286 うつの克服
聖書箇所[ピリピ4章6−9節]
今回はうつをテーマに考えましょう。うつ病患者は日本に現在500万人以上いるそうですが、うつ病を取り上げようとしているのではありません。気持ちが深く落ち込むことを指してこの語を使用しています。このようなことはだれにでもあるのではないでしょうか。でも心配いりません。
何も思い煩わないで・・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。・・・神の平安が・・・守ってくれます(ピリピ4:6−7)
はじめに人はなぜうつになるのかをお話ししましょう。うつになっている人は心の中に怒りを秘めています。そうです。怒っています。ではなぜ怒っているのでしょうか。それは存在不安。環境が圧力をかけてきますからそれは起きます。少なくとも心の中で叫びます。「私は必要のない人間なんだ」「俺の持っている能力はあまりにも低く、この世界では無意味だ」「私はだれからも歓迎されていない」などなどの思いが心の中に充満しています。このような存在不安はなぜ起きるのでしょうか。もうすでにお話ししましたが、環境という語を使用しています、どのようなものでしょうか。私たちは常に競争にさらされています。勝つこともあれば負けることもあります。しかし負けたときに、気持ちは落ち込みます。また自分の意にそわないことを受け入れることを強制されることもあれば、意見の変更を求められることもあります。落ち込まないほうが不思議とさえ言えます。負けた場合は環境の圧力に負けたということができますが、このように表現したら分かりやすいでしょう。自分の希望にそう形で変わっていかない環境、不動の環境を頑丈な壁としましょう。その壁に向かってボールをあなたは思いっきり投げた。すると跳ね返って来てあなたの顔を痛撃した。気持ちが落ち込まないほうがどうかしています。
さてどのようにしたら、うつを克服できるでしょうか?
変えることが出来ないものを受け入れる
私たちの周囲には変えることのできないものが溢れています。男であることや女であること、産んでくれた親たち、名前、年齢、太陽の周りを地球が回っているなどなど。このような変えることができないものと戦っても、つまり変えようとしても無意味です。そのようなものとして受け入れなければなりません。これがうつを克服していくための第一歩です。
そのために必要なものがあなたに向けられた愛。しかも本物の愛でなければなりません。存在不安というテーマを考えると、基本的信頼という語を連想させられます。社会に対する、あるいは人生に対する心の構えを表現した語ですが、基本的信頼が60%以上あると人は幸せに生きられると言います。人間関係も落ち着いていて、理性的にも情緒的にも安定しています。反対に40%以下では精神病になると言われています。以前の私は60%未満であったと自分では思っています。そのあかしにいつも構えて生活をしていました。「いつかだれかが私を攻撃して来るだろう」という思いです。今のような時代に利点はあると言ってもいいかも知れませんが、普通の人間関係の中ではおおいに支障が出ます。ちなみに私は中学生の頃、学校で一番のまじめな生徒と評されていました。長い廊下の先に、50メートルもあるでしょうか、先生の姿を発見すると最敬礼をしていました。先生たちはさすがに嬉しかったようです。しかしこのような態度は私からすれば気持ちから出たことではなくて強迫されてしていたことでした。強迫されてするというのは、親からプログラムされた通りに、まさにロボットのように仕込まれたという意味です。心は反対でした。つまり先生を信用してはいませんでした。個人的な思いは疑いと警戒心です。フロイト的に言えば口唇期的パーソナリティーです。一歳半までを口唇期と呼びます。主に口と唇を通して社会と接していくからです。口唇期的パーソナリティーはふたつの症状を持ちます。はじめに言いますが、症状は反対でも問題点は同じです。それは愛されることにおいて課題を残したまま成長したというもの。さてこの口唇期的パーソナリティーの症状ですが、赤ちゃんがおっぱいを飲む場合をイメージすると分かりやすいでしょう。乳首に吸い付きます。吸い続けます。人生を通してただただ「もらおう、もらおう」としか考えない人がいます。もう一方で、乳首に噛み付く場合があります。人生を通して攻撃ばかりしている人がいます。正しくかつ適切に愛を受け取ることに失敗したつけがまわってきています。。でもこのようなことが起きるのは仕方のないことでもあります。なぜって。罪ある人間、種々の弱さを持つ人間がする育児であるから。先に本物の愛と言いましたが、神の愛に出会えばいいのです。イエスさまの自分を捨てる愛。これぞ本物。「愛の神、誠実の神により私の人生は安全かつ実り豊かに導かれている」と、愛を理解したときにあなたは納得できるはずです。あなたの心に平安が充満します。
変えることが出来るものを変える
