279 自由の魅力
聖書箇所 [ヤコブの手紙1章19ー27節]
今回は自由について考えましょう。ある人たちが思うように、「何をしても自由!」式の自由は真の自由ではありません。真の自由には責任も義務もあります。今回お話しするのはキリストにあっての自由です。一言で言ってそれはセルフコントロールです。御霊の実(ガラテヤ5:22−23)をあなたはご存知でしょう。冒頭に来るのが愛、最後に自制(セルフコントロール)。ギリシア語では前者が一番重要、二番目に最後のもの。愛がある人は自制心があり、自制心がある人には愛があります。もしセルフコントロールに欠けると何が起きるでしょうか。たとえば、朝だれかに言われたことが原因でその日の夜眠れなかった、など。そのだれかにコントロールされていると言えます。中には以前の出来ごとや言われたことばを10年も20年も忘れることが出来ない人もいます。自分の人生です。自分でコントロールできなくていいのでしょうか。
イエスさまが十字架の上で命をかけてあがない取ってくださったもの、あなたに回復してくださったもの、取りかえしてくださったもの、それが自由です。自由とは選べることであり、従って自由意志をそのことば通りに自由に働かせて、たとえばAとBとがあって、Aを選ぶことが正しいならば何の障害もなく、Aを選べることです。ところで私たちの先祖アダムは本来このような自由を与えられていましたが、堕落して失いました。つまり私たちは今、自由ではないのです。最近以下のような文章を目にしました。
ユーゴとNATOの戦争に(関して)……セルビア兵は残虐で、アルバニア系住民は犠牲者という固定観念も、かなり一方的な言説である……。たとえば……次のようにひとりの帰還セルビア兵の経験を伝える記事があった。……その男はまだ若いが一家の父親であり、貧しい半農民・半労働者であった。……三月、動員されたのだ。憲兵と警察が行きたがらない者を残らず刈り出した。金持ちは子供を隠してしまった。だから[貧乏な]私は行かねばならなかった」。空爆が始まって4日後、コソヴォに向かった。到着してみると、すべては破壊され、焼かれていた。彼らもNATOの空爆にあい、兵舎は燃えてしまった。セルビア兵が何人か死亡し、何人かが負傷した。「もっとも恐ろしいことが翌日はじまった。クリナ近くのある村を攻撃する命令をうけたのだ。私はテロリストが隠れているのだろうと思った。事実は前夜の空襲の復讐戦だった。村に入ると三人か四人のテロリストが逃げていくのが見えた。村は市民しか残っていなかった。ひとりの兵士、予備役の兵士だったが、彼が三〇人ほどの女と子供を撃ち殺すのを、私はこの目で見たNATOの爆撃で彼と同室の兵士がひとり死んだことにたいする復讐だったのだ。その瞬間、私のなかでなにかが崩れた。気が狂ったようになった。相棒の戦車兵が私を落ちつかせようとして、妻や子供のことを思ってみろ、そして生きて家に帰ることを考えよう、と言った。「それにあれは君のしたことではないぜ」とも言ってくれた。しかしこんな場面に立ち会ぅのはつらいことだ。頭はなにも考えなくなり、なにも感じなくなった。植物になったみたいだった。」この兵士は人間性の失われる瞬間を経験したのだ。だがそれで最悪の事態が終わったわけではなかった。彼はそれから村から村へ、民族浄化を続けさせられた。話はさらに続くが、もう充分だろう。
私たちは今、自由なのでしょうか。いいえ。自由ではありません。でもイエスさまがあなたに真の自由をくださっています。キリストにあることによって自由です。今回はそれがどのようなものであるか、学びましょう。
語ることにおける自由[19、26、27]
目の前の人が慰めのことばをを必要としているなと分かった時に、慰めのことばを、励ましのことばを必要としているなと分かった時に、励ましのことばをかけられる人は自由な人です。嬉しそうな素振りをしていたら、「何かいいことがあったの?」と聞いてあげて彼の喜びを二倍にしてやり、自分も一緒に喜ぶ。これも自由な人のすることです。
