283 弱点こそ魅力

聖書箇所〔イザヤ57章15節〕

 このタイトルはいかがでしょうか?これこそ魅力的では?多くの人が自分の弱点や欠点に悩んでいます。でもまったく悩む必要はありませんよ、とお話したいのです。

 今回の聖書箇所をもう一度お読みください。全体として、謙虚な人は神さまからとても丁寧な取り扱いを受けて祝福されますよ、と慰めてくれています。鍵は謙虚さ。ところであまりにも自分の弱点や欠点を訴えるのは謙虚さが欠けているとも言えます。真の謙虚さを学ぶべく3人に登場してもらいましょう。それぞれどのような弱点や欠点を持ちどのような魅力へと変えて行ったのか。いや、変えられていったのか。

レア

 彼女の弱点=私はあまり人に愛されていない意識

 やがて認識した魅力=私は神に愛されている意識

 私はあまり人に愛されていない意識とは、私はあまり神に祝福されていない意識と言い換えてもいいでしょう。あなたにはこのような意識がありますか?あれば不幸、です、きっと。というのは幸福であるか、幸福でないかは主観的なものですから。「私は幸せ」と思えば幸せです。「私は不幸」と思っている人は不幸です。レアはしたがって不幸でした。創世記29章17節を見てください。ヤコブの妻の一人です。もう一人はラケル。ヤコブはラケルを愛していました。彼女のためには7年を二回もただ働きをします。えこひいきは良くありませんが、事実としてレアは愛されていません。ラケルは容姿端麗。無視されるレアの気持ちはいかばかりか。でも神はレアの気持ちを知ります。子どものないラケルに対してレアには子どもが続けて与えられます。まずルベン(32節)が与えられ、神は私の悩みを顧みてくださった、という意味の名前をつけました。次にシメオン(33節)、神は(あるいは夫は)いまこそ聞くだろう、そしてレビ(34節 結ぶの意味)、夫はついに私と結びつくだろう、という期待を込めて命名しました。しかし結局ヤコブは彼女を振り向くことはありません。ここで彼女は大きな転換をします。人に期待する生き方から神に期待する生き方へです。これを象徴した事件がユダの誕生です。29章35節です。見てください。「今、私は主をほめる!賛美する!」という意味です。神の真のご計画はここにありました。神に愛されていることこそ、幸せの根源です。ルベンが生まれたときに祈りは聞かれたとレアは思ったでしょう。確かに神はレアの気持ちに無関心ではありませんでした。でも真の幸せは人に根拠を置くものではありません。このことを神はレアに教えたかったのです。神に心を向けることができるならば、つまり私は神に愛されているという意識に満たされていれば、私たちはしあわせを感じることができ、そのような私たちは多くの人を周囲に引き付けます。これを吸引力と言います。

 信じて求めるなら何でも与えられるでしょう(マタイ21:22)

 あなたは信じて祈りますか?信じて祈ると神はそのような人をほおーっておくことはありません。熱心なクリスチャンで、テノール歌手であるローランド・ヘーズがこう言いました。「祈りでここまでの人生を築いて来た。それを教えてくれたのは祖父だった。彼はいつもこう言っていた。祈りが聞き届けられないのはその人の祈りに吸引力がないからだ」

 なんとすばらしい表現でしょうか。もしあなたが私は神に愛されている、という意識を十分に持ち合わせていれば、あなたは十分に幸せな気分に浸ることができ、かつそれが人々をあなたのもとへ吸引します。あなたの周囲に多くの人が集まるようになるでしょう。その鍵は日常の生活における神の恵みに気がつく謙虚さです。

