280 アドナイ・イルエ
●聖書箇所 [創世記22章1ー19節]
この段落において知ることのできる出来事は実に感動的、かつ印象深いものです。なんとアブラハムにとってたった一人の子どもであるイサクを「たきぎの上で焼きなさい」というご命令です。きっとあなたは彼のこのときの気持ちを少しは経験できるに違いありません。あなたにとって最も大切なものを思い浮かべてみてください。それが奪われようとしています。失われようとしています。さあ、あなたの気持ちは?アブラハムに話を戻しましょう。刀を降り降ろそうとした矢先、ふと見ると雄羊が一頭やぶにつのを引っ掛けているではありませんか。ようやく私たちにも見えて来ました。イルエ(見える)して来ました。良い結果でした。主はあなたにも良いものを用意してくださっております。信仰とはこれを信じることです。すなわち「神は私を愛しておられるので、私の未来は祝福されている」と信じることです。さてアドナイとは神を指します。イルエとは備えがあるの意味です。神はあなたにすでに祝福を用意してくださっています。さて、今回はこの出来事から学びましょう。
先を見る神の目
先を見ることのできる神の目を私たちが持てれば実に心強い。もしあなたが持てばあなたはご自分の人生に最高の味方を得たと言えるでしょう。というのは私たち人間は先を読むことができないから。最近ではノストラダムスの予言が外れました。私は1999年7月には特別なことは何も起きないだろうと「予言」しておいたのですが、当りました。これは皮肉です。人間には先は見えないものなのです。ところがアブラハム親子はまるで先が見えるような行動の仕方をしています。7節でイサクはお父さんに「いけにえの羊はどこにあるのですか」と尋ね、8節でアブラハム は「主が備えてくださる」と答えています。彼らの素朴な信仰、神さまへの純粋な信頼がうかがわれます。それは5節において若い者たちへのことばによっても分かります。さて、いざ捧げる段になり、いけにえがないのです。彼はたきぎの上にイサクを置き、刀を振り降ろそうとした瞬間、天使の声がそれを制止します。見回すと一頭の雄羊が見えます。
あなたにもそのようなことがありますか。「あー、もうーだめだ!」というような時が。でも心配いりません。アドナイ・イルエ!イルエは「備える」と訳されていますが、「見える」という動詞のひとつです。学者によりますと、神との関連で使われているときには「前もって見る」 という意味になるそうです。神さまにはその全能の力によってあらかじめこれから起きることが分かるのです、見えるのです。もちろん私たちには見えませんし、予測がつきません。アブラハムにも見えなかった、そうです、 しかしやがて見えました。彼らには信仰をもって先を見る、すなわち神の目が与えられていました。だからいつも平安でした。あなたも同様です。先を見る神の目があるならあなたはこの世では得られない平安を得ます。ではどのようにしてこのような目をいただくことができるのでしょうか。「主の山に行くなら備えがある」と言われます。主の山とは礼拝する所です。神さまを礼拝しましょう、心を込めて。あなたには先を見る神の目が与えられます。
従順
従順はなぜ重要なのか、と言いますと、結局はあなたを祝福するからです。あなたは従順ですか。みことばを聞いて、さっと従いますか、それとも「でもー‥‥‥」と言いますか?アブラハムもイサクもなんとすばらしい従順を見せていることでしょうか。信じられない位。アブラハムがいけにえとしてのイサクの上に刀を振り下ろそうとする場面があります。『天地創造』という映画の最後の場面であっただったでしょうか、私は見ましたが、涙が溢れ、止まりませんでした。アブラハムは信じています、神には不可能はないと。ヘブル人への手紙11章17ー19節をお読み下さい。もしここでイサクが死んでも主は生き返らせてくださる、と信じています。結局イサクを失わずに済みました。彼は自分の宝物を失わずに済みました。これはテストでした。テスト本来の目的は習熟度(この場合は従順の)を測るというものです。私たち人間はテストが嫌いです。それで神さまがテストしてくださいます。今回は100点に近いできでした。でも初めから点数の良い、できの良いアブラハムではありませんでした。テストを受けつづけてそうなったのです。