285 礼拝の恵み
聖書箇所[イザヤ60:1−3]
今年も良い礼拝をささげて行きたいものですね。これは人間の弱さですが、どんな良いものでもたびたび経験するようになればマンネリ化も避けられません。もし礼拝がそうであったらなんともったいない!そうならないためにもこの学びが必要です。礼拝であなたが受ける事の出来る恵みを整理してみましょう。
人生の方向を正してくれます
詩篇119詩篇9−12節をお読みください。
生きることは前進していることです。もしそうであると方向が正しいのかはとても大切です。
音楽会に出掛けようと慌てて電車に飛び乗ったら、反対方向だったなんてことありません?
友人からペンキ塗りがとても上手ということで家の外壁のペンキ塗りを頼まれた人がいました。残念ながらその友人は外出する用事があり、家までの地図をメモしてくれました。それを見ながら出掛けてみるとすぐに友人の家が分かり、手際よく塗り、終わってみると彼も大満足!しかしその時気がついたのは実は塗ったのは隣の家だった、ということ。能率と効率は似て非なるものです。電車に乗ったり、ペンキを塗ったりすることの能率は100%でも、効率はゼロ。方向が間違っていれば徒労に終わります。これが人生に関することであれば、莫大な損失と言えます。とても音楽会やペンキ塗りの比ではありません。正しい方向へ進むことこそ確実に祝福を得る道です。先の詩篇にあるように、みことばがそれを満足させてくれます。ところで私たちはだれでも幸せを願っていますが、その基盤は何でしょうか?それは人間関係。しかも地球の裏側に住んでいる人との関係ではなくて、身近な関係。つまり、家族です。聖書、すなわちみことばには正しいあり方および方向性について沢山の適切な助言が用意してあります。たとえば。。。。
愛のチェックリスト
聖書のみことば:Iコリント13:4-7
愛は寛容であリ、愛は親切です。Iコリント13:4
美穂さんという女性は、家庭生活の忙しさが原因のイライラに、コリント人への手紙第一13章のみことばを使って対処しようとしています。4節〜7節を「愛のチェックリスト」と名づけて、カッとした時には思い出すようにしています。例えば、次のように使っているのです。家族旅行に出かけるある朝のことでした。午後一番に出発しようと、彼女は朝から駈けずり回っていました。夫の淳さんは、家で子どもたちの世話をしながら、荷物の準備をしているはずでした。スーパーで必要なものを買い、実家に寄り、郵便局と銀行に行って家に戻ると、夫は午前中かけて旅行に使いもしない車を洗いワックスをかけていたというではありませんか。美穂さんはムッとして、きつい言葉を夫に浴びせました。ところが間もなく、「愛のチェックリスト」のみことぱが頭に浮かびました。「愛は寛容であり、愛は親切です。」彼女はひとりで祈ってから、怒りにまかせてひどいことを言ったことを謝りました。夫もすまなかったと謝り、その目の午後、少し遅れて出発しました。怒りでムカついて、辛らつなことを言ってしまったなら、コリント第一13章の「愛のチェックリスト」を思い出してください。言う前に思い出すことができたら、もっと良いのですが…。『デイリーブレッド』(2005年2月11日金曜日)
礼拝はみことばで心の中をいっぱいにすることのできる最高の機会です。みことばは愛の神から発せられたことばですから、愛に味付けられたみことばはあなたの心を真に満腹にし、すなわち納得させてくれます。こうして正しい人生の歩みを私たちはすることができるようになります。
魅力的、かつ新しい世界へ案内してくれます
夢を与えてくれると言い換えてもいいでしょう。アブラハムの経験したことについて少し考えてみましょうか。
創世記22章2節以下をお読みください。常軌を逸した主のご命令!と表現してもいいでしょうか。異教ならいざしらず、天地の造り主なるお方がこのようなことをおっしゃるとは。でも確かに主のおことばでした。結論は9−12節にあります。あなたもご存知、これはテストでしたね。テストは学生のためにあります。学生アブラハムは見事合格!しかし驚きますね。
