258 辛い過去からの解放

聖書箇所〔申命記6章3−13節、へブル人への手紙12章5−13節〕

だれでも幸せでありたいと思っているはずです。しかし種々に障害物はあり、ある人たちはそのようなものの一つである過去に縛られています。ちょうどロトの妻が振り返って塩の柱にされてしまった(創世記19:26)ように、凍り付いてしまうのです。心身ともに身動きができなくなってしまうのです。今回は両親との葛藤という辛い過去からの解放というテーマで考えてみましょう。

父親との葛藤

 お父さんの役割って何でしょうか?それは権威と教育です。申命記6章7節を中心にお読みください。権威をもって子どもを教育するのがその務めです。したがって子どもは父親の指導に「ハイっ!」って従うべきです。と言っても「したがえーッ」と叫べばいいのではありません。子どもの側から従えるような状況がそこにはなければいけません。そしてそれが難しいのです。しかし父親の指導が子どもには一つのすばらしい恵みを与えます。それは生きるための基準を提供するというものです。これは、しかしたたき台です。「お父さんの教えてくれたこれはすばらしい。私の生きる上での一つの基準にしよう。でもあの習慣はいたただけないなあー、真似はできないなあー」というふうに。

子供に何を残すか

虐待を受けて育った子供は、その傷を負ったまま大きくなり、他の人を傷つけるようになります。私の友人で、不幸な子供時代を過こしたジョージという男がいます。彼は結婚関係で苦しんでいました。ある夜、彼は限界に達し、情緒的に爆発してしまいました。テーブルを何度も叩き、妻にこう言いました。「お前なんか嫌いだ。もう我慢できない。もうたくさんだ。いやだ!いやだ!いやだ!」それから数ヶ月後、彼は真夜中に目を覚ましました。すると、2歳の息子が眠っている部屋から、奇妙な声が聞こえてくるではありませんか。彼は階下に下り、息子の部屋の扉をそっと開きました。するとどうでしょう。2歳の息子が、父親が母親を罵倒したあの言葉を、やさしい声でくり返していたのです。「お前なんか嫌いだ。もう我慢できない。もうたくさんだ。いやだ!いやだ!いやだ!」ジョージは、大変不幸な方法で、怒りの感情を次世代に伝えていたのです。怒りや許せない心を処理しておかないと、人は自由にはなれません。それどころか、次の世代をも滅ぼしかねないのです。さてあなたは次の世代にどのような遺産を残そうとしていますか。(『クレイ』2004.4)

もしかするとこれを読んでいるあなたには父親との葛藤があったかもしれません。いまでもそれがトラウマになり、何かのきっかけで思い出され、辛さを覚えているかも知れません。きっとお父さんにも事情があったのです。一生懸命あなたを愛そうとしていたのです。でもそうできなかった。少なくとも子どもであったあなたにはその愛は届かなかった。そうなのです。でもあなたはお父さんを責めてはいけません。なぜならお父さんも一人の人間であって、決して神ではないのですから。人間には常に限界があります。弱さがあり、ゆえに失敗もすれば罪を犯します。ゆるさなければなりません。もしあなたがお父さんとの葛藤に苦しんでいるならここに克服するための良い方法があります。それは親替えをすること。地上のお父さんから天のお父さんに替えてしまいましょう。それには三つの手順を踏みます。

1)      天のお父さんの力と意志とを知ること。

1997年にアメリカでコンピューターと対決した日本人オセロチャンピオン村上健さんのことばが印象的です。六番勝負ですべてに負けました。ワシントンポスト紙のインタビューにこう答えています。「オートバイに負けたカールルイスの気分だ」、また「人間なら怖くて打てない手を平気で打ってくる。神のような強さだった」と。私たち人間は全能でもなければ全知でもありません。人間をはるかに越えた存在を承認しなければなりません。ときに苦しい場面があっても神は無関心でもないし、アフターサービス抜きでもありません。その神の意志が聖書のことばです。

