284 三つの召し
聖書箇所[エペソ4章1−16節]
今回は三つの召しという題でお話しましょう。
召しとは何でしょうか?それは「どうぞこちらにおいでください」と呼ばれることです。あなたが呼ばれています。だれに?神に、です。あなたを愛してくださる神が呼んでいます。その理由を上の聖書箇所から三つ学びましょう。
愛の建設
2、15、そして16節に愛という語が見えますね。神はあなたに愛を建設することを望んでいらっしゃいます。愛はあなたに幸せを提供してくれます。愛が私たちの社会を潤いあるものにしてくれます。
何人もの従業員を抱える葬儀屋さんの社長が心臓麻痺で亡くなりました。家庭では良い夫、良い父親、そして多くの人々に尊敬されていました。その誠実さはだれもが認めるところでした。それだけに人々は悲しみました。尊敬される人は一挙手一投足を注目されますが、彼も例外ではありませんでした。特に葬儀のたびに彼が開く黒い手帳が人々の目には気になっていました。未亡人がその手帳の内容の一部を講壇から参列へのお礼とともに紹介しました。
1948年1月23日 ○川○男
1948年3月13日 ○本○子
1948年5月11日 ○沢○雄
1948年7月31日 ○藤○夫
彼は葬儀で孤独そうな人を見つけると手帳にこのように日付と名前とを書き込んでクリスマスになると自宅に招待し食卓を囲んでいました。それも50年もの間続けていました。彼は神の愛をあるとき経験し、少しでも孤独の人と分かち合いたいと考えたのでした。この話を聞いた参列者はだれもが涙を流しました。
ここで少し愛について学びましょう。神は新約聖書を書くためにギリシア語を選ばれました。ギリシア語では6つの愛と訳されうる語があります。(数え方によっては9つになります)
エロス(性愛)、マニア(物への愛)、ルダス(遊びへの愛)、ストゲ(友愛)、プラグマ(現実的な愛)、そしてアガペー。最後のアガペーこそ最高の愛であって、相手を選ばず(選べば、それは<好き>であって、感情の世界の出来事。愛は意志の世界の出来事です)、条件をつけずに親切にするものです。神にのみ存在し、実行可能です。そして私たちにとって目標であり、理想です。
へブル語は旧約聖書を書くために神が選ばれた言語です。言語はその文化と不即不離の関係にあります。日本の文化とへブル文化との間には多くの共通点があります。愛に関して言えば、結びつきが共通項です。人間関係上の結びつきは強いのが日本文化の一つの特徴です。へブル語において愛と訳されうる語は結びつきに強さに従って使い分けられます。はじめにヘーン。これは一回性、一過性の親切です。たとえば道を尋ねられたときに教えてあげるなど。次にヘセッド。これはもっと結びつきは強くなります。愛し合っているカップルがその好例です。お互いに犠牲を払える関係です。一番結びつきが強いのはツェダカーです。これは誓いに基づいた誠実さ、と訳されます。結婚したカップルが例です。「順境のときも逆境のときも愛します。健康のときも病気のときも愛します」と誓約し、それに基づいて愛を実行します。では結びつきの前提となるものは何でしょうか?それはアハーバーと言いますが、選びです。心の動きです。神はあなたを愛して選んでくださいました。あなたには愛することができる、あなたには愛の建設という使命を果たすことができる、という思いとともにあなたを選んでくださいました。新約聖書においても同様です。「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15章16節)
選びをあなたが信じるとき、あなたの愛の建設はスタートします。
教会の建設