ネパールで働く日本人のクリスチャン医師がひとりの重症患者を村人に運んでもらったことがありました。道なき道を、獣道を二日間背負って歩いてくれました。医師はお礼をしたいと思いました。でも村人はこう返答しました。「みんなで生きている、お礼なんていらない」医師ははっとしました。もともと彼自身も報酬を求めてネパールにやってきたわけではありませんでした。原点を思い出させてくれたのです。余計勇気が湧いてきました。
語ることにおいて自由な人は愛されます。また社会はこのような人を求めています。温かい社会は語ることにおいて自由な人々により作られて行きます。決してストレス解消のために人を傷つけるようなことばを口にすべきではありません。でも実際はなかなか口のコントロールは難しいものですね。
婦人と牧師の会話。
「先生に前々から言いたいことがあったのです。実は、先生の首にかけてあるひも(ネクタイのこと)、それって、少し長いんじゃあーないでしょうか。はさみで切らせていただけないかしら」。
先生はこう応答しました。
「いいですよ。でももしあなたにも長過ぎるもの(舌)があったら、切らせてもらえますか」。
とげのある会話と言えるかも。真の自由は語るとき、語る人が罪を犯さず、ことばを受けた人も傷つきません。
怒ることにおける自由[19]
キレル人が増えているのでしょうか。すぐカッとなる人は少なくありませんね。
まず原則をはっきりさせましょう。神も怒ります。そして怒ること自体は罪ではありません。何が問題でしょうか。動機です。正義のために怒るのはいいことです。でも自分の(持つ勝手な)プライドが傷つけられたからとか、自分の思い通りにならないからとか、このような理由で怒るのは良くないことです。自由な人は不正を見て怒り、自分の足りなさや欠点を指摘されたことを、「神さまからの贈り物!」と感謝をし、悔い改めます。ところで私たちは一つの重要なことを忘れてはいけません。怒りの持つ害です。
病院に赤ちゃんが運び込まれました。担当のお医者さんはいろいろと調べてみましたが、全く原因が分かりません。あるとき、回診でその子の家を訪ねました。なんと家の外まで聞こえる夫婦喧嘩の真っ最中でした。しかも口汚く夫を罵る母親の胸にはしっかりとその赤ちゃんが抱かれていました。二日後に死亡しました。こんなことがあるんですね。怒りはおっぱいに毒物を入れたのです。ご存知の通り、私たちの身体は種々の物質の製造工場です。怒るときに毒物が体内に製造されることを知らなければなりません。
若い女性の腕が動かなくなりました。カウンセラーに相談したところ、原因が分かりました。彼女には母親に対する
怒りがあったのです。つい殴り掛かりそうになる思いと、殴ってはいけないという思いと葛藤を起こしていたのです。悔い改めて彼女の腕は再び自由になりました。怒りはコントロールされなければなりません。
悪い動機から怒るとき、私たちは苦い思いになりますが、コントロールできたときには心は平安と喜びとで満たされます。
汚れや悪からの自由[21]
汚れと悪、これは百害あって一利なし。そんなもの、つき合わなければいいじゃあないか、とお思いですか。それがそうは問屋が卸さないのが私たちの中にある不自由さの現実です。なぜって、肉の持つ欲求の強さのせいです。一時の気持ちの良さが許さないんです。悪習慣から私たちが離れることができないのはそのためです。こんなことは止めた方がいいと理性的には分かっていてもそうはできないのが、悲しいところです。
若い娘さんがいかがわしい場所に出入りしていました。友人がそれを見兼ねて忠告しました。でも彼女はこう言って耳を傾けません。「クリスチャンって、何をしても自由なんでショ!」。愛情のある友人はこういう話を彼女にしました。「私たちね、この前、炭坑見学ツアーに参加したの。入り口で一人の女性と案内役の炭坑夫さんが会話しているのを見たわ。『お嬢さん。白いワンピースでは入坑するのはどうも……』。「えっ!どうしてちゃんと、お金払ってあるでショ!」。「確かに、でも白いままでは出て来れませんよ」。
その後忠告を聞いたのかは定かではありません。真に自由な人とは、理性で判断した通りの事をすることができる人の事です。イエスさまはマタイの福音書5章38節から41節で恐ろしい程のハイレベルのクリスチャン倫理を教えていらっしゃいます。このようにできる、これは正真正銘の自由人ならでは、です。
怠惰からの自由[23ー27]
