297 新約聖書を生きる

聖書箇所[エレミヤ31章31−33節]

 今回は新約聖書を全体的に見ましょう。と言っても紙面に限りもありますので三つのキーワードで理解するようにしましょう。そして学ぶ理由は、単なる知識の獲得ではなくて、これを生きるためです。実に魅力的なもので旧約時代の人たちは望みつつ、ただ待たなければなりませんでした。彼らはこれを新しい契約と呼びました。上記の聖書箇所をお読みください。これを短く新約と表現します。でもどうなんでしょうか。かえって身近にありすぎてその魅力に気がつかないなんてことは?!

いのち

 ヨハネの福音書12章25節をお開きください。「いのち」という語がありますね。この語を中心としてのメッセージはこれです。

 目に見えないものに焦点を当てて生きる。

 目に見えないものって何でしょう?それは愛、思いやり、友情、正しさなどなど。物を上げてもそれがそのまま愛であるとは限りません。物イコール愛ではありません。さて、日本語では同じ「いのち」ですが、ギリシア語では異なります。自分の「いのち」はプシュケー、永遠の「いのち」はゾーエー。前者は目に見えるもの、後者は見えないもの。私たちは生活をする中で、つい目に見えるものに惑わされるのではないでしょうか。そして目に見えない、とても大事なものを忘れがちです。もし目に見えるプシュケーが一番大事であるとすれば(これは日本の「いのちの教育」方針そのものですが)、イエスさまが十字架の上で死んだことは良くないことになります。まさか!!プシュケーよりも大事なのがゾーエーです。これは目に見えません。目に見えないものを大事にして生きる、これが新約聖書を生きることです。

 『おー、神さま』という映画があります。スーパーの野菜売り場で働く青年の前に老人の姿をした神さまが現れます。人々が持つ信仰に対する誤った考えを改めさせるために彼をメッセンジャーとして使うためでした。でも彼は取り合おうとしません。「俺は仕事で忙しいんだ!あんたなんかに、かまっちゃーいられないよ!第一、毎日仕事のことで店長に叱られてばかりいる、そんな余裕なんかないよ!」でも神さまも引き下がりません。彼は言います。「諦めろよ、だいいち俺は教会に行ったこともないんだよ。そんなことぐらい知ってるだろう」。すると神さま曰く「そうか。私だって行ったことないよ」

 こんなやり取りをしている間に、少しずつ神さまの人(神)柄に惹かれ、ついにメッセンジャー役を引き受けます。あるとき彼は有名な説教者が多くの人の前で熱弁を振るっている場にいました。突然彼は立ち上がり、こう叫びます。「みなさん、この説教者の言うことはうそばっかり。信じてはいけません」驚いた説教者は目をむき、こう言います。「私をだれだと思ってる。何も知らない若造が何を言うか!」でも彼は落ち着いています。「でも神さまがそう言ってたよ!あの説教者は何も分かっちゃーいないって」説教者を侮辱した罪に問われた彼はやがて法廷に引っ張り出されます。検事とのやりとりが始まります。「神さまってどんな格好をしていましたか?」「そのときによってまちまち、ボーイであったり、掃除人であったり・・・」「それでどんな顔をしていましたか?」「普通のおじいちゃんです」こういうやり取りがなされるたびに傍聴席では笑いが起こります。検事もあきれた様子で、結局無罪放免。映画は二人の別れの場面で閉じて行きます。「神さま、行ってしまうんですか?」「うん、もう人間にはこりごり。これからはアフリカに行ってキリンやシマウマたちとのんびり暮らすよ」「寂しくなるなあー」「いや、覚えていなさい。聞いているから、必要なときはいつでも話しかけなさい。いつでも」

 単に教会批判の映画ではないでしょう。何を表現したいのでしょう。礼拝に毎回欠かさず出席すればいい、というわけではない、豪華な教会堂があればいい、というものでもありません、といったところでしょうか。目に見えるものにあまりにも重きを置くことへの警告です。少なくない人々が、神さまが分からない、天国も理解できないと言います。ともに目に見えないものですね。でも目に見えないものに焦点を当てて生きるとするならば見えてきます。

良い

 マタイの福音書7章17節をお開きください。「良い」という語がありますね。この語を中心としてのメッセージはこれです。

 目に見える、良いもの(実)を産み出しつつ生きる。

 さて、日本語で同じ「良い」ですが、ギリシア語では異なります。「良い」木の、「良い」はアガソス、「良い」実の、「良い」は、カロス。前者は内的・本質的に良い、後者は外面的に良い、です。外面的に良いものを実らせているとすれば私たちは自分に、そして自分の生き方に自信と誇りが持てます。内面的に「良い」ものとされた(=イエスさまを信じた)クリスチャンは自ら産み出した外面的な「良い」ものを人々に認識してもらえます。ルカの福音書11章13節ではアガソスは聖霊と置き換えられているので、「聖霊(御霊)の実」(ガラテヤ5章22、23節)と言うことができます。二つのことを指摘できます。あなたがもしクリスチャンであるとすれば、過去を振り返ってみてください。「あなたは、変わりましたねえー」と言われた経験があると思います。もちろん良くなったんですね!カロスな実はたくさん発見できるはずです。そして神さまに感謝。もう一つは発想の転換によりさらに多くの実を結ぶことができます。

 一人の賢人がこう言いました。「私はあの山を動かして見せる」。人々がそれを見ようと集まって来ました。そして言いました。「山よ、動け!」でも動きません。人々が見ている前で、すたすたと山に向かって歩いて行きました。賢人を親、教師などと入れ替えてみたらどうでしょうか。子どもはなかなか思い通りには動いてくれないものです。発想の転換が必要ではないでしょうか。もっともっと実りがあるはずです。

新しい

 マタイの福音書9章17節をお開きください。「新しい」という語がありますね。この語を中心としてのメッセージはこれです。

 新しくされたあなた(ぶどう酒)には新しいライフスタイル(皮袋=当時は羊やヤギなどの皮で作られた)が必要。

 さて、日本語で同じ「新しい」ですが、ギリシア語では異なります。「新しい」ぶどう酒の、「新しい」はネオス、「新しい」皮袋の、「新しい」は、カイノス。前者は時間的に新しい、後者は質的に新しい、です。クリスチャンとして生まれたことはお母さんのお腹から産まれたことよりも時間的に新しい。この新しさにはエネルギーがあります。新しいぶどう酒は発酵しているので、弾力性に欠ける古い皮袋では裂けてしまいます。新しい(柔軟性があり、若々しい)ライフスタイル(皮袋)とは何でしょうか?それは神さまのために生きること。洗濯機は洗濯するのが、冷蔵庫は冷蔵するのが本来の生き方です。そしてもっとも生かされる道です。あなたは神さまによって造られました。神さまが本来与えている生き方をすることが人間にとって一番の幸せです。モチーフと言ってもいいでしょう。あなたのモチーフは何ですか?フランス語起源のこの語は「創作の衝動」を現在、意味します。あなたの人生はあなたが作る芸術作品と言うことも出来ます。立派に仕上げたいものですね。