281 サタンに負けないための対策
●聖書箇所 [詩篇119篇65ー76節]
神と人、それは本来ハネムーンの関係です。でもかつて両者の間にくさびが打ち込まれてしまいました。創世記3章の記事であなたはそれをご存知です。以来、不安定なのが、神と人との間です。人間関係も同様でしょう。サタンが働いているのです。今回はサタンに負けないための対策を考えましょう。詩篇は全体がダビデの作品と言われています。ダビデは先王サウルが悪霊(サタンの子分)につかれた様を見ました。また彼自身大きな失敗をする中で自分の霊が死ぬかも知れないという恐れの中で苦もんしました。ともにサタンとの戦いでした。彼にはこの問題で大いに発言する資格があるでしょう。さあ、ご一緒にサタンに負けないための対策を考えて参りましょう。
過去の悪影響から解放されること[71節]
過去の悪影響とは私たちの中に存在する爆弾です。スイッチを入れるのがサタン。したがってスイッチを入れても爆弾がなければ爆発はあり得ません。爆弾とは心の傷です。それは劣等感であったり、失恋から来るトラウマであったり、さまざまです。ちょうど空腹時の自分を考えて下さい。いらいらしていますね。普段なら何とも感じない一言に腹を立てたりしませんか。その一言がスイッチです。もう一度言いますが、スイッチが入っても爆弾そのものが存在しなければ爆発のしようがありません。
交流分析では人間関係には4つのタイプがある、と次のように説明します。
@私はOK。あなたもOK。
A私はOK。あなたはOKじゃない。
B私はOKじゃない。あなたはOK。
C私はOKじゃない。あなたもOKじゃない。
@は最善で、「私は幸せ。あなたも幸せ」と言える人です。Cは最悪で「私は幸せじゃない。だからあなたも幸せになってはいけない」というものです。Cは優越感タイプ、Bは劣等感タイプ。@を目指すこと、これが爆弾をなくしておくことを意味します。そのためには謙虚に主を見上げること。へんなプライドは捨てなければなりません。
ジャン・バニエ『小さき者からの光』(あめんどう)は、私たちキリスト者の新しい生き方を指し示すのみならず、新しい時代のさきがけを示す好著である。……著者は長年にわたる「ラルシュ」と呼ばれる共同体での生活体験から、決してそうではに、病んでいる人間、社会的弱者と呼ばれる人々から癒しと恩恵を受けるのは、むしろ健常者と呼ばれる人々の方ではないかと主張するのである。……本書は健常者と呼ばれる人のことをしばしば「共に生活することのじつにむずかしい人たちだと言う。たとえば、彼らは仲良く暮らすより、すぐに派閥を作って争いを始める存在だと言うのである。さらに時分たちの仲間を増やし、武器を手に入れ、防御体制を整え、ついには戦争をひき起こすまでに至ると言う。いわば彼らは、健康で何の不自由もないように見えていながら、その実、競争心や闘争心、、支配性、権力欲に縛られた悲しい存在なのである。これはちょうど「私たちの中でだれが一番偉いのでしょうかと優劣を争った弟子たちの姿になぞらえることができるであろう(ルカ22:24参照)。しかし、障害者の生きられる世界は、このような緊張感と攻撃的な雰囲気のある世界ではなく、もっと優しさと愛にあふれる世界である……一つの興味深い例がある。西アフリカの、あるラルシュ共同体で実際に存在するケリムという一人の少年の話である。彼は、生まれてすぐ母親を亡くしたため、孤児院に送られ、三才の時、不幸にも脳膜炎を患ったために重度の障害児になってしまった。さらに不幸なことは、孤児院がこの病気をひどく恐れて彼を独房に入れたため、彼は話すことも歩くこともできなくなり、耐え難い苦しみを受けて、やがて自分の頭をたたき始めるのである。これは肉体的な痛みが精神的な苦痛を和らげるという、いわば自傷行為なのである。けれどもラルシュはケリムを受け入れ、12年ほどして彼はある程度歩くことができ、仕事もほんの少しできるようになる。といってもケリムの務めは、共同体で飼っているロバに餌をやる程度のことであった。ところがある日、この共同体のリーダーが、ケリムの優れた一つの能力、隠された感性の鋭さに気付くのである。それは、ケリムには人間関係の摩擦をすぐに感じ取る能力が与えられているということである。この共同体のリーダーは次のように言う。「アシスタント同士の気持ちがしっくりしないとき、また、アシスタントの間に争いがあるとき、また、何か人間関係に壁や隔たりが生じたとき、ケリムは決まって自分の頭をたたき始めます。きっと何かを察知するのでしょう。とても不思議な感性だと思います」すなわちケリムが自分の頭をたたいているときは、彼のために心理学者や精神科医を探しに行く必要はないのである。むしろアシスタントたちが、再び明るい交わりを回復できるようにすればよいのである。(『いのちのことば』1995。3月号)
「(あの人こそ謙虚になるべきです、と言外に含みつつ)私はまともです」というプライドを捨てるとき、神さまはあなたをやさしく包み、すべての爆弾をなくして、すなわち心を癒してくださるのです。癒されている心にサタンは干渉することはできません。
真の友人との連帯感を持つこと[74節]