高速道路を運転中のことでした。前方に、路肩で停車している車があり、一人の60代とおぼしき男性がいかにも困ったような素振りで、車のそばをウロウロしているのが目に留まりました。そういう場合、高速道路上のことですから、たいていは素通りするわけですが、そのとき、なぜか新約聖書の中の、あの有名なキリストの話『善いサマリヤ人』のことが頭をよぎりました。そして、その車の2,30メートル先に停車しました。「故障ですか?何かお手伝いでもできますか?」「パンクしちゃってさあ。直し方もわからなくて……」、「ここは危険ですよね。近くには避難スペースもなさそうですねえ。」そこで、僕は自分の車から緊急時の発煙筒を持って来ました。その男性は、タイヤの交換など経験がないらしく、僕がトランクを開けて、ジャッキとスペアのタイヤを取り出し、何とか無事に交換できました。「よかったですね。完了です。」僕自身もやったことのない仕事でしたから、汗を拭きながら、達成感、充実感でいっぱいでした。そばで、その男性がぼやきました。「まったく、ついてないよ。ゴルフコンぺには、問に合うかなあ。えらい災難だ。」男は車に乗り込み、そのまま行ってしまいました。ポカンと口を開けたまま、僕は走り去る車を、しばらく見送っていました。それから、我に返り、くすぶる発煙筒を始末し、危険なその場所から急ぎ離れたのでした。「ありがとさん」「ごくろうさん」一言のお礼の言葉もなかったのは、いったいどういうことなのか?ただただ親切の心で停車して助けた僕なのに、いったい何と思っているのか?腹は立ちませんでしたが、一生に一度しかめぐり遇えない、珍しい人に出会ったような気がして、何とも複雑な気分でした。僕自身、礼を欠くことの多い勝手な者ですが、同じことのないよう自分を戒めた次第でした。(岸義紘『ぽぽ』2004.10)

この文章を目にして、私も同じ心境でした。人の親切に気がつかない自分。そして神の親切に気がつかない自分。謙虚さが大切です。神はあなたを忘れてはいません。あなたの気がつかないところで神はあなたのために働いてくださっています。ユダの子孫からは救い主イエスが生まれます。当時彼女はこれを知るよしもなかったでしょう。今、天において神の親切に感動しているはずです。

ヤコブ

 彼の弱点=ずる賢さ

 やがて得た魅力=神の使命達成のために用いられた聖なる賢さ

 創世記32章25節をみると彼の名前は押しのける者という意味です。押しの強いエゴイスト。お父さんとお兄さんとを欺き、叔父さんのラバンのもとで亡命生活を20年送りました。でも帰郷するにあたって頭が痛かったのはお兄さんと和解していなかったことです。その帰郷の途中、夜が明けるまで一人の人と格闘します。彼は勝てないのでヤコブのもものつがいを打ち、びっこにしてしまいます。股関節脱臼でしょう。この会話に注目。「私はヤコブです」(27節)ここに彼の正直な信仰告白があります。彼は自分を正直に申告しました。こうして謙虚なヤコブが誕生しました。さて彼の使命とは何であったのでしょうか?それは教会の原型を作ること。

 彼からイスラエル(神の人、という意味で神により命名されました)12部族は生まれ、奴隷になっていた時代にも荒野を旅する時代にもそのアイデンティティーは崩れませんでした。荒野は私たちが現に生きるいる場を、すなわち罪の世界を表します。罪の世界を生きる私たちクリスチャン、キリスト教会をイメージすることがあなたには容易にできるのではないでしょうか。傷ついた私たちは教会に戻って来ていやされ励まされ前に進みます。実際使命を果たすために知恵や賢さは必要です。ヤコブの賢さは用いられました。神が用いるのは私たちの中にある弱さです。弱さを認めるときに神はあなたを用い、あなたの人生を舞台に大きな働きをされます。勇気を持って自分の弱さを認めましょう。教会の中でも同様です。弱い人が大切にされる教会は良い教会です。少し長いのですが、お読みください。

神と人、信仰を語る

ジャン・バニエ『小さき者からの光』(あめんどう)は、私たちキリスト者の新しい生き方を指し示すのみならず、新しい時代のさきがけを示す好著である。今回、私はそれを、"人間が人間として尊重され、大切にされる視点はどのようにして可能になるのか“という点から眺めてみたいと思う。

一 一つの逆説

現代という時代は、人間の価値がその能力や有用性、生産性によって計られる時代であると言ってほぼ間違いのない事実であろう。そのため、生産性のない者、有用性の少ない者は劣等者のレッテルを貼られ、邪魔音扱いされ、しばしば排除され、差別を受けかねない勢いさえある。このことは、"障害者“と称される人々に対する人間的処遇の貧しさを見れば明々白々の事実である。彼らはその身体的・精神的ハンディのゆえに肩身を狭くせざるを得ず、時にはほとんど顧みられることのない存在ととらえられることがある。われわれが老いを恐れることの理由の一つは、そこにある。いわば"無用の存在、あるいは"重荷”"厄介者“になることへの恐れである。そしてもっと悪いことに彼らは、たまたま健康に恵まれた人間から"援助を受けるべき存在”と見なされてきたのである。しかし、そうした前提、暗黙の了解は本当のことなのだろうか。著者は、長年にわたる、ラルシュと呼ばれる共同体での生活体験から、決してそうではない、病んでいる人間、杜会的弱者と呼ば