あなたにはこのような類の導きを感じたことはありませんか?すなわちあなたの望む方角や期待することとは反対の指示を受ける経験です。私にはありました。確かに。過去形を使ったのには理由があります。結局神さまと戦って勝ち目はないと今では悟っているからです。私には実業家になる夢がありました。でも「牧師になれ!」と。そして今の私があります。その時は確かに大きなショックでした。今は大変感謝し、幸せですが、神に降参するまでは神のアイディアの方が優れているとは分かりませんでした。だから激しく抵抗しました。礼拝の中で私たちはこの種のチャレンジを受けます。これが私たちには良いのです。何に良いか?って。真の夢を育むのに。真の夢はあなたを高め、周囲の人々に大きな恩恵を与え、社会を明るくします。アブラハムは主を礼拝していく中でこの葛藤を葛藤し、テストに合格し、結局は大きな祝福を受けました。真の礼拝の中で私たちは「ここが私の居場所!」「これが私のするべき仕事!」「これこそ私はしたかったことなんだ!」と納得させてもらえるようになります。これは聖霊のインスピレーションです。聖なる直感です。聖なるイマジネーションです。私は25年目に大宮駅前で路傍伝道をして今の勝利教会を始めました。生まれて初めて大宮の地を踏んだときには驚きました。駅前は大正時代の風景でした。でもここが私の伝道のスタート地点だと確信していました。そしてこれまで実に多くの祝福を受けて来ています。その間、情熱、やる気、熱気、元気、勇気などあらゆる良いものを補給され続けています。聖なる直感、聖なるイマジネーションのわざです。神の側の責任とも言えますが。クーエという有名な学者がこう言います。「想像力と意志力が競争したら、100%前者が勝つ」と。礼拝の中であなたは聖霊の働きをいただいて、すばらしい夢を育むことが出来ます。なんと礼拝とはすばらしいものなのでしょうか。
シェキナーの経験をさせてくれます
イザヤ書60章1−3節、歴代誌第二9章1−3節には主の栄光が現れたとありますが、これがシェキナー。これをあなたに経験させてくれるのが本来の礼拝のあり方です。シェキナーという語は聖書の中には見つけられませんが、へブル語シャーカン(住む)から派生した語です。臨在と訳したらいいでしょうか。あなたは礼拝の中でシェキナーの経験がおありですか?これを経験するとあなたのたましいに、いやし、大きな喜び、勇気がしっかりと与えられます。そうしてあなたは確信と平安とを持って叫びます。「やるぞー、できるぞー、心配ない!主は私の味方―ッ」と。果たしてこれをことばでどの程度正確に表現できるのかは心もとないのですが、一つ導かれたアイディアは恋愛にその症状は似ているということ。これでさらに理解が進むかなあーという期待とともにご紹介しましょう。
「恋愛小説家(As Good as it Gets)」という映画をご存知でしょうか。メルビンは強迫神経症を患っています。レストランで出されるフォークやナイフを信頼できません。常にぴりぴりしているメルピンのテーブルには一緒に食事をしてくれる人がいません。でも一人というのは寂しいもの。だから、レストランに出かけます。でもそんなメルビンを知っているレストランの従業員たちも彼を避けようとします。そんな中、メルピンは従業員キャロルを愛するようになります。そしてメルビンが愛を告白します。メルビンはキャロルに「君をほめたい」と話しかけます。「へえー、そう、じゃあー、私をほめてみて!」と言われ、メルビンは自分の弱さを告白します。「僕は今強迫神経症に苦しんでいる。お医者さんは薬を飲めぱ60%ぐらいは治ると言ってくれた。でも僕は薬を飲むのが嫌い。だから飲まない。」「いったい何を言っているの?」と怪訝な表清で聞くキャロルにメルピンは話し続けます。「君と会ってから僕は薬を飲む気になったんだ。そう、君は僕にもっといい人(better man)になろうという思いを起こさせてくれたんだ。」しぱらく呆気にとられていたキャロルはこう言います。「私がいままで生きてきて、受け取った最高のほめことばだわ!」
恋愛、それはお互いを高めあおうという思いを引き起こすものでしょう。相手を前に「私はもっと良い人間になろう」という気持ちになるはずです。それが恋愛というものでしょう。あなたと神さま、あなたとイエスさま、どのような関係ですか?
礼拝、それは畏敬の念と憧れと愛情と親しみと見上げる心。。。。あと、あなたには何が思い浮かびますか?結局、謙虚さこそ鍵なのでしょうね。