255 パウロの人間的魅力
聖書箇所 [テサロニケ人への第一の手紙3章10節]
人生にとって幸せなのは良いモデルとの出会いです。お父さんとお母さんとがいつも仲良くしていれば子どもは「結婚っていいものだなあー」って思うものです。では人としての最高のモデルは?クリスチャンなら「イエスさま!」と答えるはずです。もちろん正解なのですが、ちょっと待って。というのは究極のモデルというふうに考えた場合は「神」というのが正しい答です。なぜって?人間って「神のかたち」に造られたからです。人は神の「人格」のイミテーションです。しかし神は目に見えないので見えるように人となってくださった、これがイエス・キリスト。さあこれで振り出しに戻りましたが、イエスさまを模範にするというのは話としては分かりますが、なにしろ神ですから、目標としてはハイレベルすぎます。そこで一段か二段か、果ては何百段かは知りませんが、ずうーっと下がってパウロをモデルにして研鑽に励みましょう、というのはいかがでしょうか。題してパウロの人間的魅力に迫る。このテーマに取り組む時、あなた自身にもあなたをメンバーとする社会(たとえば家庭や教会)にも良い影響を与えることは確実です。キーワードは4つ。
顔
私たちは、あなたがたの顔を見たい……(Tテサロニケ3:10)
良い人格は良い顔から。このようなパウロの台詞は彼らを喜ばせ、その顔には笑いがあったでしょう。しかしもっとも良い顔であったのはパウロ自身であるはずです。「最近、見ないねえー、たまには顔を見せてよー」なんて言われたら、だれでもうれしくなるでしょう。
私たちは、あなたがたの顔を見たい……(Tテサロニケ3:10)
でもこの、良い、顔を作るのが難しい!私も近頃、いやずうーっと前から写真を撮られるのがいやなのです。自分の顔に自信が持てません。「40過ぎたら自分の顔に責任を持て!」とはよく言われますが、「そうは言っても……」と弁明ばかり。そのくせ写真を撮ることは大好き!人間ってどうしてこんなに自分勝手なのでしょう。ある牧師の顔が地方新聞の一面トップを飾りました。自分の子が高校に合格、その発表の瞬間を捕らえたものでした。以来恥ずかしくて町を歩けなかったそうです。いつもおしとやかなのに、牧師として。
パウロの秘訣は遠くを見ることです。自転車に乗り始めの頃、ついペダルを見てしまいますね。危ないのですが、つい。先の方を見ているようにすれば安全です。転びにくい。パウロは天国を見ています。
私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)
ことば
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。(コロサイ4:6)
良いことばはその場の雰囲気を良くします。人間関係があたたかいものになります。「ありがとう!」の一言がとても良い雰囲気を現出してくれます。本屋さんに行きますと、話し方の技術を教える本がたやすく手に入りますが、そのいうことよりももっと根本的な対応策を考えましょう。それは心の状態。いかに話し方のテクニックを学んでも愛がないなら人には見抜かれてしまいます。話していることが正しくても、つまり正論であっても、人は気持ちよく受け入れるわけではないのですから、まして間違えればかえって人を悪い方向へと追いやっていまいかねない。人は必ずしも合理的に判断したり、行動したりするわけではないのです。オーソドックスに行きましょう。あなたの心の中で神の愛を味わってください。「私は神に愛されている」と何度も言い、それを味わうようにしましょう。発することばも暖かみを増して来ること請け合い。 パウロもことばで失敗する人でしたが、だんだん信仰の成長とともに、すなわち自分の中で感じる愛の質と量の増加に従ってことばもまろやかになっています。
助けられること
あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。(Uテモテ4:13)
個人的な用事を頼んでいますね。もともとパウロは他の人に助けられることが嫌いな人です。変なプライドがあります。人から助けてもらう時に素直であることができる人は成熟した人です。なぜなら他者に助けられないで生活できている人なんているはずがありません。助けなんていらない、受けたこともない、なんて思っているのは、見当違いもはなはだしい。高慢さがそうさせます。パウロがクリスチャンとしてはじめに学んだのは、と言うよりも学ばせられたのは、人に助けられることでした。やがて聖書から名が消えるアナニヤやバルナバ。彼らがパウロのキリスト教会デビューを支援しました。かつてのプライド高いパウロには考えられないことでした。人間には4種類あります。
A 人を助けて、人に助けられる
B 人を助けて、人に助けられることを拒む
C 人を助けず、人に助けられることだけを好む
D 人を助けず、人に助けられることもしない
Aが最善で、Dが最悪です。真に気持ちよく人を助けることができる人は、人にも気持ちよく助けてもらうものです。このやり取りが美しいのです。このバランスの良さがかけがえのなさです。もしあなたが助けられることに抵抗を感じているなら一つのことを知ってください。あなたを助けようとしている人は愛する練習をしていることを。何でもそうですが、練習なしには上手にはなれません。あなたはその練習を支援しています。あなたはその人を愛していますよ。愛する人は神の人。パウロは人を愛する人として成長して行きますが、まず、人の助けを素直に受け取ることからはじめたのです。もちろん世界で最高の愛、そして助けはイエスのあがない。あなたはこの助けをすなおに受けますか?
ゆるすこと
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:12-15)
私たちは互いに罪人です。つまり罪を犯す性質を持っています。解決はたった一つ。赦すこと、そして許すこと。
ある人が芝生を育てていました。ところがどうしてもたんぽぽが出て来るのです。彼は完全主義者でもあったのです。いらいらしていました。彼を愛する友人が助言しました。「たんぽぽを好きになったら」
ある牧師が毎日いらいらしていました。毎日午前三時になると犬が吠えるのです。毎日寝不足です。心の中で「殺してやるーう」隣では妻が熟睡しています。耳が悪いのです。彼女が言いました。「あなたも耳が悪くなったら」
神があなたを赦しました。あなたは罪を犯しましたし、今も毎日罪を犯しています。赦して下さったし、今も赦し続けて下さっています。神はあなたを受け入れてくださっています、ありのまま。あなたが愛されるのに何の条件もつけられていません。あなたは許されています。パウロは人を赦したり、許したりすることがほんとうに苦手な人でした。恩人であるバルナバとも喧嘩しましたし、人間と言うものは変わるのに手間ひまがかかるものですね。でもパウロは変わった!変えられた!神のわざです。あなたの人格もすばらしく変わります。変えられます。神は生きているのですから。そうしてあなたが変えられるのを神もあなたの周囲の人も待っていて下さるし、愉しみにしていてくださるのです。