296 心にもっと喜びを

聖書箇所[詩篇4章1−8節]

   めがねをはずしたら 川崎友美(横浜市・下和泉小4年)

        わたしは
       二年生からめがねをかけ始めた 
       めがねをかけると 
       たぶん
       みんなと同じに見えている
       けれどめがねをはずしたら
       みんなには咲わえない
       ぼやけてなんとなくいい世界
       わたしだけの特別な世界を
       ときどき楽しみながら遊んでる(『読売新聞』2000.12.28)

 この女の子の中には喜びがありますね。幸せに育っています。詩は人生経験から生まれてくるものでしょうから、まださほどない彼女の場合は、きっとお母さんがこのように考えるのでしょう。私たちもこうでありたいものです。

 今回は喜びの生活、もっと喜べる生活について考えてみましょう。ダビデの人生経験から3つの助言を受け取ることが出来るでしょう。

成功体験を思い出す

 過去を振り返ってみて、「あの時はほんとうにピンチだったけれども、なんとか乗り越えることができた!」、「そうだった・・・いやあ、ありがたかった」、なんていう思い出はありませんか。きっとあるはずです。神さまからのプレゼントですよ。辛いときも、悲しいときも人生にはあります。神さまが与えてくださる「ゆとり」(1)ですね。私が今思い出すのは新潟に伝道旅行に行ったときのことです。五月晴れの中、高速道路を飛ばして三国峠を越えました。完全な雪国でした。はじめは注意深く走っていましたが、つい慢心していたのでしょう。市内までたどり着いて、目の前の車が急にスピードを落としました。私は「完全に追突する!」と瞬間思いました。ブレーキを雪国らしくなく思いっきり踏んで、車は90度回転!でも前方の車はさっと、左のガソリンスタンドに入って行きました。私は神さまに感謝しました。このとき、私はアイデンティティーを確認しました。「そうだ、私はイエスさまを伝えに今、ここにいるんだ!」「私の使命は・・・」

 成功体験を思い出すとアイデンティティーを確認することができます。これがあなたに大きな喜びを提供します。職場や家庭において「私はここにいてもいいんだろうか?」なんて疑問を持っていては喜びはありません。

     はるがきて めが さめて

     くまさん ぼんやり かんがえた

     さいて いるのは たんぽぽだが だれだっけ

     だれだっけ

     はるが きて めがさめて

     くまさん、ぼんやり かわにきた

     みずに うつった、いい かお みて

     そうだ ぼくは くまだった

     よかったな

 冬眠から覚めたくまさんが、「自分はだれだっけ」と考え込み、そして「自分は熊だった」と思い出すほほえましい詩です。些細なことでいいのです。過去の成功体験を思い出してみてください。あなたは神さまに愛されている「神の子」であることがよく感じられるはずです。そして心の中に喜びが広がります。

良い(健康な)感情を持つ

 3−5,7−8節をお読みください。これも大切な事です。反対に、悪い感情とはにがい思い、憎む思い、他者を裁く思いなどです。これらのものを克服してこそ喜びはいっぱいになります。幸せであるためにはこれはとても役に立つ小道具です。というのは感情の座は心です。心にこそ信仰は生まれ、また育ちます。信仰は私たちの願いを実現します。ゆえに健康な信仰を持つべきです。不健康な信仰とはどのようなものでしょうか。それは否定的な、後ろ向きのものです。「どうせ私は駄目な人間なんだから・・・、きっと失敗する・・・」などです。これも信仰ではありますが、実現したら大変なことになるので、注意しなければなりません。信仰は実現する力を持っているのですから。と言っても辛いことなどがあったり、また続いたりでもすれば、つい悪い(不健康な)感情を持つのが人間です。でもこれを克服しなければなりません。克服するために汗を流しましょう。

  さあ、汗を流しましょう

 何日か前、面白い新聞記事を読みました。「ヒマラヤの高山族が羊を売買する場合、値段は羊の大きさではなく、羊の性質によって決まる。その性質をテストする方法が興味深い。傾斜のきつい山坂に羊を置いて売り手と買い手の双方で羊の動きを見るのだが、急な坂を上に向かって草を食んで行く羊なら痩せていても値が上がり、坂を下りながら草を食んで行くようなら肉付きがよくても値が下がる。上向きの羊なら今は大変でも、やがて山腹に未来が開かれるが、下向きの羊は、今は順調でも峡合の底に至ると飢え死にしてしまうからだ」。このヒマラヤ高山族の取引は現代人に多くの教訓を示唆しています。現代人は簡便かつ安易であるほど価値があると感じ、いくらかの金を投じて現実が規定しているある魅カ的なポストを苦労しないで手に入れようという妄想にとりつかれています。このヒマラヤの羊に例えるなら、現代人の圧倒的多くが下向きに草を食んで行くようになっているのです。・・・・・・さあ、汗を流しましょう。(訳:遠山)(『リビングライフ』2002.6)