れる人々から癒しと恩恵を受けるのは、むしろ健常者と呼ばれる人々のほうではないかと主張するのである。"共同体“というのは、そういう意味合いのことである。すなわちこの精神は、病む者も健やかな者も、ハンディのある者もそうでない者も、対等な関係において生活を共にできる杜会を目ざしたものなのである。

二 健常者の問題点

このことを明らかにするためにまず、"健常者“と呼ばれる人々の心の現実を明らかにしてみよう。本書は、健常者と呼ばれる人々のことをしばしば"共に生活することのじつにむずかしい人たちだ”と言う。たとえば、彼らは仲良く暮らすより、すぐに派閥を作って争いを始める存在だと言うのである。さらに、自分たちの仲間を増やし、武器を手に入れ、防御態勢を整え、ついには戦争を引き起こすまでに至ると言う(九三頁)。いわば彼らは、健康で何の不自由もないように見えていながら、その実、競争心や闘争心、支配性、権力欲に縛られた悲しい存在なのである。これはちょうど、“私たちの中でだれが一番偉いのでしょうか”と優劣を争った弟子たちの姿になぞらえることができるであろう(ルカニニ・二四等参照)。

三 障害者の感性

しかし、障害者の生きられる世界は、このような緊張感と攻撃的な雰囲気のある世界ではなく、もっと優しさと愛にあふれた世界であるという。一つの興味深い例がある。西アフリカの、あるラルシュ共同体で実際に存在するケリムという一人の少年の話である(八九-九三頁)。彼は、生まれてすぐ母親を亡くしたため、孤児院に送られ、三歳のとき、不幸にも脳膜炎を患ったために重度の障害児になってしまった。さらに不幸なことは、孤児院がこの病気をひどく恐れて彼を独房に入れたため、彼は話すことも歩くこともできなくなり、耐えがたい苦しみを受けて、やがて自分の頭をたたき始めるのである。これは肉体的な痛みが精神的な苦痛を和らげるという、いわぱ"自傷行為“なのである。.けれどもラルシュはケリムを迎え入れ、十二年ほどして彼はある程度歩くことができ、仕事もほんの少しできるようになる。といってもケリムの務めは、共同体で飼っているロバに餌をやる程度のことであった。ところがある日、この共同体のリーダーが、ケリムのすぐれた一つの能力、隠された感性の鋭さに気づくのである。それは、ケリムには人間関係の摩擦をすぐに感じとる能力が与えられているということである』この共同体のリーダーは次のように言う。「アシスタント同士の気持ちがしっくりしないとき、また、アシスタントの間に争いがあるとき、また、何か人間関係に壁や隔たりが生じたとき、ケリムは決まって自分の頭をたたき始めます。きっと何かを察知するのでしょう。とても不思議な感性だと思います。」すなわちケリムが自分の頭をたたいている時は、彼のために心理学者や精神科医を探しに行く必要はないのである。むしろアシスタントたちが、再び明るい交わりを回復できるようにすればよいのである。なぜならばケリムのような人は、人々の間に争いがあると、わずかの乱れでもわかり、人々が互いに交わらず、互いに愛し合っていないとき、それを敏感に感じとることができるからである(九二、九三頁)。また、ローマにあるラルシュホームにアマ.ンドという最重度の障害をもった子供がいる。生まれつきの障害があまりにもひどかったので、彼の母親は悲しみと苦痛に打ちひしがれてしまう。ノイローゼ気味となって、わが子の求めに応じることができなかった彼女は、アマンドを孤児院にあずけたというわけである。しかしアマンドは、ここでも期待される愛情や交わりに恵まれなかったために、ラルシュに送られてきた。そのためか、七歳になったアマンドの体はいまだに小さなままである。彼は体が成長しないのである。ところが背丈も体重も本当に小さく、姿も歪んでいるアマンドは、だれかの腕に抱かれると、その目は輝き、笑顔がこぼれるのである。彼は相手を見つめ、体全体を震わせて次のように言う。「大好きだよ!」彼はこのメッセージを、ことばではなく、その小さな体全体から発しているのである。そのためか、この子を抱く人々はしばしば時間を忘れ、仕事を忘れ、出世欲を忘れる。ある日、彼のもとに、多忙な、しかも高い地位にあるカトリックの司祭がやって来る。ところがしばらくして、彼は不思議な心の変化を体験し、去りがたい思いを抱くのである。アマンドの求め、かつ提供しているのは、お金でもない、仕事でもない、知識でもなく出世ですらない、彼の求めているものはただ一つ、私たちとの心の交流であり、その交わりの中で彼は生きるのである(八○-八九頁)。いと小さき者と神の御声そして次のような記述は、私どもの心が探られる文章である。「ケリムのような人たちは、私たちにこう語りかけています。『皆さんは愛し合って生きられないのですか?なぜ、お互いに愛し合わないのですか?この争いを止められないのですか?みんなで仲良く暮らせないのですか?』この叫びは、神が心から叫んでいることと同じであろうと私は思います。おそらく神の声は、ケリムやアマンドと同じく、弱く、ごく小さなものでしょう。しかしこの叫びこそ、私たちが注意して聴き取るべきものと言えます」(九三、九四頁)。この叫びを受け取ってこそ、人は初めて神の癒しを受けることができるのである。それゆえ、このラルシュ共同体の設立者ジャン・バニエは、こうした"いと小さき者の声をきくことによって、逆に私たちが癒しを経験する”と主張するのである。