孤独はサタンの攻撃を受けやすい性質を持っています。ある人たちはこうして悲劇のヒロイズムに酔います。一種の麻薬のようなものなので、なかなか抜け出ることができません。それなりに心地よさがありますから。もちろんデボーションは孤独のときにするものです。真に神さまに向えば、最高!しかし、そうでないと魂が裸になっているので、本性むきだしで、肉欲が表に出ているので危険なのです。そのことから仲間が必要という結論が生じます。私たちは弱い存在です。決して高慢になってはいけません。価値観を共有できる友人を持ち、大切にし、その中で喜びを持ちましょう。イエスさまもこうおっしゃっておられます。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
以前「スペインからの手紙ーベンポスタの子どもたち」という映画が松竹で作られました。父親は借金を残したまま行方不明、母親はそれを返済して過労死。小学生の良二はかつて母親とともに見たベンポスタのサーカスを追って、はるばるスペインの「ベンポスタ子ども共和国」という村へやって来ます。さまざまな国から子どもたちが来ています。指導するのはシルバ神父、そしてこう言います。「幸せなみんなは次の事を忘れないようにしよう。一人の子どもの陰で三人の子どもが死んでいる。通学する一人の子どもの陰で三人の子どもが字を知らない。一人の健康な子どもの陰で3三の子どもが病気だ」。良二はこの村で少しずつ心が癒されて行きます。やがてサーカスの団員になった良二はサーカスのみんなとともに日本公演にやって来ます。そしてみんなの前で小さな良二が人間ピラミッドの頂点に立ちます。その後、神父がこう語ります。「強い者が下で弱い者が上、更にその上に子どもがいる世界、そんな理想の世界をこのピラミッドは表しています。世界ではこれと反対の事が起きています。どうか虐げられている子どもたちを大切にしてください」。さらにサーカスの青年が祈ります。「この世界をお造りになった神さま。人々に平和を与えてください。世界中のすべての人が手を繋げば憎しみは無くなるでしょう。世界中のすべての人が神さまを見上げれば貧しさや飢えや争いはなくなるでしょう」真の仲間がいるとき、またその中に身を置いているとき、サタンは私たちのそばに寄って来ることはできません。
前向きに生きようと決意すること[全体]
なんという前向きの文章ばかりが並んでいることでしょう。前向き、後向き、これは習慣です。親から私たちは習慣を受け継ぎます。親は良い習慣を与えるように心がけ、子は良い習慣のみを受け取るようにし、自分の子どもたちに良い習慣だけを伝えるようにすべきです。私たちは心にも筋肉があることを知るべきです。前向きの人には前向き用の筋肉が発達しています。普段よく使うからです。後ろ向きの人には後ろ向き用の筋肉が発達しています。普段よく使うからです。私たちは使いやすい方を使います。後ろ向きの人はある種のゲームをします。それは『憶測』。「あの人がこういうことをしてくれたらいいなあー」→「してくれるかも知れない」→「きっとしてくれる」→「必ずしてくれる!」。こうしてやがて裏切られた気持ちになりますし、相手を裁きます。もうお分かりでしょう。独り芝居です。第三者的には「なぜ、そんなふうに考えるのか!」と思うものですが、当人はごく普通にいつも使う心の筋肉を動かしています。こういうゲームをする人は依存心が強い、甘えが強いと言えます。過剰な依頼心が内にあります。そうしてサタンに付け入るすきを与えます。感謝の習慣を身に付けましょう。
東京海上火災保険顧問である中川勝弘さんがこういうことを書いておられます。
「私の通った中学の校長は偉かった。戦後のいわゆる「民主主義教育が盛んなときに、自らの信念に基づいてユニークな教育を実践してくれた。まず、中学の入学式までに毛筆『恩』の字を千字書いて提出せよとの宿題があった。千字も書くのかとびっくりし、かつ、何のために書くのかと疑問も持った。聞くと、親の恩、師の恩、友の恩、世の中の万物に感謝して千字も書くのだという。千字も書くのは面倒だとばかり思っていたが、書いているうちに他者への感謝の気持ちを子どもなりに考えるきっかけになっていたように思う」(日本経済新聞社1999年8月26日)
一つ一つ感謝なことを紙に書き出していってはいかがでしょうか。50個くらいすぐに見つかるでしょう。
健康な自己像を持つこと[73節]
良い神さまが良い私を作ってくださった、私にはすぐれた賜物が与えられている、私は必要とされている、などなど。このような表現ができる人を自己像が健康であると言います。あなたはいかがでしょうか。ご自分を支持なさることがおできになるでしょうか。ペテロは苦しい経験をしました。師を裏切りました。ルカの福音書22章31ー62節をお読み下さい。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」……彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。主が振り向いてペテロを見つめられた、とありますが、どのようなまなざしであったのでしょう。あたたかい、おもいやりのあるまなざしであったに違いありません。イエスさまはこういうペテロの罪をも負ってくださいました。イエスさまのこのまなざしこそがペテロを再び立ち上がらせました。結局はサタンはペテロを負かすことは出来ませんでした。ペテロは健康な自己像とともに立派に成長して行きました。良い神さまが良い私を作ってくださった、私にはすぐれた賜物が与えられている、私は必要とされている、と口癖にしてはいかがでしょうか。
あなたがいつもサタンに対して負けない者であることを祈ります。