 また人間関係でもめたりすれば、これまた良い感情を維持することが難しくもなります。ついさばきやすくなります。さばくのは自分の勝手な基準に従って「あの人は役に立たない、存在しなくてもいい」と考えることです。でもそれは自分の首を絞めることになります。ほんとうに良い社会は弱者にやさしい社会です。もしだれかが「私は強い人間だ」と認識するなら弱い人間を思いやってください。それが真の強さを証明してくれます。もし「私の信仰は立派だ!」と認識するなら弱い信仰の人を思いやってください。それが真の立派さを証明してくれます。強い者には道義的な責任があります、弱者を助けるという。人をさばいている場合ではありません。

  石の枕

 関西に止揚学園といって、重い知恵遅れの施設がある。園長は福井達雨先生で、すぐれた愛の指導者である。この止揚学園にはたくさんのニワトリが飼われている。生活のためと養護教育のためである。中には卵を産まずにエサばかり食べる老化したニワトリもいる。こうなると人問は非情で、卵をよく産んでいる時には、とても大切にしていたのに、早く処分して肉にし、新しい若いニワトリに買いかえた方が得だ、と考えるようになる。ある日のこと、ニワトリ係の三田君(重い知恵遅れの少年)が大声で「ニワトリを殺したらあかん」と怒鳴りました。どうして?って聞くと、「先生、よく卵を産むニワトリの分まで一生懸命に産んでいるんや。だから殺したらあかん」。両者が力を合わせて楽しく素晴らしいニワトリ社会をつくっているのに、もし産まないニワトリを殺すと、産むニワトリまで不幸にしてしまうのや。また産むニワトリだけが大切にされると、そこから白分だけがニワトリなんだ、という高慢さが生まれ、今まで互いに助け合い、心をひとつにし、温かい血を通い合わせてきたニワトリの関係がなくなり、冷たいものになり、素晴らしいニワトリ社会は崩壊し、まことに不幸な結果となる。(『石の枕』大川従道)

 良い(健康な)感情を持つためには自分の分を知ることです。だれにも、できることとできないことがあります。できないことについてぶつぶつ言ってはいけません。神さまがその現状を「良し」とされています。必要な時にはできるようにしてくれます。「私の持っているものは小さい」などと卑下してはいけません。だれがそのように判断したのですか?神さまが最終的に判断なさいます。私たちは高慢になってはいけません。感謝をすべきです。「いつも私の為に最善をなしてくださる神さま、ありがとう!」と言うべきです。そこに磐石の喜びがあります。

ことばを正しく使う

 6節をお読みください。ことばはモノを生産します。人間には製造能力が備わっています。たとえば体は血などを作ります。心も作る能力を持っています。その心からことばが発せられます。ゆえに正しく使わなければなりません。そうすれば生活の中に良いモノが作られます。良いモノはあなたに喜びを与えてくれます。

 開拓満3年を迎えたその日、教会は分裂を迎えた。愛する人たちは自分たちで教会を出て行った。全身から力が抜け、世界は色を失った。仕事と伝道に明け暮れたこの3年問。自分のいったい何が悪かったのか?それからも救われる魂は起こされるがとどまることがない。5年目を迎えたある日の礼拝、会堂の長いすにはとうとうだれもいなかった。母校・生駒聖書学院の榮義之院長が沖縄に来ていると知って面会をお願いした。那覇市のイタリアンレストランで食事しながらこれまでのことを話した。じっと話を聞いていた榮氏は、一言こう言った。「悪い言葉を一切口から出してはいけません」早速実行開始。しばらくして会杜で言われた。「最近無口だね。いつもはあんなに毒舌なのに!」…納得。そんなある日知らない紳士が訪ねて来た。「私のアパートの住人で家賃を2年間滞納の方がいる。その方の保証人はあなたです。139万円払ってくれ!その人にも出て行ってほしい。私は卒倒しそうになり「なんだとこのバカ野郎!誰が払うか!」と心の中で叫んだ。が言葉には出さず、深呼吸の後、こう言った。大変でしたねえ、でももう大丈夫ですよ。もっと早く来たらよかったのに…」と心にもない言葉を告白した。その日夜中までかかって、教会には来なくなった元求道者の引っ越しをー人で行った。午前3時最後の荷物を軽トラに積み込み、家主に深々と頭を下げた。元求道者には「もう心配しなくてもいいよ」と言ってあげた。次の日、携帯が鳴った。家主からだった。「私はあの言葉と行動に感動しました。お金のことはもう結構です。なかったことにしましょう。教会がんばってくださいね」・・・(『クリスチャン新聞』2005.5.29つきしろゴスペル教会牧師・砂川竜一)

 ことばを正しく使うためのとても簡単な方法を紹介して終わりましょう。それは友人に聞くこと。「わたしのことば使い、どう思う?」と聞いてみましょう。真の友人なら真実をあなたに語ってくれるでしょう。喜びがもっともっと増やすための小さな、でも勇気のある行動です。あなたの生活に神さまの祝福を祈っています。