実行しなさい,と次のみことばは薦めています。
すべての・・・良いこと・・・実行しなさい。そうすれば平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4:8−9)
変えることが出来るものはたくさんあります。良いものを見つけたときにそれを大切にすること,、さらにそれを実行しようとすることはもっともっと良いことです。
人間が人間であるのは自由意志の存在です。つまり選ぶことができる。選ぶ能力の活用こそあなたの人生を良くして行くための鍵。動物もロボットも自由意志を持ちません。選べません。本能や事前に組まれたプログラムに従って動きます。あなたが人間であるのは選ぶことができるから。
ですから、友人を選んでください。どういう基準かって。あなたを高める人を選ぶことです。「朱に交われば赤くなる」と言います。
日常の行動パターンをチェックしてみてください。人があなたにこういう態度をとったら、こういうことを発言したらどう対応するか。
悪習慣は止めることを選択すべきです。
実はうつになるには、ここが大切なことですが、うつになるための選択をすでに心の中でしているからです。選択してしまえば、その後はそのプログラムに従って進むしかありません。あなたを愛している神さまがあなたに知恵と勇気とをくださいます。パウロはかつてクリスチャンを迫害していましたが、これは強迫されてしていただけです。先に紹介した私の例と同じです。強迫ですから、選択の余地はありません。すなわち迫害しない道を選ぶことができませんでした。でもイエスさまに出会って彼はすっかり変えられました。Uコリント4章16節などをご覧下さい。彼を取り囲んでいる環境は彼にとって好ましくはないようですが、「(霊)魂までは売り渡さないぞ」という気迫がうかがえます。「環境がどうであろうと、それに左右はされない。私は悪い環境にもかかわらず、明るく元気に生きていく」と表現しています。そのようにあなたには読み取れるでしょうか。私はそのように理解しています。ところであなたは礼拝をどのように理解していますか?礼拝の中では聖霊が働きます。それはいやしの油です。あなたの心の傷口を流れ、いやして行きます。いやされて行く中であなたは同時に選択の能力を育てます。あなたは人を愛する前に愛されなければなりません。愛する前にいやされなければなりません。さきにいやしがあって、その後にあなたは人を愛することもできるし、正しく適切に選択することもできるようになります。「ない袖は振れぬ」とはよく言ったものです。お金がないのにどのようにそれを使えますか。まず入手してから。簡単な理屈です。
聖霊福祉事業団の創設者である長谷川保はエデンの園という有料老人ホームを作ったときに「これから、100作る」と言ったそうです。実際に出来たのは11。でもこう言いました。「100と言っておけば、11はできる!」精神の自由のある人のことばではないでしょうか。あなたは今自由ですか?落ち込むことも落ち込まないこともあなたが選ぶのですよ。
赦す
最後はこれ!難しい!
でも重要!うつは存在不安からとお話ししました。存在不安をあなたに起こさせた環境に対してあなたは怒っています。それは被害者としての正当な表現であり、権利の行使であるといえます。さてここで考えたいのは被害者であれば損害賠償を求めるなり、それなりのアクションは想定されてもいいでしょう。イエスさまの場合はどうであったでしょうか。私たちが見習うべき救い主イエスさまはその権利を放棄されています。つまり、赦しています。放棄を強制されたのではありません。自らの自由意志でそうしていらっしゃいます。神は被害者であるにも関わらず、加害者である私たち人間の方に出向いて、なんとご自分が和解金(キリストの血)を用意して、和解をしようとしておられます。人間的な標準(下のみことば参照)とはまったく反対!ここに私たちへのチャレンジがあります。憎んだままでは気持ちは晴れません。赦さないままでは気持ちは晴れません。教会の存在意義の一つはこここにあります。赦すことを練習する場です。いわば自動車教習所。踏み切りの上でエンストしても事故にはなりません。でも教習所の外では大変なことになりえます。神の家族として私たちは愛し合う練習を重ねます。練習するうちに良い習慣となって身につきます。悪い習慣は怒りのエネルギーを活用して生きるというものです。もうあなたにはお分かりでしょう。このような生き方は古い生き方、古いライフスタイルとして捨てねばなりません。ある人は「以前のようにうつではない、元気な自分に戻りたい」と言います。そうではないのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(Uコリント5:15−18)
新しいライフスタイルが必要です。新しく生まれ変わるのです。あなたの新しいライフスタイルに主の祝福を祈ります。