2)      父のことばに従う。聖書の教えに従順であることです。人間のお父さんの意見や行動には誤りがありますが、これにはまったくありません。

3)      ときに悔い改める。私たちは罪を犯し、失敗もし、そればかりでなく良いものを破壊したりもします。許(赦)されますから、大胆に悔い改めましょう。あなたの正直さに対して天のお父さんは祝福をもって臨みますよ。

母親との葛藤

お母さんの役割って何でしょうか?それは愛情を与えること。愛についてはたびたび書いていますので今回は説明を省略しましょう。では愛は子どもに対しておもにに何を提供するのでしょうか?それは希望。信仰も大事、愛も大事。でも希望が必要不可欠です。希望を持っている人は幸せです。いつも心の中には目標があります。目標は毎日の生活をはりのあるものにしてくれます。果たして現代の子どもたちは目標を持って生きているのでしょうか。「将来何になりたい?」と聞かれて目を輝かせて答える姿はあまり見なくなったと思うのは私だけでしょうか。愛が希望を与えてくれるとすれば、母親に育てられた私たちは希望を持って生きられるはずです。しかし、なぜ?しかし?ここにお母さんの問題点があります。ちょうど良い記事を見つけましたのでご紹介しましょう。

クリスチャンの自立の助けに

日本ではまだ耳新しい言葉である「バウンドリー(境界線)」という概念は、神との関係を土台とした人間関係のこと。「どこまで援助したらよいのか」「やり過ぎていないか」などの自己確認ができ、「自立」という視点で適切な人闇関係を築く助けとなる。それが適切になされていないと、教会内でのカウンセリングや援助関係も難しい。丸屋真也師=(財)ライフ・プランニング・センター研究教育部長・臨床心理ファミリー相談室長=が、9月から来年3月まで新松戸リバイバルチャーチにおいて。5回シリーズで行う予定の「バウンドリ一セミナ一の概要を聞いた。丸屋師はまず、自立とは「相互依存」=人と適切な関わり合いを持つことであり、これに反する言葉に「共依存」というものがあると語る。次に、四つの概念を挙げた。@相手に対してNoが言える関わりA相手のNoを受入れる関わりB他人のYesが聞ける関わりC他人にYesと言える関わり。これら四つの関係をクリスチャン生活の中で考えた場台、「他人を愛さなければならない」ということで、他人が求めることに応えていくといったケースが考えられる。ある場合は良いが、もしやり過ぎるならば、本来相手がしなければならない領域にまで手を貸すことになり、ますます相手を依存的にさせてしまいかねない。バウンドリーとは、自分と他人との境界線という概念で、どこまでが自分の責任なのか、他人の責任なのかを明確にしていく。日本人の場合は共依存的な土壌の中で育っていることが多く、これが明確でない場合が多い。それゆえ適切な関係が育たず、互いの境界線を侵し合う危険性がある、と丸屋師は指摘している。また、バウンドリーの概念を聖書的に見たとき、三位一体の神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つの位格を持つが一つであり、それぞれの役割を持ち、且つ、互いの領域を侵さず天地創造、救いの御業、また、終末の計画に至るまで働いておられることが分かる。神と人間の関係においても、創造者と被造物という決して越えられない境界線がある。アダムとエバは「あなたは神のようになる」という非常に大きな誘惑を受けた後に堕落した。人間が人間としての境界線を知り、神を神として崇めるときに、神と人間の適切な関係が生れる。自分の限界を超えて何かを行うとき、一見、良いことのようであっても、他人との境界線や神との境界線を越えている危険性がある。「教会はキリストの体として様々な部分から成りたっています。自分ができないことを他の部分が補い、用いられていくのです。それぞれの働きを適切に果たしていくときキリストが崇められ、教会が真に地の塩世の光として用いられていくのです」と丸屋師は語っている。(『リバイバル新聞』2004.3.)

