261 十字架について(受難週、受難〔苦〕日にちなんで)
聖書箇所 [ルカの福音書23章33ー47節]
歴史の書物を紐解きますと、古代において採用されていた処刑の方法について知ることができます。
●むち打ち。
屈強な処刑人が鋭い金属片や魚・動物の骨などが結び付けられた太い皮製の鞭を、台の上にうつぶせにされ裸にされた背中めがけて力一杯にふるいます。ユダヤの歴史家ヨセフスは40回もこのように打たれると、避けた背中から内蔵が飛び出し死んでしまうと言っています。これと同じやり方ではないかも知れませんが、パウロも数多く鞭で打たれています(Uコリント11:24)。
●石打ち。
凹地に死刑囚を突き落とします。周囲を取り囲んだ群衆の歓声の中を証人が第一投。骨は砕け、肉は避け、地の海になり、塚ができます。クリスチャンとして最初の殉教者になったステパノはこの刑を受けました。
●死体との抱き合わせ。
死後数週間経過した腐乱死体を掘り出して来て、死刑囚の体に縛り付けます。死体の毒や蛆虫が彼の体を腐らせて行きます。1週間、そして10日と苦しみながら死んで行きます。
●十字架。
強烈な日ざしを浴びながら木陰に急ぐ虫をピンで止める。虫は手足をばたばたさせながらやがて動きを止めます。これがヒントになったと言われています。十字に組まれた2本の木材の上にいやがる死刑囚の体をむりやり押し付けて両手首に、そして両足を揃えさせ、その上から犬釘を打ちつけます。痛みはその十字架を地上に立てたときになおいっそう激しいものとなります。余りの激痛に顔はゆがみ、気絶します。気を取り戻しては再び激痛に苦しみます。その残酷さのうえにローマ政府はローマ人への適用を禁じました。イエスさまはこの十字架で処刑されました。今回は十字架について学びましょう。
神の正義のシンボル
「神はいつも正しい」と十字架は教えてくれます(レビ記19章2節aとローマ6章23節)。ゆえに悪いことをすれば罰を受けますし、罪を犯せば祝福を逃します。このことに私たちは納得しているはずです。その証拠に悪人が栄えていると、どうしても心の中にわだかまりが生じます。良心が私たちにはあるからです。しかしここで一つ確認しておきたいことがあります。「キリスト教徒はいつも正しい」と言っているのではありません。日本ではキリスト教徒の数も少なく、かつキリスト教の歴史も短く、それゆえに目立たないのですが、歴史を見てきますとキリスト教徒が、あるいはキリスト教および神の名のもとにあまりにも多くの、そして大きな罪を犯して来たことは自明です。たとえば現在のアメリカ合衆国。土着のインディアンたちから土地を奪い、アフリカから多くの奴隷を牛馬扱いで“仕入れ”、それゆえに現在の繁栄はあります。すべてキリスト教徒を名乗る人々によることです。
もし私たちがへりくだって神は正しいと知れば、人生と世界に関する重要な問いに対して正しい答えを得ることができます。たとえば「人生の意味とは何か?」最近の新聞で悲しい記事を目にしました。高校出たての18歳の若者男女が心中しました。遺書にはこうありました。「生きる意味が分からない」と。私もこの年代に同じ悩みを持っていたので、教会に来てくれれば良かったなあーと辛い思いになりました。私は教会に来て、生きる意味を知り今日に至っています。生きる意味、それは「イエスさまのために生きる」です。もう一つ重要な問いがあります。「人をなぜ殺してはいけないか?」少し前にその種の本が何冊も出版されました。私は興味を持って何冊も買っては読んでみました。でもがっかり。答えがないのです。お金を返してほしいという気持ちにさえなりました。重要な質問であるからです。キリスト教徒ならしっかりと答えを持っています。すべての人の命は神に所有権があります。いかなる人も神の許しなくして判断はできません。神の許しなくして勝手に人を殺してはいけないのです。どのようにしたら私たちは「神は正しい」と知ることができるでしょうか。十字架は罪と人とを分離した場所です。「罪を憎んで、人を憎まず」と言いますが、神はあなたの罪の部分だけを罰し、あなたのいのちを守ってくださったのです。これがあなたへの神の正義です。このことをあなたは理解しますか?あなたが生きることが神の望みです。 とても大切なことです。もう一度説明しましょう。少なくとも私たちの良心は「悪いことをした者は刑を受けるべきだ!」と納得しています(ローマ2:15)。確かに罪は罰せられねばなりません。しかしこのことに神はとまどいを覚えられるのです。というのは「すべての人は罪を犯し」(ローマ3:23)、この「すべての人」の中に神に愛され大切にされているあなたという人が含まれているからです。そこで神はあなたという人物から罪だけを分離し、イエス・キリストという人の上にそれを移し、あなたの代わりに罰せられました。神はこうして正義を貫かれました。このことはしたがってあなたにとっては大きなニュースです。
神の赦しのシンボル
神は人の罪を赦します。イエスさまはこのみこころを十字架の上でお祈りなさいました。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(34)。