五 社会と教会の癒し

こう考えていくと、競争原理に傷ついた現代人は、こうした社会的に見捨てられた人々を大切にすることによって、逆に自分自身の心の破れを繕い、癒されるということがよくわかる。なぜなら、競争原理というその根本原理は、それゆえに傷つき、人を分断し、孤立させる必然牲を内に蔵しているからである。ところで私はこの本を読み終わって、ケリムやアマンドの話を聞いたとき、以前、一人の読者が私にくれた手紙の一節を恩い出した。そしてこの手紙の内容は、もしそれを本当に読めば、私たちが宗教や教会の交わりと思い

込んでいるものに一石を投じかねないとも受け取られるものであったので、私はずっとこの内容を公にすることを控えてきたところのものなのである。それは、心病む人々にとって教会が必ずしも安心して行けるところ、安心しておれるころとは限らず、必ずしも心に安らぎを与えるところとなっていないらしいということに対して、一つの示唆を与えてくれるかもしれない点に触れたものである。その内容が否定的にではなく、建設的・肯定的に受け止められることを願って、その概略を以下に記してみたいと思う。

「前略 お目にかかったこともありませんのにお手紙を差し上げる失礼をどうかお許しください。私は心病む者ですが、最近、あることからふと手にしました、先生の書かれた本『心でみる世界』(聖文舎)『信仰による人間疎外』(いのちのことぱ杜)を通読し、私自身のキリスト教遍歴、その体験の中で味わった疑問、不信、心の傷、自己反省などを思い起こさせられ、書かれていることが本当にすっと心に入ってきました。そんなわけで、思いきってペンをとった次第です。私は高校、大学を通して、貧しいながら聖書研究会で、ルカ伝、ロマ書、ヨハネ伝を、ある教会の先生によって学びました。また、大学時代に受洗し、その大学内の教会に属しておりましたが、教会の交わりに関わるどころか、逆に徐々に遠のいていきました。それはひとことで言えば、聖書のことばが心に響かないで、目の前を通り過ぎていく、つまり、リアリティーが少しも湧いてこないという自分自身の問題からでした。それに、無学な私には理解できない説教にも、偉大な神学者の祈りを読み上げる礼拝のあり方にも疑間を感じておりました。(中略)私は現在、無職で、なお十年聞、わずかなアルバイトの経験しかなく、いま一番そのことが切実な問題なのですが、三十の半ば過ぎて、いま初めて自分が大切に思ってきたことは何かと言えば、それは人と人との優しい関わりではないか、どうもそういうことを思っていることに気づきました。人がモノとして、あたかも機械の部品のように扱われるのではなく、本当に人として、かけがえのない存在としてお互いを認め合い、共感し合える関わりとでも言えばよいかと思います。そういうものを、根底において求めている、そんなふううに思います。しかし、現実杜会はまったくその逆で、アルバイトの体験からも、それは痛切に味わわされました。心が歪んできます。では、教会はどうか。ここは、ことばとお勉強の世界。もっともっと人と人との豊かで優しい交わりがあってしかるべきなのに。それが私の率直な感想です。ですから、いま教会には距離を置いてみております。(以下略)」私は思う。これほどの豊かな、また確かな感性をもっている人間を生かせない杜会とはいったい何なのだろうかと。また、〈心が歪んできます……〉と言わせる職場とはいったい何なのだろうかと。そしてまた、〈もっともっと人と人との豊かな交わりのあってしかるべき〉教会という世界が、〈ここは、ことばとお勉強の世界〉と言わしめるものとなっているとするならぱ、その交わりとはいったい何なのだろうかと。