あなたも試練をそのように理解してください。そのためには自分の失敗を許すことです。失敗をしながら、少しずつ点数を上げていくのです。もし30点しか取れないと言って裁き、責めるなら、40点を取る日は来ないでしょう。ところであなたはご存じのようにイサクはアブラハムが長いこと、祈って祈って、忍耐して忍耐して、約束を信じて信じてやっと与えられた子です。またこの出来事に見るように神さまへの彼らの従順さには正直いって 頭が下がります。しかし再度言いますが、彼ははじめから優等生ではありませんでした。実際、私たちと同じ!失敗の多い人間です。あるときには神さまのおことばを笑い、疑い、それゆえに人間的な手段で子どもを得ようとしました。 こうして奴隷ハガルを通してイシマエル(今日のアラブ人の祖先。一方イサクはユダ ヤ人の祖先)が生まれました。まことに大きな失敗でした。今日までそのことが原因となった争いは続いています。 なぜでしょう。彼は痛みを持った人間であるからです。がん患者と接する中から全人的苦痛という概念が導かれています。すなわち痛みとは身体的なものだけではなくて、精神的(不安、恐怖、苛立ち、怒り、うつ状態、焦燥感、劣等感など)、社会的(経済的な問題、職業上の問題、複雑な家族関係)、霊的(死の不安や恐怖、罪責感、生きることへの意味の不明、宗教上の問題など)[『ターミナルケア』三輪書店]なものという四分野にわたるというのです。そして従来は患者の病気に焦点をあてていたが、病気を持った人間に焦点を当てようと言うのです。前者は人間疎外をひき起こしています。私たちは他者や自分の欠点や失敗ばかりを責めたら、人間を疎外することを知らなければなりません。サタンはこう言いました。「もしヨブの弱点を攻めたら、きっと彼は神を呪うに違いない!」サタンと波長を合わせるようなことをしてはいけません。十字架の上であなたの罪のみならず、失敗もあがなわれています。悔い改めたら後ろを振り向かず、前を向いて習熟度を高める楽しみと共に進みましょう。失敗に焦点を当てないで、習熟度を高め続けているあなた自身に焦点を当てましょう。信仰とは従順です。従順こそあなたを結局は祝福します。神は実にスケールの大きなお方です。まかり間違っても人間から、あなたから何かを取り上げようなどと考えません。安心してください。あなたは大事なものを取り上げられるのではなくて、大きな祝福を与えられる立場なのです。そしてもうそれはすでに用意されているのです。
あかし
5節と19節を合せてお読み下さい。19節では経験した出来事をアブラハムやイサクは若者に説明したでしょう。あかしは神さまと人を愛する行為です。このことについて説明してみましょう。あなたがあかしをすると、
第1に、神さまの名を上げます。
「さすが、神さま、不可能なことをいとも簡単になさる!」。
第2に、人を励まします。
「そんなことが実際に起きるの!驚いた!私にも起きるかも!?」。私たちはだれでも励ましを求めているものです。落ち込みやすい性質を持っているからです。おまけに困ったことや辛いことなど日常よく出会うものです。もしあなたが人を励ますならば感謝され尊敬されますよ。
第3に、あなたを強めます。
なぜならあなたの人生が神のわざの舞台になるからです。
こうしてあなたはあかしによって愛しています。神を、人を、そして自分を。さて、アブラハムのあかしの迫力は何から生まれてきたとお考えでしょうか。それはイサクの所有権を手放したことから来るものです。あなたはあなたの手に何かをしっかりと握ってはいませんか。そうするといつも不安でたまらなくなるなるはずです。「いつ無くなるかも知れない、いつ取られるか分からない」と。思い切って手を開いて、手放してみてはいかがでしょうか。神さまはスケールの大きいお方です。けちな方ではありません。ましていじわるな方ではありません。あなたのものが欲しいわけではありません。すべては神さまのもの、私たちは神さまの世界の中に生きています。むしろしっかりとあなたのものにして欲しいと願っていらっしゃいます。どうか握っている手を開いてください。あなたには与えられます。アブラハムはイサクを取り戻しました。そしてイサクを通して彼の夢は実現して行きました。
「主の山には神の備えがある」、アドナイ・イルエ。結局はあなたにすでに大きな祝福がイルエされています。