私たちは生まれながらに怠惰です。そこで、というよりもだからこそ、つい外面的なものに頼りがちです。26節は外面的なもので自分の信仰の立派さをアピールしている人への批判です。形式的に信仰を立派に見せ掛けても、優しさや愛を示すことができないのであればそれは空しいとヤコブは言います。実はこのことばはヤコブ自身の体験に基づくものです。その前にイエスさまが地上に来られたことの意味を確認しましょう。それは「人間って、こう、実際には、生きるんですよー」と目に見える形で私たちに見せようという神さまのお考えでした。「こう」というのは、外面的なものに頼るのではなくて、内面的なものを充実する生き方です。イエスさまのご生涯を振り返ってみましょう。神のお子なのに馬小屋のような所でお生まれになりました。本来ならばもっと良い場所がふさわしかったのではないでしょうか。お父さんのヨセフがはやくに亡くなったので、若いうちから家計を背負わなければなりませんでした。そして何人もの弟や妹たちの面倒も見なければなりませんでした。しかしきっとこのような環境の中で彼の人間性は養われていったのでしょう。ただし弟たちのだれかは、そんなお兄さんの、すなわちイエスさまの気持ちも分からず、困らせたのです。きっとヤコブがそうです。そんなことを思い出しながらこの手紙を書いています。今になって彼はようやく分かったのです。「お兄さんは、いや、あの方は真の人間であった!人の中の人!他者のために自分のいのちまで捨てることができるお方!」長いこと寝食を共にした弟の証言には迫力があります。私たちはつい家の中での自分と人前での自分とを異なるようにしてしまいます。つまり人の前ではかっこよくみせようとします。家の中では悪いところ、まるだしです。ある牧師夫人が夫に訴えました。「あなた、これからは教会の礼拝堂の中で生活しましょう。できれば講壇のわきがいいです」説教する内容と実生活とがかけ離れていたからです。牧師として、私は反省させられました。私たちはつい外面的なものに依存しやすいものです。そして外面的なものは整えるのに比較的簡単であることも否めない事実です。クリスチャンの外面的な条件は五本の指で表現します。主日礼拝を守ること、デボーションをすること、十一献金をすること、あかしや伝道をすること、交わりをすることです。これらを実行していれば優れたクリスチャンでしょうか?いいえ。中身が重要です。中身こそ、と言ったらいいでしょうか。私たちは怠けず、すなわち外面的なものに甘えず、しっかりと中身を整えて行かなければならなりません。安直なものに走らず、手間隙かける道を選択すべきです。人間としての中身の充実に真摯になるべきです。これこそ人々から尊敬される道、人生を成功させる道です。
律法主義からの自由[21ー27]
律法主義とは何でしょうか。それは冷たい義務感と喜びのない禁欲主義です。仕方ないからする義務感とあれもしないようにしよう、これもしないようにしよう、という考え方です。極めてストレスの貯まるものです。律法主義でない、自由のある生き方とは燃える責任感と内側から沸き上がる喜びです。それは愛、これが良いことを喜びと共にあなたにさせるのです。良いことをしたくてしたくて仕方がないのです。そんな毎日でありたいものですね。
さて、最後にどのようにしてこれらの自由を満喫できるのでしょうか。まず、イエスさまを心に受け入れて下さい。これであなたの中に自由が入りました、ただし持っていることと使える事とは違います。使うことを覚えなければなりません。それにはまず経験すること。お母さんが海岸で叫んでいました。「泳ぎ方を覚えるまで、水に入ってはいけませんよ!」。何かおかしいとは思いませんか。きっとこのお母さん、家では「歩き方を覚えるまでは歩いてはいけません、食べ方を覚えるまでは食べてはいけません」と言っているのでしょう。まず経験すること。あなた自身をささげてください、神さまに。「私は神さまのために生きます!」と言ってください。あなたは神さまに造られました。だから神さまのために生きるのが最も適切な、自然な、かつ十分に満足できる生き方です。もし、勇気をもってそうなさるなら、あなたはたった今学んできた自由を経験できるでしょう。それはあなたの中に住み始められた聖霊の神さまの働きです。