そして、〈聖書のことばが心に響かないで、目の前を通り過ぎていく〉、つまり、宣教がそれほど〈リアリティー〉を欠いているとすれば、それはいったい何なのであろうかと。(この方はそれを、謙虚に自分の問題と言っている・・・)私は、今もてる力と最善の努力でもってその教会の働きを必死で守っている牧師・教職の方々、信徒の方々に敬意を表するものである。しかし、私どもの気づかないところで、もっと私どもが心を探り、目を留めるべき世界なり観点なりが多く残されているのではないかということを、私はこの一通の手紙から考えてみたいのである。そして私がこのようなことを申し上げるのは、私自身、実にしばしば病者のもつ預言者的な感性に打たれ、苦しめられ、自分を正しいとする価値観が崩され、居ずまいを正されてきた歴史をもっているからである。彼らは実に多くのことを私に気づかせてくれた。その多様さは、私のこれまでのすべての仕事が彼らの感性に触発されたものと言っていいほどのものなのである。だから、すべての人、すなわち心病む人々もハンディをもつ人々も安心して生きられる杜会や、出入りできる教会こそ、実は人間が本来目ざすべき方向ではないかと考えてみたいのである。そして、彼らがよく生きることのできる世界は、実は私たち自身もよく生き豊かにされる道のような気がするのである。こう考えてみると、"私の兄弟の最も小さい者“の中に神の御声が宿っており、彼らを"世の光”とするべき聖書的根拠があるような気がするのである。(工藤信夫『いのちのことば』1995.3)

 少し長かったのですが、私たちは互いに弱さを認めるべきなのではないでしょうか。互いに仮面をかぶることをやめて。どうせ神はすべてをお見通しなのだから。これが謙虚さの意味です。謙虚な者を主は多く愛してくださいます。イエス・キリストは自らの弱さや罪を認める者のためにこそ十字架の上で死んでくださったのです。三日目の復活はあなたが新しくされることの保証です。あなたにも使命が与えられています。家庭で職場で学校で、そして教会で。

ナアマン

 彼の弱点=無意味な(高すぎる)プライド

 やがて得た魅力=不可能を可能にする信仰

 U列王記5章1節以降をご覧下さい。彼の物語が記されています。彼はシリア(スリヤ、アラムなど同じです)の有能な将軍でしたが、病気には勝てません。特に彼はらい病でした。隔離されるところですが、その有能さのゆえに特別待遇でした。でも病気の進行を止めることはできません。あるときイスラエルにはいやしをする預言者がいると聞き、紹介状を手にかなり大げさな陣容で赴きます。でも彼は怒ります(11節)。預言者の態度が彼のプライドを傷つけました。思い出すのは百人隊長の態度です。部下思いの彼は「おことばをいただくだけで結構です」(ルカ7:2−10)とへりくだっています。しかし、ナアマンはすぐれた部下を持っていました。注意をしてくれました。彼は自分の誤った態度を悔い改め、言われた通りにヨルダン川に7回身を浸します。そしていやされました。これは彼の信仰の成果でした。プライドの高さは向上心の高さと成長欲求の強さを表わしています。彼の思いは実現しました。不可能を可能にする信仰者となることによって。

 どうか彼が預言者のことばに従ったように、みことばに従ってください。あなたの中に与えられているタレントはすばらしいものとして本来の輝きを取り戻すでしょう。みことばに従う、それこそ真の謙虚さです。