ちょっと想像してみてください。夜中、物音に目を覚ましたあなたは強盗にナイフで殺されかけています。あなたはここでどのようなことを言いますか。「あなたを赦します」ですか?イエスさまはそうおっしゃいました。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(34)。
彼らとは、ユダヤ人であり、あなた自身です。
今、自分の中にある罪に気がつくとき、神の赦しのメッセージがあなたの心の中に入ります。ところで私たちはどの程度自分の中の罪に気がついているのでしょうか。
こういう事件がかつてありました。
「太郎ちゃん(匿名)、大好きなプラモデル、ねえ、買ってあげようか」
「えっ。ほんとう!?おかあちゃん、プラモデル、買ってくれるのーーっ」
学校から帰ってきたばかりで、ランドセルを背負ったままです。おかあさんからもらった百円玉を握り締めて、プラモデル屋さんに一目散!そのあと、母親は自転車の後ろ座席に太郎ちゃんを乗せて近くの河原へ行きました。太郎ちゃんはプラモデルに夢中でそのうしろにおかあさんがいることも忘れていました。ここで、用意してあった給食用のヒモで、おかあさんは一気に太郎ちゃんのクビをしめました。太郎ちゃんは、
「おかあちゃん、おかあちゃん、くるしいようー」と声を上げ、おかあさんにすがりついてきました。おかあさんは、そばにあった石で、太郎ちゃんの顔をなぐりつけ殺しました。まさか母親の犯行とはだれも思いません。ところが、菊の花束、線香、ふかしいもなどが現場に供えられていたため、警察は肉親の犯行と考えました。事情はこうでした。彼女にはボーイフレンドがいました。彼の父親が死に、実家へ帰ったのですが、葬式の費用がかかると言って三十万円を送るよう電話をして来ました。そして「送金してくれないなら、もうおまえのところには帰らない」とも言いました。お金の持ち合わせがない彼女が思いついたのが、太郎ちゃん名儀の三百五十万円の生命保険。
四十八歳の母。六歳の太郎ちゃん。そして、二十一歳年下のボーイフレンド。
これは事実の話です。客観的に見て、理性的に考えて、こんなことを実の母親がするだろうか、と考えるのがきっと私たちです。でも事実として起きたのです。心の中に湧き上がった小さな思い、しかしそれが大きく育ちます。私たちは罪を持っています。罪がそう育てるのです。特に二つのことに気をつけなければなりません。それらは劣等感とねたみ。これら二つによりイエスさまは十字架につけられました(34)。イエスさまには何の罪もありません。劣等感とねたみをコントロールしましょう。そうでないと私たちの心の中で発酵し、つまりガスが溜まって、いつか爆発します。ちょうど近くにいた人は大きな被害を受けます。でも爆発した人は被害者に責任をなすりつけます。そのときに掲げられる理由は後でこじつけられたものです。「理由は貨車に乗ってやってくる」とはかつての民社党委員長の名セリフです。真実は、コントロールできなかった劣等感とねたみのしわざです。
赦しが大切です。赦しはあたたかさとやさしさと思いやりとを生みます。どうか、「私の罪はあの十字架の上で赦された」と知ってください。
神の愛のシンボル
十字架は「神が愛である」ことを教えています。ところで「愛する」って、実際はどういうことを言うのでしょうか。いろいろな言い方があるでしょうね。一つの言い方は「相手のために自分の大切なものを提供する、あるいは犠牲にする」こと。犠牲にするものには4つあります。たとえばあなたが友人の相談にのったとしましょう。時間、金銭、労力、賜物を費やしますね。費やすことが愛すること。さて最高の犠牲とはなんでしょうか。それは命です。ただし実践することが難しいのは言うまでもありません。だれでも自分が一番かわいいからです。ところがイエスさまはそれを実践なさったのです。それが十字架です。
金曜日の朝の9時に釘づけられ、12時になって地上は光を失って、真っ暗闇になり、午後3時まで続き、とうとうそのまま息を引き取られました。ローマの兵士が槍で脇腹を刺したとき血と水が流れたとあるのは心臓が破裂したためと言われています。三日目にご復活なさいましたが、それまでの間よみ(地獄のような所)において大変な苦しみを経験なさいました。
イエス・キリストは父なる神のひとり子です。十字架のむごさはそのまま父なる神の愛の大きさを表しています。そこまでしてもあなたを救いたい、と神はお考えです。愛は計算しません。お返しを期待しません。ただただ与えようとします。この愛をアガペーと言います。
今の時代、命が安っぽいのです。軽いのです。いとも簡単に人を殺します。多くの人が餓死していくのをあまりにも多くの回数ニュースで流します。だんだんなれっこになってきます。「あー、また同じ話だ!」いったい人間の尊厳はどこにあるのでしょうか。一人の人の重みはどれほどなのでしょうか。
イエスさまはこう言われました。「ひとりの人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)。
あなたは自分を大切にしなければなりません。粗末に扱ってはいけません。あなたは神さまのとっておきの財産です。信じてください。あなたがこの大きな愛を受け取るとき、あなたには希望が生まれます。愛される者には、愛されていると知っている者には常に希望があります。
参考:キリスト教の暦