11-16節に教会建設が具体的に表現されています。キリストの体とは教会のことです。12節にはこれを建てあげるようにと薦めています。教会はあなたに癒しと寛ぎを提供します。勝利教会のホームページのタイトルは『癒しと寛ぎの時空間』。私たちはさまざまに思い悩み、疲れ、傷つき、立ち止まります。そのようなときに癒しと寛ぎが必要です。私はときどき『勝利教会は勝利温泉だ』と言います。意味するところを分かっていただけると信じます。教会は実際そうでなければなりません。厳密には温泉であるべく努めているといったところです。また教会はあなたがイエスさまという人間として最高峰のお方の人格へと近づけさせる場と機会とを提供します。すべての人は罪、弱さ、心の傷や人格上の歪を持ち、そのような意味でどんなにすばらしい人に見えてもどんぐりの背比べであり、模範とするならイエスさまこそふさわしいのです。教会においてともに志を同じくする者同士励ましあいながら最高のお方を見つめて行きます。ともに聖書を開きイエスさまのお姿を拝します。近づけば近づくほど私たちはイエスさまに似て行きます。夫婦がなぜ似ているかと言えば、一緒に過ごす時間が長いからです。そしてイエスさまに似ていくことが教会建設の中身と言うことができます。あなたの成長はキリストのある部分の成長であり、他の部分にとっても益となります。運命共同体なのです。教会建設とはこのような仕組みで前進します。どうかあなたの賜物を発見してください。そしてそれを磨いてください。それはあなたにとっても喜びでしょうし、兄弟姉妹にとっても同様です。右足しか伸びないのでは困ります。左足にも同じペースで伸びて欲しいものです。ただし個性的に。右足と左足、似ているようでも異なります。右手と右足、役割の違いが明確です。たとえあなたの賜物が他の人のものと同一のものに見えても、他のものと組み合わせることによりあなたの奉仕は世界でたった一つのもの、ユニークなものになります。あなたは個性的な一人の人として輝きます。繰り返しになりますが、あなたが輝くことが他の人にも必要であり、益になります。同じ一つの体に属しているから。キリストの体の一部分同士であるから。神の期待があなたに熱く向けられています。あなたにはそれが感じられますか。
希望の建設
4節に「望み」という語が見られます。いつでもどんな場合でも私たちは希望を忘れるべきではありません。親は決して子どもを失望させてはいけませんが、大人に対しても同様のことが言われなければなりません。私たちは互いに失望をさせてはいけません。希望を常に分かち合わなければなりません。理由は10節にあります。神はあなたの必要をすべて満たすことができます。だから諦めてはいけません。希望を持った心の態度とはどのようなものでしょうか。そのようなことを考えているときに、次のような文章に出会いました。
アナン事務総長の生きる姿勢
コフィー・アナン氏は、35年間にわたり国連の職員として働き、1997年からは事務総長として活躍しています。彼に関しては、偏見の目ではなく客観的にものごとを見、判断することができる指導者であるとの評価が定着しています。アナン氏はガーナ出身ですが、17歳の時に経験したある出采事が自分の生きる姿勢に大きな影響を与えたと証言しています。ある日校長が教室に入って来て、大きな紙を生徒たちの前にかざしたそうです。その紙の中央には、小さな黒点が書かれていました。
校長はこう質問しました。
「さあ諸君、君たちには何が見えるか」
全員が、「小さな黒点」と答えました。
それを聞いて校長がこう答えました。
「全員が、小さな黒点を見ているのか。大きな白い紙と答えた者はひとりもいないのか。そのような姿勢でこれからの人生を生きてはならない」(『クレイ』2005.1)
つい私たちは欠点であったり、あまりにも小さいことに目を奪われ、かえってそれにコントロールされた生活をしているのではないでしょうか。根本的な理由は何でしょうか。それは罪から来る恐れ。罪を犯したと意識(無意識もあり)していればやがては罰を受けることに肯かざるを得ません。これが失敗を招く原因です。つまり失敗への恐れです。愛が恐れを消します。愛には恐れはありません。第一ヨハネ4章18節にそう書いてあります。もちろん神の愛、アガペーという愛です。どうか信じてください。あなたはアガペーという愛で、神により愛されています。この愛があなたの心を満たし、生活の中で感じられるとき、あなたはあらゆる恐れから自由になり、希望の毎日を生きることが出来ます。あなたは三つの理由で今の人生に召されています。ご理解いただけたでしょうか?