お母さんの弱点は自ら愛と信じて疑わずに、度を過ぎて面倒をみてしまうことです。境界線が不明確なのです。過保護と過干渉が大人となった、かつての子どもたちの成長を止めてしまったがゆえに悩ませているのです。次の新聞記事も同じテーマと考えることができるでしょう。付き合う相手との境界線がきちっと引かれていません。

異性と付き合う 寂しさ埋める家族不在

「先生、助けて…」。救いを求めて駆け込んできたのはA男だった。つい先日「彼女ができたんだ」と喜んでいたというのに。A男は勉強こそ苦手だが部活動や行事に熱心に取り組む生徒で、一つ行事が終わるたびに輝きを増し、女子からも注目され始めていた。恋愛にはどちらかというと不器用だったが、男女を問わず明るく話ができるタイプだ。告白は彼女の方からだった。彼女は違うクラスの生徒。初めて異性から告白されて、恥ずかしいながらもうれしさを隠せなかったA男は数日後OKの返事を出した。その返事と同時に彼女から約東事が提示された。「私以外の女の子と話をしないで!」初めての恋愛で、どうつきあっていいかもよくわかっていなかったA男は言われるままに承諾した。彼はその言葉を「他の女子を好きにならないで」と受け取ったのだが、彼女の要求はそんなものではなかった。もともと男女の区別なく、誰とでも仲良く話ができる生徒だったので、教室内でも今まで通り明るくいろいろな伸間と話をしていた。給食の時間も班のメンバーと会話が弾み、楽しい時問を過ごしていた。すると、ある日彼女がこう言ってきた。「私以外の女子と話をしないでって言ったでしょ!」。彼女の友だちがA男の教室での様子を逐一報告していたのである。次の日からA男の笑顔が消えた。給食の時問も自分から話をすることがなくなり、周りを気にしながらうなずくだけになってしまった。彼女に別れようとも言ってみたのだが、彼女の方は「別れてあげない。あなたは私のものだから」と言って彼をがんじがらめにしてしまった。実は最近、A男のような相談が増えている。いつからこんなに「告白」が安売りされるようになったかはわからないが、生徒たちは中学一年の時から付き合う相手を探しているのが実情なのだ。これは子どもたちの「寂しさ」の表れだろうか。誰かに自分の方を向いていてもらいたいという気持ちが、好き手を縛りつけてしまうのかもしれしい。本当はこの寂しさを埋めてくのは、「家族」だったのだろうが、「家族」という基盤が揺らぎ始めた現在、子どもたちは疑似恋愛で誰かを独占することで、その「寂しさ」を埋めているような気がする。被害者はA男なのだろうか、彼女の方なのだろうか。(学校研究会)(『日本経済新聞』2004.1.16)

 もしあなたがこのような事情でお母さんとの葛藤で苦しんでいるとするなら良い解決策があります。それは聖霊との正しい関わり方をすることです。

1)             十字架を信じる。信じる力は聖霊から来ますが、どのように信じるかがポイントです。私たちはストレスを抱えやすいものですが、そうした場合にごく身近な者を攻撃の対象にしてしまいがちです。家族のメンバー、学校の先生、友人、近所の人、先生など。決して地球の裏側の人が対象になることはありません。でも攻撃すること、すなわち憂さ晴らしをすることは良いことではありません。でもしたくなるのが人情。ではどうすべきでしょうか。十字架の上のイエスさまにぶつける、これが正しいのです。その代わり身近な人への攻撃はやめるべきですし、またそのようにできるはずです。

2)             賛美と祈りの中にいる。特に教会の礼拝プログラムの中でこれらを大切にすべきです。聖霊が特別に働きます。ちょうど温泉につかっているようなものです。霊魂の部分から温まりますよ。

3)             教会における交わり。お互いに尊敬する関係を築いていかなければなりません。男女、老若、親子などあらゆる関係において尊敬の心が支配すべきです。

 このような中にあなたが身を置き続ける時、あなたの内側にある傷(トラウマ)が聖霊によって癒されていくのを感じ取ることができるはずです。あなたの人生が、お父さんやお母さんとの葛藤から解放され、喜びに満たされた毎日でありますように。