慣への依存、たとえばアルコール、薬などなど。聖められるとはこのような世界から足を洗うことです。でも人間が依存から抜け出すのは難しいのです。何かに依存しなくては生きて行けない人間の弱さがあります。

     映画「男が女を愛する時」妻にではなく自分に"いい夫"

 どこから見てもすてきで幸せなアメリカのカツプルの、妻がアルコール依存症になってしまったお話。パイロットである夫は、絵に描いたような"いい夫"だ。仕事も妻の役目も母親業も完ぺきにこなそうとした妻が「疲れた」といえば、すぐ休暇をとって旅行に連れていってくれる。妻が酔えば介抱し、入院治療ともなれば、その間せっせと子供のめんどうを見る。退院してからだって、買い物からトイレ掃除までなんでもやってくれる。ちょっと見には「なんてうらやましい」といったところだが、この妻、感謝しながらも不満をつのらせる。どうして?と思ってよく見れば、観客も気づくはずだ。夫は妻が「自分でできる」ことまでぜんぶ取り上げ、ことごとく介入した上で「やっぱり僕がいなくっちゃ」と、悦に入るのだ。彼は妻を愛しはしても理解しようとはしない。妻を「ベイビー」と呼んで、妻を守ることを自分の生きがいとし、勝手に自分の支えにしてしまう。愛されることにしか生きがいを感じない女同様、女から必要とされなければ生きていけない男もいるらしい。実は彼こそ、妻依存症だったーー。ラスト、ひとまわり成長した妻の姿に夫が何というかは見てのお楽しみだけれど、ヨリを戻した二人には、これからもひともんちゃくもふたもんちゃくもありそうだ。(田嶋陽子=法政大教授)(『読売新聞』)

 悪いものに依存している時、私たちは自我との葛藤にはまる余地があります。ただし葛藤する人は幸いです。悲しいのは葛藤のない人です。葛藤こそが人間を聖めてくれます。葛藤を経験した人はその中で聖霊が働いていることを知り、感謝をすべきです。「神は私を聖めようとしてくださっている」と。人間が唯一依存していいのは(というよりも依存しなければ生きては行けないし、神に依存してこそ、あらゆる悪への依存を断ち切ることができます)神さまだけです。神さまからの聖い霊こそ歓迎すべきです。今年もありがとう!

苦しみ

 苦しみになぜ感謝をするのでしょうか?不可解ではありませんか。あなたは苦しみが好きですか?きっと好きな人はいないのです。ではなぜ感謝をしなければいけないのでしょうか。神さまはあなたの人生をすばらしくデザインしてくださっている方です。あなたはこのことを信じますか?

 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

 苦しみを通してしか得ることのできないものが私たちにはあることを知らなければなりません。苦しみを通してしか変えることのできないものが私たちにはあることを知らなければなりません。

 クリスチャンの水野源三さんは、1O歳の頃熱病にかかり脳性マヒと診断された。手足を使うことができず話すこともできない彼は、母の指す五十音表を見てまばたきで意志表示する。寝たきりで30有余年過ごし、1984年にその生涯を閉じた。すべての東縛から解放されてみもとへ召されるまで彼が作った俳句、短歌、詩などは4万にも及んだ。それらの詩歌がどれだけ多くの人々を慰め励ましてきたか計り知れない。

 いくたびも ありがとうと声出して言いたしと思い 今日も暮れゆく  (C0-ROM版キリスト教例話集より)

 脳性マヒで手足の自由と言葉を失いながら、瞬(まばた)きで意思を表し、数々の魂の詩を残した詩人、水野源三さん(一九三七-八四年)の生涯を描いたビデオ「瞬きの詩人」が完成しました。ビデオは、その純朴で飾らない詩で多くの人々に生きる希望を与えた源三さんの四十七年の生涯を、生まれ育った長野県埴科郡坂城町の四季折々の豊かな自然を交えて淡々と描いています。青年期の源三役に、自分自身も同じ障害を持つ多幡一郎さん、母・うめじ役を女優の日色ともゑさんが演じています。日色さんは「他の仕事が忙しい時期だったが、脚本を読んだ時にこれは絶対引き受けないといけないと思った。ようやく完成したが、参加してすがすがしい気持ち」と喜びを語っています。水野源三さんはその生前に出した数々の詩集によって"奇跡の詩人"といわれました。それは、絶望的ともいえる病の障害の中で、"悲しみよありがとう"といえるほどの生きる喜びを、人々の心に伝えたからです。十二歳のころ、一時的に片言を話せる時機がありましたが、その時、口に出た言葉は「死ぬ、死ぬ」という絶望的な言葉だけでした。その少年が、生きる喜びを知るきっかけとなったのが、十四歳の時、町に庄んでいたキリスト教会の牧師との出会いでした。その牧師が残しておいてくれた聖書を、母親の助けをかりて読み、どん底と思える人生にも、神の愛が注がれました。(『クリスチャン新聞福音版』)

 すべてのことは神さまのすばらしい頭脳において善意のもとになされています。あなたはこのことを信じますか?